手放してはならない
『サクラ』
「おう、シンシア、ど……した」
頭の上半分を潰されたが、すぐに再生した。普段戦闘中にはあまり出てこないシンシアだけに、何を言い出すのか少し気になる。
『余裕ぶってるとこ悪いんだけど』
「うん」
『あと十秒くらいで湖面月鏡の効果切れるから』
「もっと早く言えよ!!」
普通に死ぬぞ! 何度も言うけど、能力や術なしでは、あの攻撃は受けられない。ローレンツのような巧みな体術があるわけではないのだ。
「うおおおおお!!」
これまでとは打って変わって全力でその場から離脱する。
あまりの恐ろしさに、這うような気分で逃げる。だが、それがいけなかった。
「キャハハハ! なぁにそれぇ!? あ、もしかしてぇ、そのおかしな術が切れそうなのかなぁ!?」
ヤバい! 狂ってはいるがバカではないらしい。
「湖面月鏡」は発動さえすれば一定時間無敵に近い状態になれるが、その一定時間はかなり短い。はっきり言って、奇襲と時間稼ぎくらいにしか使い道のない術だった。
「何やってンだ!」
ローレンツが助けに入ってくれようとするが、焔狼の吐く炎に遮られて動けない。
「術が切れたところを一撃でペシャンコにしてあげる!!」
ダメだ! 攻撃範囲が広過ぎる! 必死に逃げているつもりだが、いつまでたっても安全圏にたどり着けない。
「くっそぉ!!」
完全に術が切れたと同時に背後を振り返ると、焔狼の巨大な右前足が、オレの視界を覆い尽くしていた。
「バイバイ!」
死を身近に感じたことも、覚悟したことも何度もある。だが、今回は違う。まさか自分が死ぬなんて微塵も考えていなかった。それを甘さだと言われればそれまでなのだが、しかし、こんな怪物相手に闘うことになるなんて、誰が想像できる?
死の間際に際して、頭は良く回っているようだった。ただ、それもいまに至るまでの過程への後悔に使われるばかりで、何も前向きな、今この事態に対処するためのものではなかった。
そこまで思考を巡らせたオレは、愚かにも闘うことを放棄し、両目を閉じた。
辺りを静寂がつつむ。焦りも、恐怖も、痛みすら感じなかった。
これが死ぬと言うことなのか。だが、これではあまりにも拍子抜け過ぎる。
「その行動はいただけないな」
落ち着いた低い声が聞こえる。
「どんな時でも、どんな状況でも」
片方の瞼をそっと押し上げてみようとしてみる。そして、そこに映り込んできたのは
「生き抜く希望を、手放してはならない!」
皇立図書士官学校最強の男の、偉大な後ろ姿だった。
「チィ!」
「かっ、カ!」
「か、か、か……会長ぉぉおぉおお!!」
まだ今いち状況が掴めないでいたが、一つ、確信があった。
勝った。
その想いは絶大な安心感を持って、オレとローレンツの胸に抱かれる。
オレ達二人で、ただ逃げ回ることしか出来なかった相手を前にしても、である。
「ミナセ君」
「は、ハイ!」
「この場から距離を取って。あれの相手は僕がするから」
「了解です」
オレに指示を出している間も、ずっとこの人は、左手に逆手で構えた一本のナイフのみで、焔狼の超質量攻撃を受け止めているのだから。
「バカめ、誰が逃すと思って……」
タニア・クラインが、オレ達に向かって極大の火炎を放とうとする。
その視線が自らから外されたことを見逃す会長ではない。
即座に焔狼の右前足をいなし、跳躍すると、その勢いそのままに狼の顎を前蹴りで打ち上げる!
「あなたの相手は僕だよ」
「ッッッッッッ!! 殺ス!!!」
不発に終わった炎のブレスを口の端からこぼしながら、ギロリと炎狼が会長を睨んだ。
「なんなんだ、アれ……」
「全くだ」
会長のおかげで、なんとか安全圏まで逃げてこれたオレとローレンツが、唖然として化物たちの戦場を見つめる。
『サクラもあれくらい強ければかっこいいのに……』
「無茶言うなよ」
会長の強さは一般人とは物が違う。真似しようとか、目標にしようとか、そう言うレベルではないのだ。
おそらくこれからより激しくなるだろう、戦場を遠巻きに見つめながら、先ほどのオレの危機一髪を思い出して、身震いする。オレは、これから一生会長に頭が上がらないな。そう思ったが、よく考えると、これまでと全く変わらないことに気がついて、一人安心した。




