逃げるぞ
階段を昇ってすぐ右手の部屋。ここがおそらく目的の場所。あいつははっきりと部屋番号まで言っていたわけではないが、部屋から微かに漏れる述式結界の文書エネルギーが、私にそうだと告げている。
鍵穴に述式転化で水を生成して流しこみ、凍結させて鍵にする。小さい頃から冗談半分で考えていたことが、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。
部屋の内装はごく普通だった。ただ、何となく予想していたよりは綺麗だ。例の本棚は特に大切に扱われたいるようで、ホコリひとつない。いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、一刻も早くあの本を、あの娘に見つかる前に……
「よう、よくここがわかったな」
「っ!? な、お、お前、一体いつカら!?」
ヘロディア・ローレンツはあまりの驚きに肩を激しく震わせて振り返る。
「最初からいたよ? どうやって扉を開けるんだろって考えてたら、あんな方法があったんだな」
こいつ、図書士なんかより空き巣とかの方が向いてるんじゃないか?
「さて、『浦島』の原本はもう、オレが預かってる。その本棚のどこを探してもないぞ」
まさか、ここまで見事に引っかかってくれるとは思わなかった。オレもなかなか捨てたものではないな。
「なんのこトだ?」
ここまで来てとぼけるのか。
「お前が今日の『火焔兎』の増殖、あと『焔狼』出現の犯人だって言ってんだよ」
「……」
今度はだんまりか。ただ、何か少し考えるように視線をオレから外した。
「どうして、そう思った?」
当たり、ということだろうか。これは。
「最初の『焔狼』の出現の時、お前はヤツの炎からマリア先輩を庇った。理由はそれだけだよ」
「そ、そんなこトが!? アレはたまたま……」
「それはマリア先輩への侮辱だぞ」
オレの言葉にローレンツの肩が震える。
「マリア先輩は既に軍の戦闘にも参加してるエリート中のエリートだ。そんな人が見抜いてかわせないほどの奇襲をかわせた? しかも他人を庇うような余裕まで持って? 笑わせんなよ」
ヤバい。すこし楽しくなってきた。
「そう、だよ、そウさ。私がやったんだよ、だから……」
「ん、だからなんだよ。見逃せってのは無茶だぞ」
「いいカら!! 今すぐここから離れなイと……!!」
「はあ?」
ローレンツの様子が妙だ。何だか雲行きがおかしくなってきた。その時
『サクラ! 外!!』
シンシアの声がオレに届くより少し前、
耳をつんざく轟音と共に、オレの部屋の窓が引き裂かれた。低い天井があったはずの場所に、大きな空間ができ、少し暗くなりかけた空が見えるようになる。
部屋の半分を、外から削り取られていた。
「なんだよ……これ……?」
『サクラ、見て!』
呆然と見上げる向こう、オレの視界の下方から、ゆっくり、巨大な影がせり上がってきた。
「見ぃつけた!!」
それは、三階の高さにいるオレよりも高い位置。これまでのものとは比べ物にならない程巨大な「焔狼」の頭の上。
その細い脚を組んだ姿勢で、渚エンジェルズの末の妹分、タニア・クラインが鎮座していた。
「タニア・クライン……?」
オレ達を見下ろす彼女は、満足げに「焔狼」の頭上で脚をぶらつかせている。
「やぁっと支配下におけた。けっこう難しいんだね。ん? ヘロディア姉さん、そこで何してるの?」
どういうことだ。どうしてクラインが「焔狼」を?
「うふふ。まあいいや。早くしないとあいつが来ちゃうし。乙姫の原本、渡してよ。どっちが持ってるのかな?」
じゃろ先輩の原本を狙っているのは間違いではなかった。
「おい、ローレンツ、もしかしてお前ら姉妹グルか?」
正直「焔狼」に睨みつけられている恐怖で頭がおかしくなりそうだが、何とか楽しいことを想像して平静を保つ。
「ち、ちがっ! ちがわないけど……ただ、私はこんなこと……」
「わかった、もういい。逃げるぞ」
オレの一対二ではないことが確かめられればそれでいい。
「何の話をしてるのかなぁ? 私も混ぜてよっ!」
悲鳴のような叫びと共に、「焔狼」がその口腔を大きく広げた。千六百度の炎の波が、一息で三回建の集合家屋を飲み込む。ローレンツはとっさに反応し、外へと飛び降り、炎を回避したようだが、オレは間に合わなかった。




