我慢して
「焔狼」。星五魔書「夢破りし者」に登場する魔獣で、大きさ約二十メートル、全身に火炎の装甲を身にまとった凶悪生物だ。約千六百度の炎を吐き出し、硬く鋭い爪は城壁ですら容易く切り裂く。人間が一人で対峙するには、あまりに強力すぎる魔獣だ。
「これが、全員帰還のわけか」
『あれはあんまり可愛くないわね』
『ふむ』
奴はまだ完全に目覚めてはいないのだろう。どことなく動きが鈍い。今のうちに退避しないといけないな。
「姉様!」
「姉様、大丈夫!?」
「えぇ、大丈夫、大丈夫よ」
マリア先輩が右手をおさえてうずくまっていた。
「マリア先輩? ここもすぐ危なくなります。動けますか?」
「おい! 姉様怪我してるんダぞ! 少しは……」
「見せて下さい」
「あっ! 痛っ!」
「お前……!」
焔狼の炎は燃焼作用が消えても、熱は消えないという異常な性質を持つ。強引にマリア先輩の右手を引き込み、強く握った。
「い、痛い! な、なにを!」
「その手を離せ!」
褐色のローレンツが放った蹴りが、オレの側頭部に直撃した。
が、オレは痛みも衝撃も感じない。
まるで水が弾けるような音と共に、オレの頭部が水飛沫になって霧散した。
一瞬消えた頭部は、また何事もなかったかのように再生していく。
「な!? お前……!?」
「熱が骨まで入り込んでますね、シンシア」
『はい。清華水冷』
シンシアが小さく呟くと、オレの手のひらから、湧き水のような透き通った水があふれ出してきた。
「あ、痛……!」
「少ししみます。我慢して」
数秒間、マリア先輩の手を握っていると、
「あ……、痛みが、熱が消えて……」
「清華水冷は、魔障による痛みや症状を消すことができます。ただ、完全に治した訳ではないので、あとできちんと病院に行って下さいね」
おだやかな表情で自らの右手を撫でるマリア先輩を見て、まあ、大丈夫だろうと確信する。だが、
「すみません、火傷の痕までは……」
彼女の右手には、赤い痕が残ってしまっていた。女性にとってはつらいことだろう。
「いいえ! そんな、ミナセ君、本当にありがとう!」
「こちらこそ。なら早く戻りましょう。ここは危ない。じゃろ先輩! じゃろ先輩!?」
あれ、どこに行ったんだ、あの人。
「オい!」
「何だよ」
「その、ありガと」
「……」
妹分二人が、小さく頭を下げてきた。結局はただのシスコンってことか。
「別に。早く先輩医務室に連れてけよ」
「言われなくテもっ! 調子に乗ルな!」
二人はマリア先輩を左右から抱きしめるようにして、本部に戻っていった。
「おいシンシア! じゃろ先輩は!?」
『知らない』
何でこんな時に機嫌悪いんだよ! さっきまで普通だったじゃねぇか。
「じゃろ先輩! せんぱーい!?」
早く逃げないとヤバいってのに。こんな大声もはっきり言って出したくないのだ。
『ここじゃぞ!』
その声は、予想だにしない方向、場所から飛んできた。
『何じゃお主、随分慌ておって。そんなに妾が恋しいかの?』
嬉しそうにはしゃぐじゃろ先輩。その人は、先ほどまで火の海だった広場の中央、押し潰されるように大の字に倒れこんだ焔狼の、腹の上に立っていた。




