先輩は何もわかっていませんね
「すみません、大変お見苦しいところを……」
「いや、もういいから。オレはもう忘れたよ」
ひどく痛みの残る脇腹をさすりながら、オレは答える。はっきり言って、いま問題なのはそんなことではない。
「なぁ、いい加減機嫌なおしてくれよ。さんざん謝ったじゃないか」
『うるさい、うるさい! バカサクラなんか知らない! あんな所に置いていかれて、私がどれだけ怖かったと思ってるの!』
シンシアの機嫌が過去最悪だった。
怒れるシンシアの話によると、オレがこいつを置いていった直後に「湖面月鏡」の効果時間が切れ、辺りが真っ暗になったそうだ。さらに運の悪いことに、シンシアのいた場所と仮眠室との距離がギリギリ回帰範囲外だったらしく、本にも戻れず、真っ暗で動くこともできず、ただ待つことしか出来なかったそうだ。
『ぐすっ……』
大粒の涙を顔いっぱいに浮かべた彼女はさぞ心細かったのだろう。流石のオレも良心が痛む。ここまでシンシアを怒らせてしまったことはなかなか無いので、どう対応していいかわからず戸惑ってしまう。
「なぁ……」
『ふんっ』
困った。大いに困った。ただ一つ確かなことは、この件に関してリーさんは無関係だということ。もう夜も遅い。早めに家に帰してあげるべきだろう。
「とりあえず、リーさん。先に帰ってていいよ。これ以上、オレらの問題で拘束するわけにはいかないし」
「はい?」
思いの外、反抗的な返事が返ってきたな……。聞き返す感じのではなく、もっとこう、なに言ってんだおめーって具合の「はい?」だ。
「あのですね、もう夜も遅いですし、リーさんもきっとお疲れでしょうから、ここは少しでも早く帰宅していただいて、明日に備えてもらおうかなと思いまして……」
「はぁ、先輩は何もわかっていませんね」
なんだ、どういうことだ。わかってないって何がだ。
「いいですか。もちろん、これはお二方の問題です。ですが、今日の一件は、私もシンシアさんの事を失念してしまっていました。なので、私の方にも責任があります」
「そ、そうかなぁ」
「そうです! それに……」
険しい表情をしていたリーさんの顔つきが少し変わった。目尻が下がり、寂しそうな表情をする。
「シンシアさんのお気持ちも、よくわかりますから」
そう言うとリーさんは何かを噛みしめるかのように、ゆっくりと瞳を閉じた。再び開かれた瞳に、その一瞬のかげは消え去っていたものの、何だかオレの記憶に深く刻みこまれた光景だった。
「わかった。一緒に考えよう。で、どうすればいい?」
「……どうして同じ発言の中でコロコロ言ってることが変わるんですかね。まあ、いいですけど。」
「いいんだ」
『ちょっと、何二人で話してるの!』
シンシアが急にこっちに関心を示してきた。
「なんだよ、ちょっと大事な相談してただけだ」
『私に話しかけないで!』
「てめぇー!」
「先輩、落ち着いてください。ドウドウ」
リーさん、馬じゃないんだから。たく、クソ生意気な精霊だ。このままほっぽって帰っちまおうか。何度も言ってるが、もう夜遅い時間だ。オレだって早く帰って寝たいんだよ。
イライラしながらシンシアを睨んでいると、リーさんがやれやれといった雰囲気で話しかけてきた。
「全く、先輩はこの状況をよく理解していないようですね。そんな調子ではいつまで経っても、シンシアさんに許してはもらえませんよ」
「でもあいつ、なに言ったって無視してくるだけだぞ」
「それは先輩が的はずれな謝り方をしているからです。もっとシンシアさんのお気持ちを考えて見ましょう」
「シンシアの気持ち……?」
リーさんの言葉に、シンシアがピクリと肩を震わせたのを、オレは見逃さなかった。シンシアの気持ちか……。ただ置いていかれて怒ってるんじゃないのか?
「そりゃオレに置いていかれたり、忘れられたりして怒ってるんだろ? だからオレは何度も謝って…」
シンシアが露骨に肩を落としたのが視界の隅で見て取れた。なんだ……? 違うのか?
「そこです。間違っているのは。たしかにシンシアさんは怒っていますが、それは置いていかれたことに対してではなく、先輩のそう言う所に腹を立てているだけです。彼女の本心はもっと別にあるんですよ」
シンシアがフンフン頷いている。背中ごしなので、表情はうかがえないが、おそらく、もう怒ってはいないのではないだろうか。無理矢理本に押し込めて帰ることも、今なら出来そうだ。だが、きっとそれでは意味がないのだろう。
「本心ねぇ…」
後ろ向きの精霊をマジマジ眺める。
こいつも見られていることがわかったのだろう。白と黒のサマードレスの背中をピンと張って、緊張しているようだ。
そうか、そういうことか。
「そうか、シンシアお前……」
シンシアとリーさんがピクリと反応する。二人は黙ってオレの言葉の続きを待っている。
「腹、減ってたんだな」
リーさんが時計の山に突っ込んだ。
「ちょっ、ちょっと先輩!? 本気で言ってるんですか!」
赤くなったおでこをさすりながら、激しい勢いで詰め寄ってくる。
「リーさん、そんな芸人みたいな反応しなくてもいいのに」
「こういう反応したくもなります! 全くいったい何を考えて……! いいですか、シンシアさんは今……」
『いいの』
激しくまくし立てるリーさんを、小さな声が遮った。
『いいの。もういいわ。リーさん、だったかしら? 気を配ってくれてありがとう。でも、もういいの。サクラってそういうヤツなの』
淋しげだが、どこか達観したようなその言葉に、リーさんは何も言えなくなって口をつぐんだ。
『帰りましょう。二人共疲れていたのにごめんなさい』
オレは今、少し、いやかなり驚いている。そうか、こいつはそういう態度を取るのか。変な意地を張るんじゃ、なかった。
「そうだな。帰るか」
「先輩……」
リーさんがオレを目でなじってくる。そのことよりも、俯いたシンシアの瞳が赤く染まっていることの方が辛かった。
『もう、本に帰して……』
ゆっくり歩み寄ってくるシンシアを右手のひらですくいあげる。そっと顔を覗き込んでも、目を合わせてはくれなかった。たまらなくなって、
「寂しい思いさせて、悪かったな」
先程告げるべきだった言葉を、今になって口にした。
『ッツ!! あなたって、いつも、そうやって……!』
シンシアの大きな瞳から、クリスタルのような雫が、いくつもこぼれた。
『……ばか』
そう言って、シンシアの身体は少しずつ魔書の中に溶けていった。
「先輩、今のって……」
「さあね、早く帰ろうぜ」
「はい! そうですね!」
出口へと歩き出した、オレの背後から嬉しそうなリーさんの返事が聞こえてきて、長い一日は幕をとじた。




