出会い
不思議な川は、一番奥の本棚に置かれた、銀の箱から流れ出ているようだった。このままにしておけば、永遠に湧き出して、いずれ大地を飲み込んでしまうのではないかと思えるほど、湧き出る水の限界がみえない。
迷うことなく箱の蓋に手をかける。恐怖はなかった。これほどまでの超常現象を引き起こせるものは、ただ一つしか考えられないからだ。
「やっとみつけた……。『水精霊の魔書』」
箱の中には美しい銀の装丁を施された蒼い書物、そして、金色に輝く朱い書物の二冊がしまわれていた。これは、ちょっとイレギュラーな事態だった。
「二冊……? どういうことだ、上下巻の魔書じゃないはずなんだけど」
オレが探していたもの、その正式名称を『水精霊空想観察記録』という。今から二百年前の皇国貴族にして、空想精霊に関する書物の第一人者である、ディアヌ・フレイヤによって生み出された。
本来なら皇立堅牢図書館で保管されているはずのものだが、何故だかこの一冊は森の中の廃屋に置かれていた。
「どちらかを選べってことか? これが叔父さんの言ってた試練か。だとすると、これは絶対に外せねぇ。必ずこの魔書と契約しないと。ここは慎重に選ばないといけないな」
即決した。
「朱だろ」
この『水精霊空想観察記録』は、禁書として国指定されており、一切の研究や現存資料の閲覧を制限されている。つまり、今のオレにこの本の鑑定を行うことはそもそも不可能なのだ。二択なんて直感で選ぶ他ないじゃないか。高鳴る鼓動を感じながら、朱い書物を手に取り、そのページを開く。
ミナセ靴店の前には、近所の人間が大勢集まっていた。その中で突如ガツン、と音がして私はしゃがみこんだ。
左頬に鈍い痛みを感じる。口内に鉄の味がじわりとひろがった。父親意外の人間に殴られたのは初めてだった。訓練でも受けたことのない痛烈さに、少し驚いてしまう。
「ミナセさん、本当にすみません。僕の注意が足りませんでした。それでお気がすむのでしたら、どうぞいくらでも殴って下さって結構です」
嘘ではなかった。しかし、本心は別のところにあった。急がねば。早く、少しでも。
「……」
予想通り、彼は拳を下ろした。現在行方不明になっているサクラ・ミナセの育て親、ゲン・ミナセは、本来温厚で理性的な人物だ。誰かを殴ったところで問題は解決しないと思いとどめてくれた。我ながら汚いとおもう。
「それで、本当なのか? サク坊が森の別荘に行っちまったってのは」
ゲンが懇意にしている酒場の店主、ビルが確認してくる。今回のことでも、かなり色々と手を尽くしてくれたみたいだ。
「はい。以前から気になっていたようですし、その……」
チラリとゲンに視線をむける。グッと両腕を組んだまま、どこを見るともなしに見ていた。
「サクラ君が皇立図書士官学校に通いたいっと言っていたなら、確かだと思います」
「で、でもあれの募集はもう終わってるだろう? どうして今更……」
その通りだ。来季の生徒募集はとっくに終了しており、選考の段階に入っている。しかし、この学校は皇立であるがゆえの別の入学ルートがあった。
「おそらく、特待生の枠をねらっているんでしょう。あれに時期や出自、年齢は関係ありませんから。将来皇国の助けとなるような、能力や才能のある者を集めるための制度ですから」
「はっ! その国の助けとやらに、儂の孫がなれると? 店の手伝いも満足に出来んのだぞ」
「そうかもしれませんが、ミナセさん。サクラ君が契約しようとしているのは、大陸の重要指定禁書です。もし成功すれば、皇立図書士官学校どころではありません。世界中から注目されるで……」
皆まで言わせてはもらえなかった。もう一度左顔面を殴打された。うずくまるなど出来はしない。後ろへ大きく飛ばされる。
「その! 危険な書物について、なぜ! あやつに教えたのだ! あの別荘のある森はただでさえ危ないんだ! 子供が一人で行って帰ってこれる場所ではない!」
「おいおい! やめろって!」
周囲の人間が何とかゲンを落ち着かせようとする。まるで人がかわってしまったかのようだ。しかしそれも当然だ。僕だって一人娘が同じ状況になれば、冷静でなどいられないだろう。しかし、これだけは譲れない。伝えなければならない!
「お義兄さんと姉の遺言なんです! サクラ君とモミジちゃんが本に興味をもったなら、隠さずきちんと伝えてあげてほしいと! 子供達の好奇心と本を好きになる気持ちを断つことだけはしないでくれと頼まれたからです!」
今度はゲンの顔が苦痛にゆがむ。彼は息子夫婦の死に目に会えていない。それ以前に、彼と息子は絶縁状態が長く続いていた。その悔恨からか、のこされた幼い兄弟を引き取り育てていた。これ以上長く問答を続けてはいられない。早く自分のなすべきことをなさねばならなかった。
「僕はこれからサクラ君を助けにいきます。皆さんはもう一度図書館に連絡して、ここで待っていてください」
「ちょっと待て、一人で行く気か?」
「はい。今回の全責任は私にあります。それに、これでも一応図書士ですから」
何とか言い切って動き出す。ゲンは辛そうに座り込んでいた。
「ミナセさん」
「なんだ」
「今でも本は嫌いでしょうか?」
ゆっくりと顔を上げて、彼は彼方を見つめて答えた。
「当然だ。本も、それに関わる人間もな」
「そうですか」
本当に時間がなかった。装備を取りに行ってる間も惜しい。最良の選択肢を思案していると、小さな女の子が二階の窓からこちらを見つめているのに気がついた。モミジちゃんだ。
「大丈夫」
口の形だけで想いを伝える。少女は小さく頷きを返してくれた。僕はきちんと微笑んでいられただろうか。顔は強張ってはいなかっただろうか。もし、もし、サクラ君があの書物を見つけていたら。そして、契約に失敗していれば。そこで思考を止める。今は、最悪を想定しなくていい。ただ走ればいいのだ。
街外れの森を目指して、全速力で駆け出した。