どちら様だ?
今、オレの心は安らぎで満たされている。自室の窓際に座っているだけなのだが、それだけのことがとても心地よい。そう、ここには怖い先輩も、恐ろしい後輩もいない。まるで天国のようだ。
オレの家は街の中心部から少し離れた所にある共同家屋だ。朝には太陽、夜には月が見える、この街では贅沢な部屋だった。
陽が沈んでから大分時間が経っている。世界樹の陰を照らす街灯は、赤から白へと変わり、その数も少なくなった。学生がその大半を占めるこの街は、酒場の喧騒も控えめで音のない夜が黒と少しの白でつくられる。
オレはこの時間が、好きだ。優しい月の光が手元の紙面を反射する。静かな場所と気に入りの本。この二つがあれば、オレの人生にはもう何もいらない。あとは、食い物とセレンとモミジと、
『何してるの?』
下らない考え事をしていると、シンシアが本の後ろからひょっこり顔を出した。この飛べない精霊は、机をのぼってきたのだろう。 少し頬が上気していた。
「別に。ちょっと本読んでただけ。どうかしたか?」
少しだけ、シンシアの目つきが変化した。顎をしゃくって、オレの注意を出入り口の方に向けさせる。何だ、そういうことか。
その時、小さな金属音をあげながら、ゆっくりと扉がひらいた。そこには、黒い頭巾のようなもので顔を覆い隠した、小柄な人影があった。同様の黒いコートをたなびかせて、部屋の中に入ってくる。
「カギはかけてたはずなんだけど。どちら様だ?」
フ、と軽く息を吐いた黒頭巾は、その次の瞬間、猛然とオレに襲い掛かってきた! わずかな時間で一気にオレの懐に入り込む。コートの下の右手が動く。キラリと光るそれを首元狙って叩き込まれる。オレは一歩前に踏み込み、左手で黒頭巾の手首をつかんで、受け止める。相手の手には、毒をタップリ塗り込んだと思われる凶々しいナイフがにぎられていた。
「ツッ!」
息つく間もなく、黒頭巾の左脚が飛燕の速度で襲いくる。
「ガッ、ハッ……!」
右肘で防ごうとしたが、途中で軌道が変化した。強烈な一撃を脇腹にもらい、身体がくの字に折れ曲がる。
だが、オレもやられっぱなしではない。蹴りの衝撃でもはなさなかった、黒頭巾の右手を引き込み、それと同時にガードの際閉じていた右手を解放する! 渾身の裏拳を黒頭巾に叩き込む。
黒頭巾は後ろに飛ばされながらも、態勢を立て直し、難なく着地した。かなりの手練れだった。不十分な態勢で放ったオレの反撃など、全く効いている素ぶりを見せない。おまけに、飛ばされた際に投げナイフを三本も投げてきてくれやがった。当然かわしきれず、一本が右大腿に深く突き刺さる。
刺さったままでは闘えない。激痛に耐えながら投げナイフを抜く。抜いた時に傷口がひろがるよう、返しがついていた。毒が塗られてないだけマシだったが、これでは傷口の縫合が難しくなる。時間はかかるが、人体の壊し方がよくわかっている戦法だ。
全くもって嫌な気分だ。あと数手先に自分が死んでる未来しか見えない。力をこめて奥歯を強くかむ。そうしないと、心が折れてしまいそうだった。こんなことなら、叔父さんとの訓練をもっと真面目にしておくんだった。
一歩ずつ、ゆっくりと黒頭巾が近づいてくる。時間がない。考えろ。どうやってこの場を切り抜ける? オレにはあと何ができる。何がある。頭をフル回転させて、行き着いた答えがあった。そのことにひっそりとオレは絶望する。
向けられた銃口と目が合ったのと、渇いた発砲音が聞こえたのは、ほぼ同時だった。




