出会い
圧倒的な死の威圧感に、オレは成すすべもなかった。眼前に迫り来る巨大な水騎士が構える鋭く尖ったランスは、今にも身体に大穴を開けようとしている。
もはや逃げ場はない。だが、もうダメだと諦める訳にもいかない。
闘ったところで勝てないことはわかってる。だからこそ、自身の持つ最大限の力を使ってこの場を切り抜けるべく、オレは、静かに息を吸い込み、叫んだ。
「水精霊よ!」
「くそっ! ちゃんと掃除くらいしとけよっ!」
そこは街はずれの森の中。少し奥へ入り込んだ場所にある小さな廃屋だった。オレはそこで、朝からかれこれ数時間、とある古書を探していた。思わず漏れ出た悪態は、誰の耳に届くことなく、森の中を抜けていく。
「違う、違う。これも違う! て言うかこれ、『ロキの十二禁書』じゃないか。国宝級の魔書がどうしてこんなところにあるんだよ」
重く、分厚い古書を抱え上げる。もうそれは見るからにボロボロで、紙面は焼けて茶色く変色していた。それは、かつては確かな価値を持つ図書だったのだろうが、今オレが探している古書はこれではない。いや、本来ならこれでも構わないのだが、この古書はもう既に図書としても、エネルギー体としてもその役割を終えているものだった。だからダメだ。
「今日中に終わるかなぁ」
小さな呟きを零しつつも、何とか気持ちを持ち直して作業を再開する。かつてはさぞ強大なエネルギーを放ち、世界を席巻したであろう名著も、ここまで使い古されてはどうしようもない。茶色い、かつて図書だったものをオレは背後のゴミの山へと投げ捨てた。
現在、時刻はおそらく正午を回ったところあたりだろう。おそらく、と言うのは、先ほど左手につけた腕時計を確認したところ、朝七時の時点で針が停止していたのだ。よって正確な時刻がわからない。太陽の位置でおおよそを割り出すしかなかった。
初夏の日差しがジリジリと照りつける。廃屋の中は日陰でこそあるものの、ジメジメした湿気と溢れんばかりの古書のせいでまるでサウナのような状態になっていた。そんな場所で長時間物探しをしていたものだから、オレの着ている服は、まるで温水をかぶったかのようになっている。水ではなく、温水というのがポイントだ。
水分補給もしていない。のどが渇いた。まさかこれほどまで過酷な作業になろうとは。だが、手は休めない。作業は止めない。一心不乱に古書の山をかき分ける。
頬を伝って流れる汗はまるで滝のようで、分厚い古書の表紙へと、絶え間なく滴り落ちていった。
「これで、最後。よし、とりあえず一階は一通り探したかな」
もはやゴミにしかならない古書の山が、廃屋の前の空き地に出来上がっていた。初めこそ、ただそこに古書を投げ捨てていくだけだったが、それがどうにも忍びなく、途中からきちんと積み上げ直していた。おかげでいらん時間を食ってしまったが、こればかりは仕方ない。
「かなり時間を取られちゃったな。急がないと」
古書の山は、オレの背丈を超えそうなほど高い。つまりらそれだけの冊数がこの廃屋に眠っていたことになる。この廃屋の持ち主は、よほど図書が好きだったのだろう。少し親近感が湧く。だが、それもまだ半分だ。廃屋は二階建て。まだ一階の探索が終了したに過ぎない。いや、そもそも目的の古書さえ見つかれば、こんなことはしなくて済むのだが。
廃屋に入って右手、古びた木の階段がある。オレの体重を支えられるかどうかも不安なオンボロ具合だが、腹を括ってのぼるしかない。ギシギシと、嫌な音がする。これまでとは打って変わって冷たい汗がにじむ。
「ふ、ふぅ。あぁ、怖かったぁ!」
いや、別に二階から落ちたくらいではどうにもならないんだけどね。
二階は一階とは少し様相が違った。一階はただ荒れるに任せきりといった感じだったが、二階は家具や古書がきちんと整理されていたのだ。
古書の量も、一階のそれより随分少ないように思えた。これならば、午前ほどの苦労はせずとも目当ての古書を見つけられそうだ。なんとか気持ちを持ち直して、古書探しを再開する。何故二階だけが、持ち主が変わったかのように整理整頓されていたのか、このことについては頭が回らなかった。
「よし、これならなんとか。日が暮れるまでに見つけないとな」
そう。今はそれだけが心配だ。夜の森は人間を寄せ付けない。ここのような人里近くの森でもそのことだけは変わらない。ここ、サイウェストの森は、魔獣や、魔書使いなどは住み着いていない。しかし、その代わりに狼がいた。狡猾さと獰猛さを併せ持つ森の狩人。時としてベテランの軍人や、図書士でさえも標的とする彼らにとって、オレなんか格好の餌だ。時計があてにならない今、帰るタイミングを間違えれば、たちまち狼たちに取り囲まれてしまう。そうなれば、街に帰るどころか、オレの目的も果たせない。
残された時間は少ない。もうかなりの疲労があったが、休むことなく古書漁りを始めた。
サイウェストは皇国の最西端に位置する、国境沿いの街である。同じ北方書国連合の加盟国であるヨロハ教国と隣接し、両国間貿易の要衝として古くから栄えてきた。教国から入ってくる珍しい書物や、それに携わる仕事を求めて、数多くの人が皇国中から集まってきており、首都皇都に次ぐ、皇国第二位の人口を誇る。現在、メインストリートでは初夏の大古書市が開催されており、ただでさえ多い人間の数が、その二倍近くまで膨れ上がっていた。
その中で、街の喧騒を感じさせない裏通りを、小さな女の子が歩いていた。
膝裏まで伸びた長い黒髪を腰の位置で一つにまとめ、可愛らしい大きな瞳が利発そうに煌めいている。しかし、女の子の表情はどこか冴えない。不安げな視線をキョロキョロとあたりに向けては、怯えたように進んでいく。女の子の足は、より細い路地へと向けられていく。そしてたどり着いたのが、汚い看板の大衆酒場だった。もう一度あたりを見回して、小さな手で、戸を押しひらく。耳障りな音を立てて、戸が左右にわれた。
「こ、こんにちは。ビルさん…… いらっしゃいますか」
緊張からか、少女の声は上ずっていた。店の奥から返事はない。
「こんにちは、ビルおじさん。モミジです。いらっしゃいませんか?」
その時、巨大な人影が少女の背後に現れ、ゆっくりと彼女の方へ近づいていき、その棍棒のような腕を少女めがけて振り下ろした。
「ぃやあ! モミジちゃん! お使いかな?」
いきなり背中を叩かれた少女は小さな悲鳴をあげて振り返る。
「おじさん!」
「けど、ごめんね。今日は市の方から注文が殺到しててねぇ。ちと早いが店じまいなのよ。そうだ、そんなことより、ミナセのじじぃ、こんな小っちゃい子を一人で酒場によこすたぁ、何考えてやがるんだ。怖かったろう?すぐに何か甘いもんでも……」
「……さん、おじさん!」
「おっと、どうしたんだい。大きな声を出して」
濁流の如く話し始めた彼をとめるために、少女が何度も声を掛け続けていたことに、この酒場の老店主は気が付いていない。
「あ、あの、今日はお使いじゃないんです。その、お兄ちゃんを探しているんです。こちらに、きていませんか?」
つっかえつっかえ、それでも一生懸命に話す女の子を微笑ましく思いながらも、はて、と老店主は首をかしげる。
「んん? きてないぞ。今日は手伝いも休みだしな。どうしたんだい。何かあったのかい」
「それが、昨日おじいちゃんとお兄ちゃんが大喧嘩して、」
「なんだ、いつものことじゃないか」
「いえ、その、お兄ちゃんが私のために魔障浄化の清書を探したいって言ってくれて。でも、おじいちゃんは大反対して、取っ組み合いになって、結局……」
「結局?」
「追い出しちゃったんです。もう帰ってくるんじゃねぇって。それからお兄ちゃんみつからないんです。パン屋のおばさんのところも、書籍商のお姉さんのところにも、行ってないって」
少女はもはや泣き出す寸前である。この女の子、モミジの兄の名はサクラといい、黒髪黒目の12歳の男の子だ。非常に利発な兄妹として、このあたりでは有名だった。しかし、今回は危険な状況だ。何故ならこの街は治安が悪いからだ。人の出入りは大陸でも有数の街だが、その代償として、関門規制がないに等しく、魔書使いや違法取引を行おうとする図書士などが大量に入り込んでいる。そういうもの達は、毎日のように非道な事件を引き起こしており、さらに、黒目の男児というのは珍しく、人身売買をする連中に狙われやすい。
「わかった。モミジちゃん、おじいちゃんはどうしてる?」
答える少女は大粒の涙をいくつもこぼしていた。
「あ、あさから色んな、ところを、さ、さがしてる」
「そうか、おじさんたちに任せなさい。怖かったろう。温かいミルクを用意しよう」
「はいぃ」
大衆酒場の店主、ビルは、少年を必ず無事で見つけ出すことを心の中で固く誓う。それは、この健気な少女のためでもあり、子供たちを心から愛している、古い友人のためでもあった。