「鏡」
涼は、鏡というものは嫌いだ。
他人、特に「お仲間」の中の一部に対しては、鏡も見た事がないのかとか、化粧品を買う前に鏡を買ってはどうかとか、意地の悪いことを考えもするが、涼は鏡が嫌いだ。
多分客観的には、自分はそこまで醜悪でないとは思いたいが、とにかく自分自身と向き合わされるのは、涼にとってはあまり嬉しい事ではない。
もちろん、鏡がなければ化粧もしようがないし、不便な事も多くなる。なので我慢はするのだが、たまに、自分は鏡が嫌いだと言う事を思い出す。
鏡に写っている人物には、涼太の面影がある。容姿には結構手を加えているつもりだが、どうしても限界と言う物はある。
なんだか急に頭に来て、鏡を叩いてみたが、割れはしなかった。それなりに力を入れたつもりだったが。
ずいぶん前だが、割った事はあった。あの時のように全力を出せば割れるだろうか。何か道具を使えば割れるだろうか。と考えてみたが、そんな事を考えても、しても、大した意味はないだろうとも考えた。
……そんな事をして、何になる? 何になれる? 鏡の話ではない。涼が成し遂げたかった事について、人からも言われたし、何度も自問自答した事がある。
それでも、実行した。何かにはなるだろうし、なれるだろうと。そして、自分はそうするしかないのだからと。
そして何が起きたのかと言えば、それなりの金を費やして、身体の一部を欠損させただけなのかもしれない。
そうする事で自分の悩みを解消する事ができると思っていたし、そうするのが自分の人生の目的だと思っていたから。
ゴールをそこに設定していた。そうすれば全ては解決すると思っていた。
涼太という少年が抱えていた悩みのほとんどは、それで消え去ると思っていた。
実際のところは、どうだったんだろう? 涼は軽く頭を振った。
ゴールと思っていた場所は、スタート地点でしかなかった。そうかもしれないとは事前に薄々思っていたものの、いざその現実を突き付けられた時には、やはり悩みもしたし混乱もした。
せめてもの心の支えになりえたのは、失敗した者、挫折した者の態度や言葉だった。
あいつらは本当に饒舌で、見苦しい態度を取る。いわく、もっと有効な金の使い方がある。またいわく、自分の目指そうとしたものは間違いだった、勘違いだった。それに気がついた。自分はどうかしていた、などと。
泣き言を言うならまだ可愛いものだ。投薬まで行ってもう戻れなくなり、それが偉いとばかりの言動をしていたのに、ひるがえって、挫折した自分を肯定しだすような手合いも多い。
他人を嘲笑する事で自分の足元を固めるのは不健全だ。分かってはいる。
そうだ、自分自身だって到底健全ではない。誰かに嘲笑されているのだろう。自分がしているように。
結局は、くだらない争いなのだろう。どこまで行っても、どっちが偉いかの比べ合いを続けているだけなのだろう。自分は自分、他人は他人、それだけの事が分からずに。
いや、自分もそれは、つい先日までは分かっていなかった。それを思い出した。
それにしても。
結局、自分は涼太と共存している。消し去りたいとは言え自分自身なのだから、共存しているのは当たり前と言えば当たり前の事なのだが、日頃殺そうとまで思っている割に、今はそれなりに上手くやって、いや、やれてしまえているのではないだろうか。
もういっそ和解してしまうか。どうすればいいのかは分からないが。
……うん。和解するとしても、どうすれば?
またいつもの考え事の時間に突入して、そのまま一日が終わるのだろうかと思ったのだが、今回の涼はしばらく考えているうちに、結論にたどり着いた。
簡単な事だった。あまりにも、簡単な事だった。何を長々と悩んでいたのか、無駄な努力をしていたのか。
馬鹿馬鹿しい。私は本当に馬鹿だ。どこまで底抜けの馬鹿だったのか。
自分を殺したいなら、自分を殺せばいいだけではないか。自分を消したいなら、自分を消せばいいだけではないか。
過去の自分ではなく、いっそ今の自分を殺してしまえばいいのではないか?
単純すぎて思いつかなかった事だ。
あはは、と涼は笑った。こういう笑い方は久しぶりだ。声も、日頃作っている声ではなく、最後に出したのはいつか思い出せないような、地声に近いものだった。
とはいえ自殺をするつもりもない。何年も前なら本当に死のうと思った事も数え切れないほどあるが、もっと優しく、易しい方法で、今の自分は簡単に殺せるのではないだろうか、そんな考えが頭をよぎった。
涼は棚に積んであるノートを手に取って、破ろうとした。
さすがにまとめて破れない。数ページずつ破り捨てるのも面倒だし、燃やすのも危ない。そのまま可燃物のゴミ袋に放り込んで行く。
嘘の記憶と偽物の過去に拘泥するのをやめれば、今の自分はいなくなるのではないか?
「都合のいい考え方だろうけど」
涼と言う少女の、偽物の歴史が記されたノートを全てゴミ袋に入れ終えると、涼はまた鏡を見て、そして話しかけた。
「私の事を、許せる?」
直後、涼は自嘲的に笑った。
どうあがこうと自分は自分でしかない。なんで他人になろうとしていたのだろう? そう気がついてしまえば簡単だった。複雑な気持ちはないでもないが。
負けた自分を受け入れて肯定する、あの連中。あるいは自分もその仲間入りをしてしまったのだろうか? 貫き通そうと思っていた意思も、ここで捨ててしまったのではないだろうか?
まあいいか。最悪の場合、また書けばいい。
そんな事を考えて、涼はまた笑った。今度は、少し楽しそうに。




