金魚
暑い日だった。朝起きたとき、すでに蒸し暑くて汗をかいていた。表は快晴。雲一つない青空が窓の向こうには広がっていた。僕は、冷蔵庫まで歩いていくと、麦茶を取り出してそれを飲んだ。昨日の残りの白いご飯とみそ汁を食べ、漬物をかじった。一日が始まる。今日は休みだし、誰かと会わなくてはいけない予定もない。一日を通してやることがない。自由だった。ご飯はやわらかくて美味しく、みそ汁は温かかった。朝食を終えて、ご飯茶わんとみそ汁、漬物の入っていた小鉢を流しで洗うと、窓の外を見た。何をしようか。こうして、ぼんやりしているだけでもいいし、どこかに出かけてみてもいい。やることのない休日は、僕の心をどこまでも、のびのびと解きほぐした。洗濯をして、アイロンがけをする。風呂掃除をして、布団のシーツを洗い、しばらくテレビを見たあとで、こんなにいい天気なのだからと思い、表に出ることにした。
家を出て道を歩いていた。分かれ道をまがって大通りに出た。このまま進んでいけば商店街に出る。ここの定食屋は、とんかつが美味しくて、向こうのそば屋は、かけが美味しい。道の向こう側の喫茶店は、暇なとき、たびたび訪れることがあった。今日も入ろうとしたけれど、席がいっぱいだったのでやめた。その向かいの本屋は時々利用する。安い中古本を置いているので、お金のない学生には助かる店だ。喫茶店から延びるこの道を曲がれば、大学へと続いている。僕は、そこの大学の一年生で、今は夏休みの始まりだった。アパートで独り暮らしをしているので、通学は簡単だし、夏休みはやることがなく気楽で良い。僕は、大学をやり過ごすと、団地に面した大通りを歩き、そこから横に続く道を曲がった。この辺りは、沿道に樹木が生えていて、今ぐらいの時間だと、葉陰からかすかに日がさしてくる。セミの鳴く声が聞こえる。暑い日ざしと、爽やかな風が吹き抜け、団地に面していた沿道は、しばらく行くと公園へと続いている。今、公園では人が大勢集まっていて、なにをしているのかわからないが、何かを建てたり、作業に勤しんでいる。その公園の少し行った向かい側には図書館があり、僕はその図書館へと入って行った。そこで、大学の課題をやりながら、時々本を読んだ。図書館は一階と二階、それと地下があり、大まかにいうと、一階が一般書で、地下が専門書、二階が会議室や娯楽室だった。机は二階と地下に置いてあって数は二十位、疲れると、図書館の表に設置されている自販機でジュースを買って飲んだ。図書館の中は冷房が利いていて、外に出てくると暑かったが、それでもいくらかの人が自販機の周りでたむろしていた。僕はジュースを飲み終わると、それを空箱に入れ、再び作業を開始した。時間は瞬く間に流れて行き、やがて夕方になり、夜になった。僕は、ひとつ大きな背伸びをすると、荷物をまとめて、表へ出た。先ほどまでの快晴の空は、今はもう闇に覆われ、フクロウか何かが鳴く声が響いていた。僕は、図書館から、今来た道を引き返した。スーパーで買い物をして、家に帰って何かつくろうと思い、帰り道を歩いていると、ふと暗闇の中に大きな明かりが広がった。それは先ほどの公園で、今、ちょうちんや屋台が出ていて、人ごみにあふれていた。縁日だった。綿飴屋やお面屋、射的屋が神社の中に並んでいた。このような祭りは久しぶりだった。僕は、この縁日に吸い寄せられるように中に入ると、店を見て回った。
小銭でリンゴ飴を買い、それを舐めながら焼きトウモロコシや、ポップコーンを見て回った。
縁日には子供連れが多く、会社の終わった親が子供を連れてやってきているという感じだった。にぎやかな色合いは、見ていて心楽しくなった。僕は、そのようにして祭りの屋台のあいだを歩いて行った。僕の歩くそばを子供たちが駆けて行った。輪投げ屋が繁盛していて、焼きそば屋の前には大勢の子供がいた。ぼくは縁日を楽しんだ。思いがけないところでやっていた縁日の出店の並ぶ通りを、心楽しく歩いて行った。そうして、神社のあるところまで来た。そこだけが日常の様相で、変わらずひっそりとそこにあった。ぼくは神社で軽くお参りをして、今来た道を引き返した。すると、金魚すくい屋の前に先ほどは居なかった女の子が、ひとり、佇んでいて、金魚すくいをやっていた。女の子は着物を着ていて、下駄をはき、品のよさそうな気配が滲み出ていた。僕はしばらく彼女を見た。大勢の人が行き来する往来の中で、彼女だけが動かなかった。動かずに、静かに金魚すくいをやっていた。僕は、彼女のそのような姿をしばらく眺めた。そうしてから、少し近づき、声をかけた。
「金魚すくい?」
僕は言った。
「ええ、そうよ、金魚すくいよ」
彼女は、前を向いたまま僕の方を見ないで言った。
「そうか、金魚すくいですか」
僕はそう言うと、彼女の側に立った。彼女は和やかな表情を浮かべたまま、膝を抱えて金魚すくいをやっていた。
彼女が金魚すくいをやっていると、金魚すくいという遊びが、ひどく魅力的なものに思われた。ぼくは女の子の事を眺めていたが、やがて金魚屋に網をもらい、彼女の隣に座って、金魚すくいを始めた。
「金魚すくい得意なんです。見ていてください」
僕は網を振るい、金魚を取ろうと尽力した。横から拾い上げるようにすくう。水にぬらす面積は小さくする。そうして、僕は金魚を取ろうとしたのだけれど、なかなかうまくいかない。ひとつの網が破れ、次の網が破れ、いくらたっても、金魚がとれない。隣の彼女のほうがうまくいっているようだった。
そうしてしばらく金魚すくいを続けたが、一向に金魚は取れなかった。僕は、何とも言えない気持ちになりながら、金魚すくいを続けた。この網もだめだ。僕は、破れた網を手に、ため息をついた。すると、僕の目の前で、ビニールに入った一匹の金魚が吊り下がっていた。ぼくは、そのヒモの先を見つめた。すると、そこには女の子の顔があった。彼女は僕を見ると笑顔を浮かべ、とった金魚を自慢げにかざした。
「いいでしょ」
彼女が言った。
「うん、いいね」
僕は言った。
「これ、あげる」
彼女はそう言うと、取った金魚の中の一匹を僕にくれた。それは、尾の長い金魚で、なんという種類なのかわからなかったが、僕はそれをありがたくもらった。女の子は、微笑みを浮かべ、ぼくも微笑んだ。そうして、このことで僕と女の子のあいだには、一種の友情が芽生えたのかもしれない。僕と女の子は、自然と連れ立って、縁日の会場を歩いた。彼女は綿飴と焼きそばを買い、僕は、ラムネとお好み焼きを買った。そうして、神社の石段に腰を下ろすと、お好み焼きを食べた。
「焼きそば美味しい?」
「うん、美味しい」
彼女は言った。
「ねえ、お好み焼きをひとかけらあげるから、焼きそばを少しくれない?」
「いいよ」
「ありがとう」
そうして僕が女の子の綿あめを食べ、女の子が僕のお好み焼きを食べた。
「そこの大学に通っているの?見たことないけど」
僕は言った。
「違うわ」
彼女は言った。
「ぼくは、そこの学生なんだ。生物の一年」
「ふうん」
彼女はそう言うと、僕の手提げカバンの中にある本を見つめた。
「本好きなの?」
そう言うと、再び綿あめを食べた。
「うん、好きだよ。読書とかする?」
「する」
「そうなんだ」
僕はお好み焼きを食べ終えた。女の子は綿あめを食べながら、静かに空を眺めていた。ふたりの間には、沈黙が訪れた。ぼくは、小さく鼻歌を歌った。それは、ぼくの中で形を変えて、少しずつ変容していった。その間女の子は、何も言わなかった。静かに綿あめを食べていた。自分について多くを語らない性格なのかもしれない。着物を着てたったひとり縁日にいる理由もわからない。けれど、偶然出会った二人に読書という共通の趣味があることが、なんだか不思議な感じがした。
「ねえ、これ知っている?」
僕はそう言うと、彼女にゴムの飛び跳ねるおもちゃを見せた。名前は知らない。先ほどの屋台でスーパーボール取りをした時に一緒にとったものだった。僕はそれを彼女に見せると、丸いゴムのおもちゃを裏返して、手のひらの上で飛び跳ねさせた。
「知ってる。わたしの子供のころにも流行ってた。懐かしいわね」
彼女はそう言うと、目を輝かせた。
「さっき、そこで取ったんだ」
「懐かしい、わたしもやってみて良い?」
彼女はそう言うと、ゴムのおもちゃを手のひらの上で、跳ねさせた。
「飛んだ」
そう言うと嬉しそうに笑った。そうしてからもう一回、ゴムのおもちゃを飛び跳ねさせた。
「これ、どうして飛び跳ねるのかしら」
「ぼくに聞かれても分からないよ」
「理科系なのに?」
「分からない」
彼女はしばらく僕のことを見つめていたが、やがて、ゴムのおもちゃを手のひらの上でもてあそんだ。神社の会場では、子供連れからカップルまで、幅広い人たちが、縁日の催しを楽しんでいた。射的をやる人、金魚すくいをやる人、多くの人の笑い声や、歓声、あたりはそういったもので溢れていた。
「綿あめってどうしてふわふわしているのかしら」
女の子は言った。
「ぼくに聞かれても分からないよ」
ぼくは言った。
「理科系なのに?」
「分からない」
着物を着た彼女は、綿あめがふわふわしている理由を、物理学的に検証しようと考えに耽っていた。僕はその隣で、頭をからっぽにして、女の子のことを眺めた。着物を着た女の子と、わたあめという取り合わせは、なかなか似合っていた。そうやって僕は、綿あめについて考察する女の子を眺めながら缶コーヒーを飲んでいた。そうして、しばらく他愛ない会話をした。やがて、彼女は立ち上がり、僕の方を一目見ると、それじゃあ、と一言言い、人ごみの中へと入って行った。そうして、そのまま行ってしまった。
僕は、彼女と過ごした時間の余韻に浸りながら、立ち上がると、縁日の会場を後にした。歩きながら、肩の手提げ袋をかけ直した。片一方の手には、縁日で取った風船ヨーヨーがあり、片一方の手には、ビニールに入った金魚がいた。僕は、風船ヨーヨーをぽんぽんさせながら、大きく息を吸うと、大通りへと出て、家路を急いだ。
金魚の飼い方には、専門的な知識はいらなかった。もちろん、こだわれば色々と必要になってくるものはあるのだけれど、水槽と水草、餌と空気を送るポンプ。普通に飼う分には、それで十分だった。僕は、近所のペットショップで、それだけのものを買うと、家で組み立てた。そのあいだ、金魚は、洗面器の中に入れておいたのだけれど、いつまでもそのままにするわけにはいかない。風呂に入る時には、洗面器が必要だったし、金魚にとってもそれは好ましくない事のように思われた。僕は、金魚を洗面器から水槽に移した。水槽の中で、金魚は気持ちよさそうに泳いでいた。僕は、金魚の泳ぎ回る姿を眺めた。尾ひれが水中で靡き、ゆったりとした動きは、どこか優雅さを持っていた。洗面器の中にいる時より、色鮮やかなような気がした。時々口をパクパクさせながら、ゆったりと泳いだ。この金魚は何を考えて泳いでいるのだろう。そのような感慨を抱きながら、ぼくはゆったりと泳ぐ金魚のことを眺めた。
仕事帰りに、金魚を見つめると、それはのんびりとした動きで、相変わらず口をパクパクさせていた。僕は、買ってきた鶏肉に調味料を加えて、それを焼くと、パンと一緒に食べた。金魚は、僕の夕食を食べている様子に、興味がないらしく、相変わらず、水槽の中をゆったりと泳いでいる。鶏肉は食べるのだろうか。ぼくは、それを金魚にあげてみようか考えた。そうして、考えていると、それをあげることを忘れて、全部食べてしまったので、あげることはやめにした。台所で食器を洗い、シャワーを浴びて、風呂から出てきても、金魚は、相変わらず泳いでいた。そうして、口をパクパクさせていた。
「お前は気楽で良いよな」
ぼくは、金魚に話しかけた。金魚はこれを聞いて、相変わらず、変わることなく泳いでいた。僕は、そのような金魚の様子に、どこか安心して、部屋の電気を消すと布団にもぐった。
金魚との暮らしは続いた。夏休みは終わりを迎え、新学期が始まっていた。朝、金魚に餌をやり大学に行き、夕方、部屋に帰ってくる。すると、そこには金魚がいる。そのような生活が僕にとっての当たり前となっていた。金魚は、いつまでもゆったりとしていた。餌をやると、水面まで上ってきて、餌を食べる。割と大食いな性質のようで、餌を全部食べてしまうこともしばしばだった。ぼくは、金魚が餌を食べているところを眺めていた。それは、何とも言えない穏やかな瞬間だった。
そうして、幾日かが過ぎた。ぼくは毎日大学から帰ってくると、金魚のことを見つめた。不思議と金魚を眺める事には、飽きなかった。ぼくが熱心に金魚のことを見つめているのに、金魚は泰然として動じなかった。その緩やかな動きには、どこか威厳のようなものが感じられた。ぼくは、金魚のことを眺めていた。すると、ふと女の子のことが思い出された。女の子と、少しの合間過ごした縁日での出来事が思い起こされた。金魚すくいが得意だった女の子。着物が似合っていた女の子。彼女は今何をしているのだろうか。どこで、誰と過ごし、何をしているのだろうか。縁日で隣に座っていた彼女の髪、着物、下駄の鼻緒。そのような些細なものが、思い出された。そうして、金魚に話しかけた。
「お前のご主人は、何処にいるんだろうね」
ぼくは言った。そうして、何を思うとなく、金魚のことを眺めていた。すると、金魚が回転し始めた。金魚は、水槽の中で、ゆったりと尾を振りながら、いつまでもくるくると回転を続けていた。ぼくは、金魚のそのような様子を眺めていた。なぜ、金魚は水槽の中を回転しているのだろう。今までそのような動きを見せたことはなかったのに、今になって動き回るのは、なぜなのか。ぼくは、ビニール袋に水草を加えると、その中に金魚を入れ、部屋を出た。ビニール袋の金魚は、相変わらず、狭い空間の中を回転し続けている。ぼくは、金魚のそのような様子を目の当たりにし、金魚の回転し続ける方向へと歩いて行った。人工的な街並みの中を、金魚が悠々と泳いでいた。暗色系のビルや、建物が軒をそろえて立ち並ぶ大都会の一角を、鮮やかな色合いの金魚が泳ぎまわった。それは、大都会の中に一本だけ生える樹木のように、無機物と有機物の邂逅を思わせた。不思議な雰囲気を持っていることは、確かだった。水の中に浮かんだ金魚は、ビニール袋の光の屈折した部分で、大きくなったり、小さくなったりした。移り変わっていく背景はぼやけて、次々と変化していった。水の中の金魚は、背景をぼんやりと映し出し、水草と金魚だけが鮮明で、その外側に、外界空間を宿していた。町の中を金魚が泳いでいる。それは、ぼくの心に、なにかを感じさせる不思議な要素を持っていた。ぼくは、金魚を片手に、街を歩いた。金魚の回転する方向へと進んでいった。金魚が回転すれば、その方向に曲がり、金魚が回転しなければ、まっすぐ進んだ。そのようにして、金魚に道案内をしてもらった。その先に何があるのかわからなかった。しかし、それでもぼくは金魚に案内を任せて、道を進んだ。金魚は、交差点をまっすぐ進むように促した。ぼくは、その通りにまっすぐ進んだ。その先の曲がり角は、回転していた。ぼくは、その通りに角を曲がった。そうして、二時間ばかり歩いたころ、ぼくは、見知らぬ街角に立っていた。そこは、今まで来たことがない一帯だった。長く歩いたので疲れていた。だから、サンドイッチ店でサンドイッチとホットミルクを買うと、それを食べた。サンドイッチには、ハムが入っていて、ぼくは、それを小さい欠片にすると、金魚に与えた。そうしてひとつ伸びをすると寛いだ。店の外を多くの人が歩いて行った。すると、小雨が降ってきて通り過ぎていく人たちは足早に道を歩きだした。ぼくはビニール袋に入った金魚を机の片隅に置いて、通りを眺めていた。すると、隣の席から、聞いたことのある声が聞こえてきた。それで、ぼくは、ちらっとその声のする方角を見た。そこには、縁日で会った女の子がいた。女の子が友達と二人で、オレンジジュースを飲んでいた。ぼくの視線に気づいた女の子が、ぼくの方を向いて言った。
「やあ、また会ったわね」
「そうだね」
ぼくは言った。
「この近所に住んでいるの?」
「そうよ」
「友達?」
ぼくは、縁日の女の子と一緒にいる女の子のことを尋ねた。すると、一緒にいた女の子が僕に向かって、手を振った。ぼくは、ホットミルクを飲むと、大きく息をはいた。見知らぬ街で、予期せぬ人と巡り合い、不思議な気持ちに浸っていた。
「その金魚、あの時の金魚?」
女の子が言った。
「うん」
「その金魚を連れて街中を歩いていたの?」
「うん」
「なぜ?」
「わからない」
「わからないのに、連れているの?」
「うん」
女の子はこれを聞くと笑った。僕も笑った。
「家でね、金魚が急に回転を始めたんだ。くるくると、水槽の中を泳ぎ回って。だから、これは、なにかの始まりだろうと思って。それで、金魚を連れて、街に出たんだ」
「なるほど」
女の子は、その話に興味を持ったようだった。しばらく、ぼくと女の子と友達の三人は話し合った。大学の事とか、好きな服のメーカーとか、テレビの話とか。金魚の話もした。そうしてから、雨が上がり、爽やかな日差しが差し込んできた。女の子の友達が立ち上がった。
「そろそろ行かなきゃ」
彼女は言った。女の子も立ち上がった。その背中に向かってぼくは言った。
「また、会えたらいいね」
「そうね、またどこかで」
「ばいばい」
僕と女の子と女の子の友達は、メールアドレスを交換した。そして別れた。また会うかもしれないし、会わないかもしれない。それは誰が決めるものでもない。人生ってそういうものだ。ぼくは、ホットミルクを飲むと、会計を済ませた。金魚はその場にぷかぷかと浮かんで、口をパクパクさせていた。