泣いたカラスと魔法使い
※かなり短め
苦痛の眠りの淵で、どこか遠くからカラスが啼くのを聞いた気がして烏丸は目を覚ます。
痛みは名残として体のあちこちにくっついてはいるが、意識を混濁させるほどのものでもなく、腕の中に抱いたままの早乙女を起こさぬように気遣いながら、烏丸はゆっくりと身を起こす。
次に烏丸は。視界がどうにもおかしいことに気付いた。
烏丸の眼には、やけに世界がよく見えた。いや、広く見えたというべきか。
人間の視野は角度にしておおよそ150度と聞いたことがある。両手を左右に大きく広げたとして、その手の先が見えるか見えないかが人の視野だという。試しに烏丸は大きく両腕を広げてみるが、どういうわけか烏丸の眼には、左右に広がる腕の先どころか、その後ろまでも見えたのだ。
自分と早乙女を取り囲む、西洋甲冑の群れ。すぐにでも貫かんと剣の切っ先が烏丸を狙い、鎧の壁の向こうで騒ぐ声。広くなった視野で見える光景に、自分は夢を見ているのだろうかと寝ぼけたことを考えながら、烏丸の本能は咄嗟に早乙女を抱きしめていた。
「ま、魔物だ…っ」
「し、失敗したというのか!?どういうことだ魔術師!?私を謀ったな!?」
「た、たたた謀りなど断じて…!い、いえ!陛下!魔物だけではありません!あれの腕の中を!乙女です!乙女がおります!陛下の望む乙女が、魔物の腕の中におります!」
「なんだと!?…ああ、乙女、乙女だ!私の乙女よ!よもや魔物に囚われているとは思わなんだ!騎士よ行け!あの魔物を縊り殺せ!乙女には傷一つつけてはならんぞ!」
途端に立ち上る怒号の渦中で、鋭い槍に肩を切り付けられた烏丸は絶叫した。赤い飛沫が切り口から吹き出し、鉛色の甲冑や腕の中の早乙女の肌を滑る。生々しい痛みにもがく烏丸の口から轟くのは、背筋の凍るような断末魔のごとき声。
まるでカラスが悲鳴をあげているようだった。
それから何があったのか、烏丸はよく覚えてはいない。ただ腕の中でぐったりと眠ったままの早乙女を守ろうとして、我武者羅に暴れたことだけは覚えている。
痛みが指先までも麻痺させるのを耐えて抱きしめた早乙女を、烏丸が背後から剣で刺された隙に甲冑の隙間から転げてきた痩躯の男にいとも容易く奪われ、理不尽に痛めつけられたことや早乙女と引き離されたこと、その怒りに無我夢中で暴れに暴れ…。
意識を取り戻した時、烏丸は灰色の外套を頭から被せられた状態で、銀髪の見目麗しい男に背負われていたのだった。
辺りは真っ暗だ。烏丸の眼に見えるのは、自分を背負う男の銀髪だけだ。男の髪が月の光か街燈の灯かに照らされてほんのりと光輪を浮かべているのをぼんやりと見ながら、烏丸はしくしくと泣いた。
男に連れてこられた粗末な小屋で傷に薬を塗られ包帯を巻かれ、そこで烏丸は自分の身に起こるもっとも大きな異変をようやく認識する。
無理やり向かれた服の中、そこにはバター色の肌はなく、びっしりと皮膚を覆う黒羽があふれている。腕や足、口なんかは形そのものが変わってしまい、翼に鉤爪にくちばしと呼ぶべき姿。そして言葉を失い、烏丸のくちばしから出てくるのは野太い鳴き声。ガラガラに枯れたカラスの声だった。その事実をまざまざと見せつけられ烏丸は、名は体を表すとはよく言ったものだと、茫然とした心地でそう思った。
銀髪の男は、言葉を無くした烏丸の考えていることを読み取っているかのように、知りたいことをよく噛み砕いて説明してくれる。
自分の身に起こったこと。早乙女の身に起こっていること。自分がこれからどうするべきなのか、そして何ができるか、できないのか。
「お前もあの乙女とやらも、おそらくは二度と元の場所へ戻ることはできないだろう。それほどに異界を渡る代償は大きい。そしてお前は、不完全な魔法のもとに異界を渡った罰を与えられたのだ。可哀想に、お前は本来魔法使いが受けるべき呪いを受けてしまった」
だが、呪いを解く方法がないわけではないと男は言う。
「件の乙女を取り戻すこと、まずはそれからだ」