通り悪魔
そこまで過激ではないと思いますが、残酷な描写がありますのでご注意ください。
――これは殺意だ。
◆
母が立っている。醜く歳を重ねた、汚らしい老婆が立っている。背後から彼女を睨んでいる。
――やめてよ、気持ち悪い。
梨を切り分けながら、背後の母を気にせずにはいられない。視線はじっとりと絡み付く。厭だ。厭だ厭だ厭だ厭だ――気持ち悪い。いっそ。
死んでしまえば良いのに。
居なくなれば良いのに。
彼女は無意識に、手の中の果物ナイフを強く握り直した。
◆
幼い頃から、母が嫌いだった。三つ年上の姉と較べて、何かとアンヌをけなす。駄目な子だ。頭が悪い。容姿が醜い。気が利かない――。
姉が高校に行っていた時は、使い切れないほどたくさんの小遣いを毎月与えていたのに、アンヌの時はその半分の額もくれなかった。姉の誕生日にはプレゼントを買ってくるのに、アンヌの誕生日は無視された。
お母さんはえこ贔屓だ、不公平だと訴えれば、お前が劣っているのが悪いと言う。お姉ちゃんだけいれば良いんだ、と言ったら、当たり前だと即答された。
姉はずるい。昔から要領も外面も良かった。一番初めに良いイメージを植え付けてしまえば、あとはどんな悪いことをしたって大人は疑いもしないのだ。
◆
どうせわかりはしないのだから、殺してしまおうかと考えたことがなかったわけではない。厭な思い出とともに消してしまおうかと、消してしまいたいと、本当は何度も思った。こっそり台所からナイフをくすねてきたこともある。
だが、そのたびに理性が邪魔をする。たとえ誰にもわからなくても、それは人殺しだ、人殺しは罪だと――。
それに、とアンヌは思う。彼女が憎らしい母と姉を殺してやっても、アンヌ自身にその記憶が残らないのは意味がないと思えた。死んだ人間の記憶は消えてしまうのだと、誰かから聞いたことがある。本当にそうなのかどうかは知らない。
殺せばきっと清々するだろう。だが、それは殺したことを覚えていればの話である。死んだ人間のことを忘れてしまうのであれば、どうせ殺したことも忘れてしまうのに違いない。それではつまらない。
理性とは真逆に位置するその感情も、やはり彼女の行動を阻んでいた。
だがそれでも、時折抗いがたいほどに強く、衝動が突き上げてくることがある。――目の眩むほどの殺意を伴って。
◆
きれいに切り分けた梨の一片に、アンヌはナイフを突き立てた。さく、と軽い音がする。振り返ると、母がやはり醜い顔でこちらを睨んでいた。
「――なに、お母さん」
冷ややかな声で聞いてみても、何も言わない。ただ睨みつけるだけ。苛々した。
「邪魔なんだけど」
返答はない。仕方なく切り掛けの梨に向き直って、刺さっていたナイフを抜き取った。
「――気持ち悪いから出て行ってくれる?」
返答はない。残っていた半分の梨にナイフを入れる。
「今日は何しに来たの」
返答は――ない。
ナイフを置く。かたんと高い音が響いた。振り返る。老婆の汚い顔が目に入る。ああ――。
「――何なのかって聞いてるのッ」
――苛々する。
顔を歪めて怒鳴ったアンヌに、母の様子が変わった。汚らしい黄色に変じた頬の肉が吊り上がって、いびつな嘲笑いの形に変わる。
――まただ、とアンヌは思った。この女は――いつもそうだ。アンヌの嫌がることをする。そして彼女が激昂するのをみて喩ぶのだ。
――馬鹿にして。
ああ苛々する苛々する苛々するこの女は人を馬鹿にして早く早くもう早く――。
死んでしまえ。
くらりとするほどの衝動。これは。
これは――殺意だ。
◆
母が――倒れていた。
薄く目を開いて、仰向けになって横たわっている。
それを眺めながらなんの感慨もなく、ただぽつりとゴミみたい、とだけアンヌはつぶやいた。汚らしい老婆だ。生きているのか死んでいるのか、こうして見ただけではわからない。
気持ちが悪い。服の端を摘むようにして揺すってみると、空気が漏れるような音かした。生きているらしい。突き飛ばしたくらいでは人は死なないらしい。
そう思うと、一度引っ込んでいた殺意がまた膨れ上がってきた。
果物ナイフを取って来て、老婆の頚に押し当てる。この後のことはもう、既にどうでも良くなっていた。覚えていようが、忘れていようが――この女さえいなければ、もっと快く暮らせるのだ。
――老女の頚に当てたナイフを、彼女は勢いよく横に引いた。
血が溢れて。
◆
部屋が汚い。あちこち赤く汚れている。アンヌは呆けた顔でそこに座り込んでいた。
手を見る。赤い。粘つく。
わたしは何をしたのだろうと、上手く回らない頭で彼女は考える。この――身体と部屋を汚す赤いものはなんだろう。妙な臭いがする。気分が悪くなる。
掃除しなくちゃ、とつぶやいて立ち上がった。一歩足を踏み出すと、足の下でねちゃりと音を立てた。
――ああ、そうか。
アンヌは足元を見る。何かと思った。こんなに粘るのだもの、これは血だ――。
そこで彼女は訝しい表情になる。――誰の血だろう。こんなに血が出ていては、死んでしまうのではないだろうか。そういえば死ぬと記憶から消えるとか――。いや、その前に。
この血の主が死んでいるとして――どうしてアンヌの家で?もしかして、と彼女は手を見る。赤い。
――わたしが殺したの?
それはおかしい。実感がない。そんなことをした覚えはない。
ああでも、と彼女はまた思う。死ぬと記憶から消える――と、さっきもそんなことを考えた気がする。本当だろうか。本当にそうなのだろうか。
だとしたら――アンヌは部屋を汚した血液を見る。きっと、強盗か何かが入ったのだ。そうに決まっている。他に自分が人殺しをしてしまう理由がない。
姉のことは嫌いだが、もう交流もない。殺したい相手なんて居なかった。だから、誰に言う必要もない。ないはずだ。
――正当防衛だから。
何か胸の奥に引っ掛かっている感じがしたが、知らんぷりをしてアンヌは掃除を始めた。
家の中がきれいになってしまうと、もう呆れるほど何も思わなかった。どうせ見ず知らずの赤の他人だ。アンヌにとっては始めから、居なかったようなものである。
だがそれでも、胸に残ったもやもやとした引っ掛かり――人を殺したかもしれない、ということではなく、もっと別のことだという気がする――は、いつまでたっても消えなかった。
こんにちは。
というわけで、シリーズ第三弾です。ファンタジーと呼んで良いのか疑問なくらいに殺伐としたものが出来上がってしまい、ちょっと自分でも困っています。これ、どっちかというとホラーなんじゃ……と思わないでもありません。
今回は前二冊から離れて見ました。離れてみたら、なんとも気持ちの悪い親子が飛び出してしまいました。うーん。
では、ありがとうございました!