第8話 書かれない日々の空白
彼女は、特別な人生を送ってきたわけではなかった。
進学も就職も、平均的だ。大きな成功も失敗もない。友人は少なくないが、深く関わる相手はいない。毎日は静かで、少しだけ退屈だった。
それでも、彼女は生きていた。
朝は目覚ましで起き、適当に服を選び、電車に乗る。仕事でミスをすれば落ち込み、褒められれば少し嬉しい。帰り道、何を食べるか迷い、結局いつもの店に入る。
迷う。
失敗する。
後悔する。
それが、当たり前だと思っていた。
ある日、職場で噂を聞いた。
「最近、急に人生が止まった人がいるらしい」
理由はわからない。病気でも事故でもない。ただ、何も選べなくなったのだという。出社できず、連絡も取れず、部屋に閉じこもったまま。
彼女は、少しだけ怖くなった。
帰宅後、ネットでその話を探した。断片的な書き込みが、いくつも見つかる。
――急に何も決められなくなった。
――続きを待っている感じがする。
――人生のページが白紙になった。
意味がわからなかった。
その夜、彼女はノートを開いた。日記でも、計画でもない。何となく、ペンを走らせる。
――今日は、仕事で失敗した。
――昼ごはんを選ぶのに、十分迷った。
――帰り道、遠回りした。
書きながら、不思議な感覚に包まれた。
これは、誰にも書かれていない。
誰の都合でもない。
正解も、保証もない。
少し、心細い。
でも――動いている。
翌日、彼女は仕事を休んだ。理由はない。衝動だった。ベッドの中で迷い、結局、休むことを選んだ。その選択が正しかったかどうかは、わからない。
だが、その日は確かに存在した。
昼にコンビニへ行き、知らない雑誌を買った。読まないまま、カバンに入れた。意味はない。けれど、選んだ。
夕方、駅前で立ち止まる。
右に行けば家。
左に行けば、知らない道。
彼女は、左を選んだ。
何も起きなかった。
特別な出来事も、劇的な変化もない。
それでも、歩いた。
足が前に出た。
ふと、思う。
――もしかして、私は最初から書かれていなかった?
そうだとしたら、自分の人生はずっと、この空白の上にあったのかもしれない。
不安は消えない。
正解も見えない。
でも、止まらない。
その夜、ニュースで例の失踪者の記事を見た。
彼女は、画面を閉じて、静かに呟いた。
「私は、続きを待たない」
待たない代わりに、選ぶ。
間違える。
後悔する。
それだけでいい。
ノートの最後に、彼女はこう書いた。
――何も書かれていなくても、
――今日は、私の一日だった。




