第7話 止まったままの人
彼は、何もしていなかった。
正確に言えば、何も選べずにいた。
朝、目は覚める。カーテンの隙間から光が入る。時計を見る。起きる時間だと、頭ではわかっている。だが、体が動かない。
布団の中で、天井を見つめたまま、時間だけが過ぎていく。
会社には、もう行っていない。行かないと決めたわけでも、辞めたわけでもない。ただ、行くという選択肢が、どこにも見当たらなくなった。
以前は違った。
あの頃は、頭の中に道があった。
右に行けば、こうなる。
左に行けば、別の未来がある。
どれも怖かったが、少なくとも「選べた」。
今は、道そのものがない。
昼になっても、腹が減らない。スマホを手に取っても、何を見るか決められない。通知は溜まっているが、開く理由が見つからない。
世界が止まっているのではない。
止まっているのは、自分だ。
数日前まで、彼は不思議な感覚の中にいた。
選択肢が増えていた。
何を選んでも、大きく間違えない気がした。
だが、ある日を境に、それが消えた。
理由はわからない。ただ、急に「続き」が来なくなった。
まるで、物語の途中でページが白紙になったみたいに。
夜、久しぶりに日記を開いた。
――今日は、何もなかった。
そう書こうとして、手が止まる。
「何もなかった」と書くには、何かを選ばなければならない。
だが、その選択肢が、ない。
ペンを置いた。
彼は、ようやく気づいた。
自分は、誰かに「書かれていた」のだと。
だから、続きが来なくなった。
だから、止まった。
恐怖が、遅れてやってきた。
もし、このまま誰にも書かれなければ?
もし、ずっと続きを与えられなければ?
彼は、この部屋から一歩も出られないまま、生き続けるのか。
夜明け前、彼は衝動的に外に出た。
行き先は決めていない。ただ、動かなければ消えてしまいそうだった。
交差点に立つ。信号が変わる。人が渡る。
彼だけが、立ち尽くしている。
「渡らないんですか?」
通りすがりの声に、はっとした。
だが、返事ができない。
渡る理由も、渡らない理由も、ない。
そのとき、不意に思った。
――書かれなくても、選べる人はいる。
でも、自分は違う。
自分は、書かれてきた。
だから、自分で選ぶやり方を知らない。
彼は、震える声で、誰にも聞こえないように呟いた。
「……続きを」
返事は、ない。
信号はまた変わり、人の流れが途切れる。
彼は、交差点の真ん中に、取り残されたままだった。




