第6話 人生を返してほしい
彼は、約束の時間より十分早く喫茶店に着いた。
人目の少ない席を選び、ブラックコーヒーを頼む。苦味が舌に残ったまま、時間だけが過ぎていく。店内の音は遠く、心臓の音だけがやけに大きい。
——来る。
理由はわからない。ただ、そう確信していた。
ドアが開き、男が入ってきた。三十代半ば。派手さはないが、妙に目を引く。視線が合った瞬間、彼はわずかにうなずいた。
向かいの席に座る。名乗りはなかった。
沈黙のあと、男が口を開く。
「あなたが、書いている人ですよね」
否定はしなかった。否定できなかった。
男は続ける。
「最初は、感謝していました。人生が急に進み始めたから。迷っていたことが、全部、自然に選べた」
その言葉に、胸が痛む。第2話、第3話で見た“恩恵”の側だ。
「でも、途中から……違和感が出てきた」
男はカップに触れず、視線を落としたまま話す。
「選ぶ前から、結末がわかるんです。成功も失敗も。だから、失敗しない選択しかしなくなった」
彼はうなずいた。想像できる。選択肢が、選択でなくなる感覚。
「ある日、気づきました。俺、もう“選んで”ないなって」
男は顔を上げた。その目には、怒りよりも疲労があった。
「あなたが書いた通りに、生きてきました。たぶん、今も」
沈黙が落ちる。
「……だから、お願いがあります」
男は、はっきりと言った。
「人生を、返してほしい」
言葉は静かだった。叫びはない。だからこそ、重い。
「返す、って……」
声が掠れた。
「俺に、続きを書かないでください。正解も、救いも、いりません。失敗して、後悔して、それでも進む——その権利を返してほしい」
正論だった。否定しようがない。
だが、同時に別の現実が突きつけられる。
「書かないと……止まる人がいます」
男は少しだけ笑った。
「知ってます。止まりかけたことがあるから」
胸の奥が、締めつけられる。
「でも、止まるのと、操られるのは違う」
男は席を立った。
「選ばせてください。失敗させてください。俺の人生を、俺に戻してください」
去り際、振り返って言った。
「あなたが悪いわけじゃない。でも……あなたが書いている限り、俺は自由じゃない」
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
彼は一人、席に残った。コーヒーは冷めている。
神でもなければ、救世主でもない。ただ書いていただけだ。だが、その“だけ”が、誰かの人生を縛っていた。
帰り道、頭の中で選択肢が分岐する。
書く。
書かない。
選ばせるために、書く。
どれも正解になり得る。どれも、罪だ。
夜、机に向かった。画面は白い。これまでなら、ここから物語が始まった。
彼は、書かなかった。
代わりに、カーソルを点滅させたまま、時間を置いた。選択肢を提示しない。結末も与えない。ただ、空白を残す。
それが、彼にできる唯一の返却だった。
送信ボタンを押さず、ファイルを閉じる。
胸の奥で、不安と安堵が同時に息をした。
——これで、いいのか。
答えはない。
だが、はっきりしたことがある。
物語は、人を救える。
同時に、人を縛る。
そして今、彼は初めて、縛らない選択をした。




