第5話 書けなかった一週間
書けなかった一週間
月曜日の朝、彼は書かなかった。
正確には、書けなかった。
パソコンを開き、エディタを起動し、白い画面を前にしたまま、何時間も過ごした。指はキーボードの上に置かれているのに、一文字も打てない。
理由はわかっていた。
怖かったのだ。
書けば、誰かの人生が進む。
書かなければ、誰かの人生が止まる。
それを知ってしまった以上、これまでのようには書けない。軽い気持ちで言葉を並べることが、許されない気がした。
昼になっても、何も書けなかった。
スマートフォンを見ると、通知が溜まっていた。編集者からの連絡。読者の感想。更新を待つ声。どれも、以前なら力になったはずのものだ。
今は、全部が重い。
火曜日も、水曜日も、同じだった。
書けない時間が続くほど、頭の中が騒がしくなる。
これを書いたら、誰かが選ぶ。
これを書かなければ、誰かが迷う。
そんな想像が、勝手に膨らむ。
木曜日、外に出た。気分転換のつもりだった。だが、街の風景が以前と違って見えた。
交差点で立ち止まる人。
電車でうつむく人。
スマホを見つめて動かない指。
――今、止まっているのは、誰だ?
考え始めた瞬間、吐き気がした。自分が世界の中心に立ってしまったような錯覚。そんなはずはないのに、無関係でいられなくなっている。
金曜日の夜、彼は初めて、原稿用紙を閉じた。
「今日は、書かない」
そう決めたつもりだった。だが、決断したはずなのに、胸の奥はざわついたままだ。書かないことも、選択になってしまったからだ。
土曜日、ニュースを見ていた。
小さな記事だった。
――原因不明の失踪。
――仕事を辞めたまま、連絡が取れない。
名前を見て、手が止まった。
見覚えがある。
彼が、以前書いた短編の「モデル」になった人物だ。
胸が締めつけられる。
日曜日の夜、ついに眠れなくなった。目を閉じると、過去に書いた文章が浮かぶ。その一文一文の先に、誰かの顔が重なる。
彼は気づいた。
自分は、神でも観測者でもない。
ただの人間だ。
それなのに、人生を動かす責任だけを背負わされている。
深夜、机に向かい、ノートを開いた。
物語ではない。プロットでもない。
震える字で、こう書いた。
――書けません。
――怖いです。
――誰か、止めてください。
その瞬間、胸に重くのしかかっていた何かが、少しだけ動いた気がした。
翌朝、メールが一通届いていた。
差出人は、知らない名前。
件名は、短い。
「あなたに、人生を返してほしい」
彼は、画面を閉じなかった。
逃げなかった。
この一週間で、はっきりしたことがある。
書くことは、救いじゃない。
書かないことも、救いじゃない。
それでも、向き合わなければならない。
彼は、ゆっくりとキーボードに手を置いた。
次に書くのは、物語ではないかもしれない。
それでも――
続きを、避けることはできなかった。




