表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/17

第4話 幸せの完成形

その家には、欠けているものがなかった。


 郊外の静かな住宅街。手入れの行き届いた庭。白い外壁に、柔らかな日差し。玄関を開ければ、ちょうどいい温度と、ちょうどいい匂いが迎えてくれる。


 夫は優しく、子どもは素直だった。仕事は安定していて、休日には家族で出かける。特別な成功はないが、失敗もない。誰に話しても「理想的ですね」と言われる暮らし。


 彼女自身も、そう思っていた。


 思っていた、はずだった。


 違和感は、小さなところから始まった。

 夕食の献立を考えるとき、迷わない。

 子どもにかける言葉も、夫への返事も、自然に「最適なもの」が浮かぶ。


 感情が伴わない。


 怒るべきところで、怒らない。

 悲しむべき場面で、涙が出ない。

 すべてが、予定調和だった。


 夜、ひとりで台所に立つと、胸の奥がひどく静かだった。波も音もない。まるで、完成した箱の中に閉じ込められているような感覚。


 そんなとき、あの短編小説を読んだ。


 幸せな家庭を持つ女性の話だった。

 愛され、満たされ、迷いのない人生。


 ページをめくるたびに、心臓が早くなる。


 ――これ、私の一日だ。


 朝の動線。

 子どもの癖。

 夫の沈黙の意味。


 すべてが一致している。

 読み終えた瞬間、彼女は確信した。


 この幸せは、誰かに書かれている。


 それでも、その日は穏やかに過ぎた。翌日も、翌々日も。幸せは壊れない。崩れない。むしろ、磨かれていく。


 だが、気づいた。


 幸せが、増えない。


 完成しているからだ。


 もう、先がない。

 良くなる余地も、悪くなる可能性もない。


 子どもが初めて反抗した日。

 彼女は、反射的に正しい対応をした。

 叱りすぎず、甘やかさず。


 夜、布団に入ってから、ふと思った。


 ――私は、本当はどうしたかった?


 答えは出なかった。選択肢がなかった。


 数日後、あの作家の更新が止まった。


 それと同時に、家の中が変わり始めた。

 夫の言葉に、間が生まれる。

 子どもの表情が、読めなくなる。


 不安が、戻ってきた。


 怖かった。でも――懐かしかった。


 彼女は、初めて声を荒げた。

 初めて泣いた。

 初めて、正しくない選択をした。


 家は少し、散らかった。

 空気は重くなった。

 それでも、息ができた。


 夜、彼女は小説の最後の一文を思い出す。


 ――彼女は、幸せだった。


 違う。


 今は違う。


 彼女は、震える手でノートを開き、こう書いた。


 ――幸せじゃなくていい。

 ――正解じゃなくていい。

 ――だから、助けて。


その言葉を書いた瞬間、

人生が、ようやく自分のものに戻った気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ