第3話 正解が多すぎる
彼女は、失敗したことがなかった。
少なくとも、ここ最近は。
大学、就職、結婚、転職。どの選択も、結果だけ見れば正解だった。年収は上がり、周囲からの評価も高い。SNSに載せれば「羨ましい」と言われる人生だ。
それでも、胸の奥がざわついていた。
理由は簡単だ。
選択肢が、多すぎる。
朝起きた瞬間から、頭の中に分岐が溢れ出す。
今日はどの服を着るか。
どの仕事を優先するか。
どの人と、どんな距離で生きるか。
しかも、そのどれにも「正解」がついてくる。
この服を選べば評価が上がる。
この案件を受ければ昇進する。
この人と会えば、将来が安定する。
間違いがない。
だから、迷いもない。
最初は楽だった。人生が攻略ゲームみたいに感じられた。正解ルートが見えているなら、選ぶのは簡単だ。
だが、次第におかしくなった。
正解が増えすぎたのだ。
どれも正しい。どれも成功する。
だからこそ、選べない。
昼休み、ランチを前に立ち尽くす。同僚に声をかけられても、返事が遅れる。頭の中で、無数の未来が同時に再生される。
――この店に入る未来。
――別の店に行く未来。
――昼を抜いて仕事を進める未来。
どれも破綻しない。
どれも「良い人生」だ。
彼女は初めて、怖くなった。
夜、家に帰ってからも同じだった。連絡を返すか、返さないか。会うか、会わないか。未来が枝分かれし、重なり合い、収拾がつかなくなる。
ベッドに横になっても、眠れない。
正解が、うるさい。
そんなとき、例の短編小説を読んだ。
主人公は、選択肢に恵まれた人間だった。すべてを手に入れ、すべてを失わない。文章は淡々としているのに、なぜか息が詰まった。
――これ、私だ。
読み終えた瞬間、選択肢がひとつ消えた。
翌日、またひとつ消えた。
胸を撫で下ろした自分に、彼女は愕然とした。
減って、嬉しい?
選択肢が減るほど、頭が静かになる。正解が少なくなる。代わりに、不安が戻ってくる。でも、それは懐かしい不安だった。
昔、何もわからなかった頃の、不安。
数日後、彼女は思い切って、ひとつの選択をした。
成功も保証もない道だ。
選んだ瞬間、未来は一気に霞んだ。正解の表示は消え、結果は見えない。それでも、胸が少しだけ軽くなった。
その夜、彼女は日記にこう書いた。
――正解がなくなって、やっと息ができた。
だが、最後の一文を書こうとして、手が止まった。
続きを、書けない。
頭の中に浮かぶ選択肢が、完全に消えていた。
彼女は気づいた。
自分の人生は、誰かが書くのをやめると、止まる。
正解が欲しいわけじゃない。
選ばせてほしいだけなのに。
日記の最後に、震える字で書いた。
――お願いだから、書き続けて。




