第19話 最後の原稿
彼は、締切を決めなかった。
いつまでに書くかを決めると、
それ自体が誰かの人生の期限になる気がしたからだ。
机の上には、何もない。
メモも、プロットも、下書きも。
あるのは、これまでに書いてきた文章の束だけだ。
救いと、停滞と、怒りと、信仰。
誰かの選択肢になり、誰かの呪いになった言葉。
彼は、一枚ずつめくった。
意図は、すでに意味を失っている。
解釈は増殖し、切り離され、
彼の手を離れたところで生きている。
――だったら。
彼は、初めて何を書かないかを決めた。
正解を書かない。
救済を書かない。
進めとも、止まれとも、書かない。
書くのは、空白の扱い方だけ。
原稿用紙に、短い文を置く。
> 選択肢は、ここにある。
>
> だが、結末は示さない。
それだけでは足りない。
読まれれば、また“指示”に変わる。
彼は、さらに書いた。
> この文章は、誰の人生も導かない。
>
> 読んだ人が、選んだ結果だけが、残る。
責任を放棄しているように見える。
だが、彼は分かっていた。
責任を集中させないための文章だ。
書き手がいない状態でも、
言葉が暴走しないようにする。
教義にならないようにする。
それは、物語の形をしていなかった。
むしろ、物語の否定に近い。
夜明け前、彼は原稿を閉じた。
タイトルは、つけなかった。
著者名も、入れなかった。
公開の方法も、決めていない。
ただ、最後に一文だけ、書き足した。
> もし続きを求めるなら、
>
> それは、あなたが選ぶ番だ。
その瞬間、胸の奥で、何かがほどけた。
救えなかった人の顔が浮かぶ。
期待に応えられなかった声が重なる。
それでも、これ以上、
誰かの人生を“まとめて”扱うことはできない。
彼は、原稿を封筒に入れた。
宛名はない。
差出人もない。
――誰かが拾えばいい。
――拾わなくてもいい。
それでいい。
机の引き出しを閉め、部屋を見渡す。
ここは、書き手の場所だった。
もう、そうではない。
彼は、鍵を置いた。
原稿は、残る。
だが、書き手は残らない。
それが、彼にできる唯一の整理だった。




