第18話 書き手の責任限界
彼は、数を数えるのをやめた。
何人が救われ、
何人が止まり、
何人が壊れたのか。
最初は把握しようとした。
書いた内容と、起きた出来事を照合し、
自分の言葉がどこまで影響したのかを追った。
だが、もう無理だった。
影響は、直線ではない。
一人に届いた選択肢が、
別の誰かの決断を変え、
さらに別の誰かの人生を歪ませる。
連鎖は、指数関数的に増えていく。
彼が書いた一文が、
直接救ったのは一人かもしれない。
だが、その周囲で起きた変化は、
百人単位に及んでいた。
「どこまでが、あなたの責任ですか」
集会で、そう問われた。
責める口調ではない。
むしろ、困惑している。
「あなたが書いたことで、
救われた人がいる。
でも、そのせいで、
書かれなかった人もいる」
彼は、答えられなかった。
正確な境界が、存在しないからだ。
「全部ですか」
「一部ですか」
「それとも、関係ないんですか」
質問は、正しい。
だからこそ、残酷だった。
夜、彼は過去の文章を読み返した。
意図していない解釈。
勝手に拡張された意味。
彼の知らないところで、
“教義”として使われている一文。
——それは、そういう意味じゃない。
何度も、そう思った。
だが、同時に理解している。
書いた瞬間から、
意味は書き手の手を離れる。
新聞に、小さな記事が載った。
《選択誘導による社会混乱》
《責任の所在はどこに》
専門家のコメントが並ぶ。
「個人の影響力としては異常だ」
「だが、法的責任を問うのは難しい」
「意図が証明できない」
意図。
彼は、笑いそうになった。
善意だった。
怖かった。
放っておけなかった。
それだけだ。
だが、善意は免罪符にならない。
怖さは理由にならない。
「じゃあ、どこまで背負えばいい」
誰に向けた言葉でもなく、
彼は呟いた。
全員か。
誰もか。
どちらも、現実的じゃない。
ある日、集団の代表が訪ねてきた。
「あなたが直接書かなくてもいい」
「指針だけ示してほしい」
責任を、分割しようとしている。
だが、それもまた、
彼を中心に据えた構造だ。
彼は、はっきりと言った。
「もう、背負えません」
その言葉は、拒絶ではない。
事実だった。
人の人生を、
無制限に引き受けられる人間はいない。
書き手であっても、
例外ではない。
沈黙のあと、誰かが言った。
「じゃあ、どうするんですか」
彼は、答えた。
「限界を、認めるしかない」
書ける範囲。
責任を持てる範囲。
理解できる範囲。
それを超えた影響は、
もう、自分の手に負えない。
その夜、彼はノートに線を引いた。
ここまで。
これ以上は、無理だ。
だが、線を引いた瞬間、
はっきり分かった。
限界を引くこと自体が、
すでに一つの選択であり、
誰かを切り捨てる行為だ。
責任を負い続けることも、
責任から降りることも、
どちらも傷を生む。
彼は、初めて思った。
もしかしたら、
書き手という存在そのものが、
この世界では、もう成立しないのかもしれない。




