第1話 書けなくなった作家
三年間、物語を書いていない。
正確に言えば、文字は打ってきた。企画書、メール、請求書、言い訳。だがそれらはすべて、物語ではなかった。始まりも終わりもなく、誰かの人生を動かす意志もない。そんなものを、俺は三年間量産してきた。
新人賞を取ったのは、もうずいぶん前のことだ。あの頃は、何を書いても楽しかった。登場人物が勝手に喋り、勝手に選び、勝手に失敗してくれた。俺はただ、それを書き留めていればよかった。
だが今は違う。画面を開いても、白いページの前で手が止まる。「何を書く?」と自分に問いかける声が、やけに他人行儀に聞こえた。
生活費が尽きかけている。貯金は底をつき、家賃の支払い通知がスマホに表示されたまま消えない。だから俺は、書く意味を探すのをやめた。意味なんてなくていい。ただ金になる文字を並べればいい。
そう思って、短編を書いた。
テーマはない。伝えたいこともない。中年の男が、仕事を辞めるかどうか迷って、結局辞める。それだけの話だ。構成も雑で、比喩も浅い。自分で読み返して、「これは作品じゃないな」と思った。
それでも投稿した。背に腹は代えられない。
数日後、ニュースサイトを眺めていたときだった。
地方欄の片隅に、妙に目を引く記事があった。
――四十代男性、長年勤めた会社を退職。理由は「もう迷えなくなったから」。
記事の内容は、俺の短編とほとんど同じだった。年齢、職種、家庭環境。偶然にしては、細部が一致しすぎている。特に気になったのは、その男の癖だった。決断の前に、必ずコーヒーを一口飲む。俺が何気なく書いた、どうでもいい描写だ。
気味が悪くなって、タブを閉じた。偶然だ。世の中には似た人生なんていくらでもある。
そう自分に言い聞かせた翌日、SNSで同じ話題が流れてきた。今度は別の人物だ。状況も選択も、俺が書いた別の短編と酷似している。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
試しに、もう一本書いてみた。今度も、どうでもいい話だ。選択に迷う人間。何かを選び、何かを失う。それだけ。
数日後、また現実が動いた。
俺は、ようやく理解した。
これは偶然じゃない。
俺が書くと、誰かの人生に「続き」が生まれる。
その瞬間、喜びよりも先に、恐怖が来た。もしそうなら、俺は今まで何をしてきた? 三年間書けなかった時間は、誰かの人生を止めていたんじゃないのか。
画面の白さが、急に重く見えた。
書けなくなった作家だと思っていた。違う。
俺は――誰かの人生に触れてしまっただけの人間だ。
キーボードに指を置く。
書くべきか、書かざるべきか。
その選択肢が、こんなにも重いとは知らなかった。




