第1話 幼少の日々
幼い頃、俺は泥だらけのまま走り回っていた。
日が暮れるまで、農村の子どもたちと笑い合いながら、田のぬかるみに足を取られては転げ、また立ち上がる。
遊び道具など何もなかったが、それでも世界は広く、俺たちは何にでもなれた。
小石は宝に、木の枝は刀に、川の流れは冒険の入り口だった。
裸足の足裏から伝わる土のやわらかさも、生きている証のように思えていた。
村には争いというものがなかった。
作物も魚も、それぞれが持ち寄り、分け合って暮らす日々。
足りないものは互いの手間と笑顔で補い合っていた。
誰が偉いでもなく、誰が上でも下でもない。そこにあるのは、ただの“共に生きる”という空気だった。
◇ ◇ ◇
父は寡黙な人だった。
朝が来れば山へ入り、夕方には薪を背負って帰ってくる。
無駄口を叩くこともなく、黙々と斧を振り下ろし、音を響かせながら薪を割る。
その音が響くたび、幼い俺の胸の奥に何かが刻まれるようだった。
(あの背中が、家族を支えているんだ)
小さな肩でそんなことを思っていた。
言葉で語らなくても、背中で何かを伝えてくれる存在だった。
◇ ◇ ◇
日が沈みだし、囲炉裏の火が灯るころになると、母の作る【けんちん汁】が湯気を立て始める。
味噌と野菜の香りが、土間の隅々まで染み渡り、椀を手にした瞬間、指先にまで温もりが沁みた。
人参の甘みと大根のほろ苦さが、じんわりと舌の奥に広がる。
遊び疲れた体が、その一杯でやわらかくほどけていく気がした。
「ほら、こぼさないようにね」
母が微笑む。俺は黙って頷きながら、汁を啜る。
その横で、父は静かに酒を口にしている。
やがて、すすり音が重なり、誰ともなく笑い声が囲炉裏端にこぼれた。
◇ ◇ ◇
そのときが、何よりも尊かった。
(この村は、きっとずっと変わらない)
子ども心に、そう信じていた。
雨が降り続く日々など、この時の俺には想像すらできなかったのだ。