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第3話 — 物語る人

「熊の話は嘘だった。 おにぎりの話は、少しだけ本当だった。」



扉が勢いよく開く。静寂に似合わない音。 風が店内に入り込むが、注目を集めたのは風ではない——まるで舞台に登場するかのような男だった。


派手なコート。傾いた帽子。練習したような笑顔。でも、嘘ではない。


男は先生に向かって大げさに手を振る。旧友に再会したかのように——いや、初対面なのに。


「この店、いい匂いがするな。きっと、いい物語が眠ってる。」


そう言って、当然のように真ん中の席に座る。まるで自分の席だと言わんばかりに。


先生は返事をしない。ただ、いつものようにグラスを丁寧に拭き続ける。


男はコートも脱がずに話し始める。


「昔な、熊と戦ったことがある。おにぎりのために。あいつは梅干し狙いで、俺は鮭。壮絶な戦いだった。熊は頑固だったけど、俺はもっと頑固だった。」


先生はグラスを棚に戻す。笑わないが、目が何かを語っている。


ラジオがいつもより軽快なメロディを流し始める。まるで空気を読んだかのように。


「先生、偶然って信じるか?俺は信じない。信じてるのは“脚本”だ。この店も、俺の物語に書かれてる。」


先生は何も聞かず、何も言わず、料理の準備を始める。


男は気づく。


「魂を胃袋で読むタイプか。いいね。驚かせてくれ。」


彼は話し続ける。大阪で有名なシェフと間違われた話、地震の中でラーメンを作った話、知らないうちに料理コンテストに勝った話。


一つ一つの話にジェスチャーがあり、間がある。だが、笑顔の奥にある目は、どこか違っていた。


先生はおにぎりを握り始める。男はそれを見つめる。


「それ…妹を思い出すな。動物の顔をつけたおにぎりを作ってた。『食べられる前に笑うべきだ』って言ってた。」


男は笑う。でも、その笑いは短い。


「彼女はうまかったよ。俺よりずっと。でも、物語を語るのは苦手だった。彼女は物語を“生きてた”んだ。」


ラジオが曲を変える。軽やかだが、どこか懐かしい旋律。


先生は料理を仕上げる。男の前にそっと置く——動物の顔が描かれた三つのおにぎり。鮭、梅干し、白米。


男は見つめる。笑う。でも、言葉はない。


まるで幼い頃の絵を再会したように、おにぎりを見つめる。鮭のおにぎりを手に取り、指で回す。


「彼女、こういうの作ってた。熊とか猫とかタコとか。『食べられる前に笑うべきだ』って。」


一口かじる。目を閉じる。


「子供の頃の味だ。甘さはないけど。」


先生は静かにお茶を差し出す。男は、今度は静かに話し始める。ジェスチャーも、演出も減っている。


「彼女は俺のこと、バカだって言ってた。でも、笑ってた。大きな声で。幸せに見えることを恐れてなかった。」


二つ目のおにぎり——梅干し。男はそれを見つめる。記憶のように。


「これが彼女のお気に入りだった。よく喧嘩したよ。『酸っぱさは魂を浄化する』って言ってた。俺は『飲み込みづらくなるだけだ』って。」


男は笑う。でも、その笑いはすぐに消える。


「彼女は言った。俺はいつも逃げてるって。…俺は、彼女からも逃げた。」


ラジオが同じ曲を流し始める——冒頭と同じ旋律。でも、どこか輝きが薄れている。


「彼女、まだ俺を探してるらしい。友達が言ってた。『彼女が俺のことを聞いてた』って。でも…俺には無理だ。」


先生はカウンターを拭く。男は冷めかけたお茶をゆっくり飲む。


「もし会ったら、全部崩れるかもしれない。もしかしたら、彼女は許してくれるかもしれない。でも…俺にはその資格があるのか分からない。」


男は最後のおにぎり——白米だけのものを手に取る。食べない。ただ、握っている。


「これ、彼女が『ここにいるよ』って言いたい時に作ってた。飾りもない。気を逸らすものもない。」


沈黙が訪れる。欠如ではなく、余白としての沈黙。


先生は何も言わない。だが、ラジオが曲を変える。懐かしい旋律——もしかしたら、彼女が好きだった曲かもしれない。


男はおにぎりを握ったまま動かない。過去と、まだ訪れていない未来の間に架けられた橋のように。


しばらく言葉はない。ただ、白米のおにぎりをそっと握り続ける。壊れそうで、手放せないもののように。


お茶はすっかり冷めている。でも、男は湯飲みを持ち続ける。温もりは、記憶の中に残っている。


「彼女は言ってた。『白いご飯は、何も言えない時のためのもの』って。ただ、そばにいるためのもの。説明なんていらない。」


先生は空になった皿を片付ける。白米のおにぎりだけは、そのまま残す。


男はカウンターを見る。ラジオを見る。床を見る。


「本当のことを話したら、彼女は消えてしまうかもしれない。だから、物語の中で生きていてほしい。そこでは、いつも俺を許してくれる。現実では…分からない。」


ラジオが古い曲を流す。誰かが思い出す必要がある時だけ流れるような曲。


「俺は出て行った。『彼女が俺を縛ってる』って言って。彼女はただ、俺にいてほしかっただけなのに。」


先生は新しいお茶を淹れる。今度は、温かい。


男は礼を言わない。でも、両手で湯飲みを包む。内側から温まりたいかのように。


「俺が物語を語るのは、謝るより簡単だから。『間違えた』って言うよりも。『会いたい』って言うよりも。」


先生はゆっくりとカウンターを拭く。目を合わせない。でも、全身で耳を傾けている。


男はお茶を飲む。ゆっくりと。一口ごとに、記憶を味わうように。


「もし彼女が、あの扉から入ってきたら…俺はどうするだろう。逃げるかもしれない。残るかもしれない。」


彼は白米のおにぎりをカウンターの中央に置く。供え物のように。願いのように。


ラジオが一瞬だけ沈黙する。そして、同じ旋律が戻る——音と音の間に、少しだけ余白がある。


扉が軋む。空気が変わる。


扉がゆっくりと開く。まるで風が許可を求めたかのように。


女性が入ってくる。質素なコート。ためらいのある目。小さな袋を持っている——彼女が作ったものかもしれない。


男はすぐには振り向かない。でも、肩の形が変わる。古い重みを思い出したように。


彼女はカウンターに近づく。座るべきか迷って、立ったまま。


「ユウが言ってた。あなたがここに来るって。…ただ、鮭のおにぎり、まだ好きかどうか知りたかった。」


男は皿を見る。白米のおにぎりを見る。先生を見る。


先生は何も言わない。ただ、静かにお茶を淹れる——二人分。


彼女は隣に座る。触れない距離で。並んで。


男は言う。「熊、負けたんだ。」


彼女は笑う。「そりゃそうよ。あなた、頑固だったもの。」


男は皿をゆっくりと押し出す。最後のおにぎりを差し出すように。 彼女は小さな、控えめな仕草でそれを受け取る。


二人は一緒に食べる。急がず。言葉も多くはない。


ラジオが懐かしい曲を流す——二人が知っていたかもしれない歌。


先生はカウンターを拭く。ゆっくりと。時間を尊ぶように。


男は妹を見つめる。


「本当の話、聞きたいなら話すよ。でも、まず嘘の方で笑ってくれるって約束して。」


彼女は微笑む。「約束する。」


お茶は冷めていく。でも、誰も席を立たない。


夜が息をする。時間は、また静かに止まる。

この話は、赦しの物語じゃない。 ただ「そこにいる」ことの話だ。 どうすればいいか分からなくても。 ふさわしくなくても。


嘘を語って、笑ってもらえたら—— そのあとで、本当のことを話せるかもしれない。


言葉にできないものを、料理が運んでくれる。


男はよく喋る。でも、大事なのは語られない部分。 妹は責めない。ただ、現れる。 それだけで、何かが変わる。


時間は解決しない。 でも、時々止まってくれる。 その一瞬で、誰かと一緒に呼吸できる。 たとえ、それが今夜だけでも。

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