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第2話 — ノート

「彼は書いていた。 でも、話すことはなかった。」



街は、宙に浮いているようだった。 目覚めてもいない、眠ってもいない。 湿った空気。 街灯はためらいながら灯る。 まるで、闇を好むものがいると知っているかのように。 アスファルトは、消えない記憶のように、光の断片を映していた。


店の中では、時間が違う。 ゆっくりと、親密に流れている。


先生は明かりをつける。 パチンという音も、ためらいもない。 ただ、静けさを尊重するように、ぬるい光がじわじわと広がっていく。


黒い木材は、今夜は少し疲れて見える。 まるで、何度も夜を吸い込んできたかのように。


カウンターはきれいに磨かれている。 だが、隅に小さなひびがある。 ほとんど気づかれないほどの。


瓶はいつもの場所に並んでいる。 ただ、一つだけがずれている。 誰かが触れたのか、それとも思い出されたのか。


先生は白い布を手に取り、グラスを拭き始める。 急がない。 一つ一つの動きが、儀式のような重みを持っている。


古くて忠実なラジオが、日本のインストゥルメンタルを流し始める。 控えめで、優しい旋律。


鍋の中で煮える出汁の音が、音楽と混ざり合う。 湯気と静けさの間にしか存在しない、特別なBGM。


先生は何も言わない。 何千回も繰り返してきたような、正確な動き。 一つ一つの所作に、時間と重みがある。


扉が、しっかりとした音を立てて開く。


男が入ってくる。 周囲を見回すことなく。 まるで、心の中ではすでにここにいたかのように。


黒いコート。濡れた靴。 手には使い込まれたノート。


席に着く前に、カウンターに触れる。 ここに来たことを、確かめるように。


何も言わない。 だが、その沈黙には重みがある。 空虚ではなく、待ちの気配。


先生は最後のグラスを拭き終える。


短い間。 目を向けずとも、存在を認識するような間。


男はノートをカウンターに置く。 開かない。 ただ、そこに置くだけ。 まだ読み返すべきか迷っている記憶のように。


ラジオが流れる。 出汁が煮える。 湯気が二人の間に立ち上る。 時間と香りでできた橋のように。


沈黙が、包み込む。


男はまだ言葉を発していない。 だが、その目がすでに語っている。


先生は何も聞かない。 ただ、始める。


ご飯を取り、卵を丁寧に割り、鍋に直接入れる。


香りが立ち上る。 醤油、生姜、そして記憶。


男は目を上げる。 驚きではなく、懐かしさのように。


指先でノートに触れ、ゆっくりと開く。


ページは擦り切れている。 だが、言葉はまるで今書かれたばかりのように鮮明。


一行読む。 そして、もう一行。


心の奥で何かが動く。 思い出したくなかった記憶に触れたように。


「父が、先週亡くなったんです。」 声は低く、つぶやくように漏れる。 まるで、店が語らせたように。 彼自身ではなく。


先生は答えない。 ただ、ネギを刻み続ける。 包丁の音が、カウンターに優しく響く。 途切れない、静かな傾聴のように。


「彼は、あまり話さなかった。でも、これを残した。」 男はノートを指さす。もう触れない。


「ここにある言葉…聞いたこともない。彼がそんなことを考えていたなんて、想像もできなかった。」


先生は鍋のご飯を混ぜる。 湯気が、記憶のように立ち上る。


「彼は、料理で気持ちを伝えようとしていたらしい。言葉では…うまくできなかったから。」


先生は笑う。 軽く、ほとんど聞こえないほどに。


先生は料理を出す。 儀式も言葉もなく。 ただ、必要とされるものを差し出すように、静かに置く。


男は皿を見つめる。 評価するようではなく、思い出すように。


「ありがとう」とは言わない。 だが、肩の力が抜ける。 それだけで、十分だった。


男はゆっくりと食べる。 礼儀ではなく、 一口一口に、語られなかった言葉を感じるように。


味は、素朴。 だが、その中に誰かの存在がある。 映像ではなく、感覚としての記憶。


男は目を閉じる。 深く息を吸い、そして先生を見ずに話し始める。


「彼が、僕に無関心だと思ってた。ずっと。 彼は…厳しくて、冷たくて。 愛してるなんて言わなかったし、僕のことを気にかけてる様子もなかった。」


先生はゆっくりとカウンターを拭く。 目を向けず、ただ耳を傾ける。


「でも今…このノート。 この言葉。 『彼を誇りに思っている』 『もっと言いたかった』 『卵かけご飯を作った、彼が好きだったから』」


男は笑う。 だが、その笑いは目に届かない。 生まれる前に壊れてしまうような笑い。


「彼は書いていた。 でも、話すことはなかった。 一度も。」


先生は温かいお茶を出す。 音もなく、視線も交わさず。 だが、確かな存在感で、そっと置く。


男は両手で湯飲みを持つ。 壊れやすいものを抱えるように。 残されたものを、守るように。


ラジオが曲を変える。 古い旋律。 父が聴いていたかもしれない。 いや、違うかもしれない。 でも、今はそれが正しい気がする。


男はもう話さない。 だが、その沈黙は変わった。 欠如の沈黙ではなく、理解の沈黙。 遅すぎたとしても。


お茶は、もうほとんど冷めている。 だが、男はまだ手に持っている。 残された温もりが、もう少しだけ時間をくれるように。


最後の一口を飲む。 ゆっくりと。 始まることのなかった何かに、別れを告げるように。


湯飲みをカウンターに置く。 財布を取り出し、静かに金を置く。 釣り銭も、値段も聞かない。


先生は動かない。 ただ、見つめる。


男は立ち上がる。 ノートを手に取る。 しまわずに、手で持つ。 その重みを受け入れるように。


去る前に、少しだけためらう。


先生は空の皿を見る。 そして、男を見る。


そして、言う。


「彼は、彼なりの愛し方をしていたのかもしれない。」


その言葉は、返事を求めない。 ただ、空気の中に漂う。


男は一瞬立ち止まる。 皿を見る。 湯飲みを見る。 鍋から立ち上る湯気を見る。


「この味が、彼の言いたかったことなのかもしれない。 僕が、ずっと理解できなかったこと。」


返事は待たない。 扉を開けて、出ていく。


外は湿っている。 だが、空気は少し軽くなった。 何かが、世界に戻されたように。


先生はカウンターに残る。 皿も、湯飲みも片付けない。 ただ、見つめる。


ラジオは続く。 古い歌。 遠い声。 先生だけが知っているかもしれない。


湯気を見る。 もうノートはない。 そして、先生はカウンターを拭き始める。 ゆっくりと。 残されたものを、尊ぶように。


店は息をする。 夜は続く。 そして、店の中の時間は、 流れずに、ただそこにある。

いくつかの言葉は、語られるために生まれてこない。 ノートの中に、温かい料理の中に、小さな仕草の中に、そっとしまわれている。 時には、愛に言葉はなく、ただ「そこにいる」だけ。


この話では、沈黙が語った。 そして、時が過ぎたあとに残るものは、 名前のないまま差し出されたものを、理解しようとする試みなのかもしれない。


感情を運ぶ味がある。 空になった皿が、記憶を語ることもある。


彼が愛していたなら、それは彼なりの方法だった。 そして、時には、それだけで十分なのだ。

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