芽生えてしまった恋心
隣の部屋から、大きな笑い声が聞こえる。
「何を騒いでるんだろうね、男どもは。」
フィオリアの髪を梳いていたウィールは、顔をしかめて隣の部屋の方を睨む。
それに倣って同じ方向を仰いでいたフィオリアは、ふと口を開いた。
「シュルクも、声を出して笑うんですね……」
「あら、あの子はそんなに気難しい子じゃないよ。」
ウィールはくすくすと笑う。
「あんまり感情を表に出すと霊子が寄ってくるから、基本的に鉄面皮を徹底してるだけさ。本当はよく笑う子だし、案外剽軽なところもあったりするんだよ。なんだかんだと困ってる人を放ってはおけない、ちょっとまっすぐすぎる子さ。」
時おり人の傷口に遠慮なく塩を塗りたくるのが玉に瑕だと語るウィールに、フィオリアも笑いを誘われて頬を緩めた。
「知ってます。本当にまっすぐな人でしたもん。私、説教されてばっかりでした。」
シュルクと小屋で過ごした日々を思い返すと、いつも不機嫌そうに自分の矛盾点や欠点をついてくる彼の姿ばかりが浮かんでくる。
「でも……」
フィオリアはそこで、眉を下げた。
「あんな風に……優しく笑う人なんだってことは……今日、初めて知りました。」
ルルンやグレーと話していた時のシュルクの表情が、頭を離れない。
衝撃的だった。
あんなに穏やかで優しげな微笑みを浮かべて、ものすごく柔らかな声を出して語る人だったなんて。
また一つ知った、彼の新たな一面。
それが嬉しくて、悲しくて―――
「姫様……」
憂いを帯びたウィールの声。
静かに伸びてきた手が目元をなでて、目の端に浮かんでいた雫を拭っていく。
それで初めて、泣いていたことに気付いた。
「あ……私……」
とっさにこらえようと思ったのに、涙は止まるどころか次々にあふれていく。
「………っ」
フィオリアはたまらず、顔を覆った。
「私には責任がないって……そう言われたんです。」
ウィールが優しく背をなでてくれて、それがどんどん言葉を促していく。
「お前はなんにも悪いことなんてしてないんだから、堂々としてろって……そう言うんです。ルルーシェの過ちは、ルルーシェの責任だって…。そんなこと……そんなことを言われたら、私…っ」
まっすぐすぎる彼がくれた言葉。
それは、これまでの自分の世界をひっくり返すようなものだった。
気付かなかった。
自分がルルーシェとして生きてきていたなんて。
自分とルルーシェが別人であることなんて、誰の目からも明確すぎる事実。
そのことは十分に知っていたはずなのに、それでも自分の矛盾に気付くことができなかった。
きっと、物心つく前からすでに、自分はルルーシェとしての過去に縛られていたのだろう。
シュルクが指摘してくれなかったら、絶対そのことを自覚できなかったと思う。
フィオリアはシュルクのことを頭に思い浮かべながら、ぎゅっと唇を引き結んだ。
彼は何度、自分の世界を壊していっただろう。
―――そうやって、自分の存在を自分で否定しちゃうんだ。
―――お前はなんにも悪いことしてないんだ。堂々としてろ、この馬鹿!!
―――逃げたかったんじゃないのか? 俺はただ、お前の意志を尊重しただけのつもりだったんだけど?
―――少なくとも俺は、何かを変えたいって逃げてもがくなら、それは本当の意味での逃げじゃないと思う。
シュルクからもらった言葉の数々が、容赦なく心を乱して傷つけていく。
シュルクはいつもイライラしていて、自分が口を開くと癪に障ったように怒り出すこともしばしばだった。
きっと、彼は自分のことが嫌いなのだ。
そう思っていた。
そう思っていたかった。
なのに、あんなことを言われたら……
ルルーシェとしてではなく、フィオリアとしての自分を見てもらえたら―――だめだと思うのに、期待してしまうではないか。
「姫様……ご無礼をお許しくださいね。」
「え…? きゃっ―――」
突然視界が揺れ、次に温かい何かに包まれる。
気付けば、自分はウィールの胸の中に強く抱き締められていた。
「あ、あの…っ」
「いいんだよ。今は、思い切り泣きなさい。」
ウィールは優しく語りかけ、母親がそうするような手つきでフィオリアの髪をなでた。
「今まで、よく一人で頑張ったね。」
聴覚を刺激するのは、いっそこの胸の中で死んでもいいと思えるくらいに優しい声。
「ふっ……ううっ……」
涙が視界を歪めるのは、あっという間の出来事だった。
静かに声を殺して泣き始めたフィオリアを、ウィールはしっかりと抱き締めていた。
「人を好きになるってのは、時に残酷なもんだね……」
ウィールの呟きに、フィオリアは何度も頷く。
こんなにつらいなら。
それなのに、こんなに愛しくなってしまうなら。
シュルクになんて、出会わなければよかった。
でも、もう遅い。
どうしようもないのだ。
彼は決して、優しくはない人。
でも、彼のまっすぐな言葉にこんなにも救われている。
受け入れてはもらえていないと思うけど、決して拒絶されているわけではないとも思う。
だから期待してしまう。
そして、期待してしまうからこそ苦しかった。
シュルクがルルンたちに見せたあの表情が、とてつもなく胸の中を掻き乱してきて―――
「こんな記憶……いらない…っ」
涙声で、フィオリアは血を吐くように叫ぶ。
「私は、ルルーシェじゃない…っ。本当は……私だって、普通に楽しく生きたかった。もっと友達と遊んで、人並みに未来に夢を持って、可愛いものもたくさん集めて……それで……一人の女の子として、あの人に会いたかった! こんなにつらい恋じゃなくて……もっと、幸せな恋がしたかった! なのに……なんで…っ」
ぽろぽろと零れていくのは、純粋なフィオリアとしての気持ちだった。
彼の存在も彼の言葉も、甘くて残酷だ。
こんな気持ちになりたくなかった。
報われないと分かっている恋をすることになるなら、フィオリアとしての心になんて気付かなければよかった。
ルルーシェとして生きていた方が楽なことは、きっとたくさんあっただろう。
「姫様、過去には戻れないんだよ。」
ウィールは穏やかな口調で説いた。
「起こってしまった悲劇は変わらないし、失われた命は戻ってこない。それでね、姫様がシュルクと出会ったことも、今さら取り消せないんだよ。」
小さく震える華奢な体を、ウィールはより強く抱き締める。
「今を、精一杯生きなさい。心のままに、自分が正しいと思う道を歩きなさい。」
今を生きる。
その言葉に、フィオリアは唇を噛んだ。
城の外は、たくさんのものをくれる。
フィオリアとして生きる道。
自分を温かく包んでくれる手。
どうしようもなく愛しい人。
それらの存在を知ってしまったのは、ある意味とても苦しくてつらいことだった。
でも、それらを知れたことは嬉しくて幸せだとも感じている。
だって、こんなにも心が満たされているのだから―――
涙は止まることを知らない。
だけど、どんなに無様に泣き声をあげても、どんなに情けないことを叫んでも、ウィールはそれを受け止めてくれる。
だから、もう少しだけ……
あと少しでいいから、どうか――――




