綺麗な笑顔
「……まだ、何かあんのか?」
顔は見ないまま、冷たい言葉を投げる。
「これで最後……最後にするから……」
情けないくらいに震える、フィオリアの手と言葉。
シュルクは何も言わず、その場で立ち止まって次の言葉を待った。
どれくらいの時間が経ったのかは分からない。
ほんの数分かもしれないし、もしかしたら数十分の時が流れていたかもしれない。
時間の感覚を奪う静寂の末、フィオリアは消え入るような声でこう言ったのだった。
「逃げても……いいの?」
小さく。
怯えるように。
「逃げちゃだめだって……逃げられないって、思ってた。でも……逃げていいのかな? 嫌だって、言ってもいいのかな…?」
「そんなの、自分次第だろ。」
辛辣に思えるほど、シュルクは迷いなく答えた。
「今まで色んな奴を見てきたけどさ、結局俺たちって、基本的に止まるってことはできないんだと思う。戻るにしろ進むにしろ、生きている限り動き続けるしかないんだ。その中で、逃げるって選択をする時はもちろんあると思う。でも、逃げるイコール戻るってことにはならないんじゃないか?」
「……どういうこと?」
「少なくとも俺は、何かを変えたいって逃げてもがくなら、それは本当の意味での逃げじゃないと思う。本当の逃げっていうのは、進むのも戻るのも放棄した時のことをいうんだ。それをお前が受け入れられるかどうかは、別の話だけどな。」
自分には、進むことも戻ることもできない。
自由に町を飛び立っていける周りを羨んで、そんな風に考えたことがあった。
でも、いざ家の外に出てみて世界が変わった。
たくさんの人々に出会った。
たくさんの人々の話を聞いた。
それぞれにはそれぞれの事情があって、決して皆が幸せじゃないことを知った。
そんな人の中には、自分の幸せを棚に上げて嘆くだけの人もいた。
きっと、本当の逃げはああいうことをいうのだ。
自分を悲劇の主人公にして不幸に酔うことは誰にだってできる。
それを変えようともせずに動くことをやめてしまえば、人はただ堕ちていくだけなのだ。
そんなの、戻るとも言わない。
ただの静止だ。
これまでずっと自由を奪われてきた分、そういった人々の姿は嫌になるほど脳裏に焼きついた。
お前には、どこにでも行ける自由があるくせに。
やろうと思えば、いくらでも現実を変えられるくせに。
そう叫びたくなる気持ちを、必死に押し込めた。
こんな風にだけは絶対になりたくない。
そんな反感が、自分に答えを示している。
逃げる選択も、諦めて止まることに比べたら何倍もマシだ。
逃げることを正しい道にするかどうかは、結局自分次第なのだから。
「……そっか。」
しばらくして、フィオリアがそっと呟いた。
そして―――
「ふふふ。」
鼓膜を叩いたのは、今まで聞いたこともなかった声。
シュルクは思わず、背後を見た。
うつむいているフィオリアの顔は見えない。
「あなたって、本当に不思議な人。」
フィオリアは言う。
「いつもあなたは、私に全然なかった言葉をくれるの。優しくないけど、優しい。」
フィオリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「ありがとう、シュルク。」
そこに広がるのは、今まで色濃く残っていた影を全て取り払った綺麗な笑顔だった。
(……ちゃんと笑えるじゃん。)
そんなことを思ってしまった。
なんだか、ようやく自分が伝えたかったことの意味が伝わった気がする。
そして、初めて本当のフィオリアに触れたような気がした。
「俺は、何もしてない。」
動揺を表に出さないように、極力平坦な口調で答えてフィオリアに背を向ける。
「そんなことないよ。」
「気のせいだ。」
「なにそれ。」
フィオリアは面白そうに笑い声をあげた。
一体、自分の発言の何が彼女を変えたのだろう。
正直なところ、急激すぎる彼女の変化にこっちがついていけていない。
首を捻りながら、とりあえずは洞窟の探索を再開するシュルクであった。




