一か八かの逃走劇
「いって!」
一瞬の空白の時間の後、背中から勢いよく地面に落ちた。
その衝撃で、忘れていた痛みが意識を染め上げる勢いでよみがえってくる。
「大丈夫!?」
傍に駆け寄ってくる誰かの気配。
それに目を開けると、こちらを涙目で見下ろしてくるフィオリアの姿があった。
「大丈夫、じゃない……」
正直な気持ちを告げる。
しかし、そんな状態でもこちらが話せることが分かってほっとしたのか、フィオリアは目尻を下げて肩を落とした。
「よかった……間に合った。」
顔をうつむけたフィオリアの頬を、さらりと汗が落ちていく。
きっと、先ほどの霊神召喚で体力を使ったのだろう。
第七霊神《次元の旅人 ワーパリア》
対象物を任意の場所にテレポートさせることができる霊神だ。
集めなければならない霊子の量も必要な集中力も桁違いなので、霊神召喚上級者でも滅多に召喚しない霊神の一つである。
「助かった……のか?」
暗いからよく分からないが、どうやらここは屋外のようだ。
近くに、自分たち以外の人の気配もしない。
「ごめんなさい。まだなの。」
フィオリアは、静かに首を振った。
「ここはまだ城の中。私も、どうにかこうにかここまで来るのに必死で……とにかく、今は話してる場合じゃないわ。早く逃げないと!」
フィオリアがシュルクの体を起こそうとして腕を引っ張る。
「いててっ! に、逃げるってどこに……」
「それは、私も聞いておきたいものですね。」
「―――っ!?」
割り込んできた、自分とフィオリア以外の声。
それで、背筋に戦慄が走る。
目を瞠る速さで起き上がって身構えたシュルクに、いつの間にかそこにいたヨルは軽く眉を上げた。
「おや。そんな状態で、よく動けますね。」
リリアに抵抗したことでボロボロになった服と羽に、傷だらけの全身。
ヨルの言うとおり、普通なら動くことも困難だっただろう。
「そりゃ、いきなり殺されそうになれば意地でも動くって。」
厳しい目つきで睨むシュルクに、ヨルはやれやれと肩をすくめる。
「往生際が悪いですね。せっかく見つけたのに、逃がすわけがないでしょう。」
ヨルの漆黒の両目がシュルクを射る。
昼間に接していた時とは雲泥の差があるその冷たい視線に、シュルクは思わず身震いした。
「女王陛下からの命です。即刻あなた方を保護するように、と。抵抗するなら、多少乱暴な手段に出ても構わないと仰せつかっています。」
「保護? 捕縛の間違いじゃないのか?」
シュルクはじりじりと後退する。
保護だなんて、よくもまあぬけぬけと。
言葉だけなら、どうとでも言えるものだ。
「なんとでもおっしゃってください。元より、あなたと交渉するつもりはありませんので。」
底光りするヨルの瞳。
瞬間―――
「出でよ《濃霧の支配者 ミストリル》!」
傍で叫ぶ声がして、唐突に目の前が真っ白になった。
「こっち!」
腕を引かれ、シュルクは背後の林の中へと引きずり込まれる。
突然のことで多少驚きはしたものの、特に抵抗はせずに真っ白な霧の中を駆けた。
息を切らせて走るフィオリアが、こちらを振り返ってくる。
「ヨルに真正面からぶつかっちゃだめ! 彼は国一番の霊神使いなの。到底勝てないわ!!」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ!?」
「とにかく城の外へ! 外に出れば、あの人たちも迂闊に襲ってこられないから!!」
さすがは城で育ってきただけあって、フィオリアの歩みには迷いがなかった。
召喚した霊神の影響で霧に沈んだ林の中を、出口めがけてひたすらに走り続ける。
だが、霊神の力を借りたとしても厳しい状況には変わりなかった。
自分たちを追ってくる、いくつもの気配。
きっと、城の人々が総出で自分たちを捕らえようとしているのだろう。
それに比べ、こちらは……
「くっ…」
シュルクは奥歯を噛み締める。
全身から発せられる灼熱のような痛みが、激しく脳内を揺さぶる。
一歩地面を踏む度に、目の前が霞んで遠ざかりそうになる。
痛みでよろけそうになる体を叱咤して、シュルクは気力だけで走り続けた。
「ごめんなさい、あと少しだから…っ」
こちらを気遣うフィオリアの表情にも、疲労が色濃く表れていた。
今彼女が召喚しているのは第三霊神と、比較的難易度は低い霊神だ。
だが、その効果を維持させ続けるとなると、当然体力と気力を削ることになる。
特に彼女は、先ほど第七霊神を召喚したばかり。
彼女の体力がどれほどかは知らないが、いつこの霧が消えてもおかしくはない。
このままでは、遅かれ早かれ城から出る前に捕まってしまう。
内心で葛藤している間に、進む先には高くそびえる城壁が見えてきていた。
「あとは、この壁伝いに裏門を目指せば……」
「待て。」
先を急ごうとするフィオリアの肩を掴んで、シュルクはその先の行動を止めた。
「門を目指すのはなしだ。」
「えっ…?」
「ここまでの騒ぎだぞ? どうせ、先回りされてる。」
「じゃあ……」
鋭く指摘すると、フィオリアが困ったように眉を下げる。
彼女の言わんとすることは、なんとなく察しがついた。
ここは一国の中枢だ。
生半可な管理体制ではないだろう。
門を介して出入りする以外、安全にここを抜け出せる方法はない。
(一か八か……)
シュルクは目元を険しくする。
分かっている。
ここで今考えている行動を取れば、たくさんの人の努力をふいにする。
でも―――ここで死んでしまったら、それこそ取り返しがつかない。
「やるしかない!」
シュルクは唇を噛むと、首に手をかけてチョーカーを一気にむしり取った。
「霊子凝集。詠唱開始。召喚、第五霊神!!」
大きく息を吸う。
そして、祈るような気持ちで叫んだ。
「出でよ《氷下の麗人 アイシュリア》《紅蓮の幻竜 フィール》!!」
霊子が瞬く間に集まっていくのが分かる。
キラキラとした細かな光だった霊子はあっという間に集合し、大きなまぶしい光の塊に成長する。
そこから現れたのは、頭から爪先までが真っ青な女性と、深紅の炎を身にまとうドラゴンだ。
アイシュリアが優雅な仕草で両の手を掲げる。
すると、彼女の姿は巨大な水の壁へと変貌した。
水の巨壁は一気に崩れ、津波の勢いで林の中へと襲いかかる。
それに巻き込まれたらしい人々の声は、その気配と共に水音の向こうへと消えてしまった。
一方のフィールは、まっすぐに城へと向かっていく。
空中のフィールが勢いよく炎を吐くと、城はあっという間に紅蓮の炎の中に包まれていった。
「おい!」
シュルクは、顔を青くして立ちすくむフィオリアの肩を強く揺らした。
「しっかりしろ! 心配しなくても、あの炎は幻だ。熱いけど体に害は与えない。そのくらい知ってるだろ!!」
これでも、できる限り危害を与えない霊神を選んだのだ。
水に飲み込まれた人々だって、死にはしないはずだ。
ちょっとの間パニックに陥ってくれれば、それで十分だ。
「あ…」
指摘されたことで、ようやくそのことに思い至ったらしい。
フィオリアが肩の力を抜く。
「それより、お前はここに残るのか?」
詰問に近い口調で訊ねる。
すると、フィオリアは何故か目を丸くした。
「一緒に行って、いいの…?」
「俺に訊くな! どっちだよ!?」
「いっ、行く!」
思わず怒鳴ると、フィオリアは戸惑いながらも首を縦に振った。
(二人分か……)
若干の不安はあったが、今はそんな悠長に思案している場合じゃない。
腹をくくったシュルクは、無言でフィオリアの手を握った。
「えっ…」
赤面するフィオリアには目もくれず、シュルクは目を閉じる。
「霊子凝集。詠唱開始。召喚、第七霊神。出でよ《次元の旅人 ワーパリア》!」
詠唱しながら、切に願う。
とにかく、どこでもいいから城の外に―――!!




