託された願い
シュルクは迷わずに空を泳ぎ、とある一点で下降を始めた。
ゆっくりと路地裏に足を下したシュルクに―――
「すみませんね。わざわざお呼び立てして。」
シュルクを迎えるように建物の陰から姿を現したヨルは、小さく頭を下げた。
「あいつに気付かれずに俺だけに声を聞かせるなんて、さすがはティーン一の霊神使いだな。」
世辞でもなく、正直な感想だった。
彼がこちらに声を届けるために使ったのは、第六霊神《震音の使い手 ツェルン》。
対象近くの空気を震わせることで、任意の人物に自分の意思を伝える霊神だ。
霊神召喚に慣れた者なら安定的に使える霊神の一つであるが、霊神を使用する条件として、意思を伝える相手の居場所を正確に認知している必要がある。
さらに、直接的に空気を震わせるため、人が多い場所では対象とする相手以外にも声が聞こえてしまう可能性があるという欠点も。
自分の隣にいたフィオリアが何も感じていなかったということは、それだけ霊神を操るヨルの実力が高いということだ。
ヨルはこちらの言葉には何も答えず、ただ黙ってそこに立っている。
そちらから呼びつけておいて、この態度とは。
シュルクは剣呑に顔をしかめた。
「で、この期に及んでまで俺に何の用?」
自分の中の怒りを隠すことなく全面に出し、シュルクはヨルをきつく睨んだ。
リリアを連れてくるわ、フィオリアを危険な目に遭わせるわ。
こいつが関わると、ろくなことにならない。
彼が何を考えているのかは分からないが、これ以上つきまとわれるのは迷惑でしかなかった。
ヨルは無言で懐に手を入れ、そこから取り出した封筒をシュルクへと差し出した。
「これは?」
ひとまず封筒を受け取り、シュルクはぶっきらぼうに訊ねる。
「紹介状です。イストリアへ行くなら、その手紙の宛名にあるカイム邸を訪ねるといいでしょう。彼とは旧知の仲ですので、その手紙を渡せばよくしてくれると思いますよ。」
「………」
「私が手を回すのは、ここまでが限界です。あなた方がイストリアにいる間はリリア様がそちらに目を向けないようにしますので、可能な限り早く運命石を回収して、イストリアから離れてください。」
「………なあ。」
ヨルの言葉をじっと聞いていたシュルクは封筒から顔を上げ、彼に不可解そうな視線を向けた。
「お前、何がしたいんだよ。やってることが意味分かんねぇんだけど。これも、俺を試す一環なわけ?」
本当に意味が分からない。
彼は、何が目的なのだろう。
「―――あなたなら大丈夫。それが、私が下した答えです。」
少しの沈黙を経て、ヨルは簡潔にそう述べた。
「!!」
シュルクは目を大きくして、何度もまばたきを繰り返す。
てっきりまたごまかされると思っていたので、純粋に驚いてしまった。
「中途半端な希望なら、最初からない方がいい。夢を見た分、つらい地獄に落とされるだけです。」
「だから、俺を試したのか?」
「ええ。」
ヨルは素直に頷いた。
「あなたがフィオリア様を連れてガガールへ向かっていると知った時……どうすることが最善なのか、私には判断がつかなかった。だからあなたに介入し、あなたがどんな信念を持つ方なのかを知ろうとしました。」
なるほど。
どうりで根掘り葉掘り色んなことを訊かれたわけだ。
ヨルはこちらを見ないまま、訥々と語り続ける。
「あなたは、不可能を可能にできるほど強い方だ。そう確信できたが故に、あなたがフィオリア様を受け入れられずに悩んでいたことが、唯一の懸念点だった。呪いがいつあなたの命を奪うかも分からない。だからこそ、あなたには早急に答えを出してもらう必要があった。リリア様をあなたの元へお連れしたのは、そのためです。」
リリアの名前が出てきて、シュルクはびくりと肩を震わせる。
それに気付いていないのか、あえて無視をしているのか、ヨルは口を止めない。
「あなたが迷っていることを知ったリリア様は、機嫌よく私の提言を受け入れてくださいました。そして案の定―――あなたに、ささやかな毒を忍ばせた。」
「ささやかな……毒?」
「そうです。」
ヨルはふと右手を上げて、三本の指を立てた。
「負の感情、発熱、洗脳。あなたならこの三つで、ご自分が何を仕込まれたのか分かるのではないですか?」
「―――っ!!」
シュルクはとっさに、自分のうなじに手をやっていた。
フィオリアを殺せと、リリアに言われたあの日。
リリアの手がうなじ辺りをかすめていった時に、おぼろげに感じたような気がした痛みを思い出す。
あの時は混乱しきっていて全く気付かなかったが、まさか―――
「ブレイメルン……」
茫然と呟くシュルクに、ヨルは静かに目を閉じるだけ。
その仕草が、答えを物語っていた。
第七霊神《破滅の道化師 ブレイメルン》
一般的な霊神とは違って血に力を宿して使う霊神で、呪いの霊神と忌避されている霊神の一つだ。
使い方は簡単。
自分の血に呪いの感情とブレイメンの力を込め、その血を相手の体内へと忍ばせることで、相手に小さな悪意を流し込むだけ。
すると、血を流し込まれた相手は些細な負の感情も大袈裟に感じるようになり、次第に精神を病ませていくことになる。
そうして徐々に相手の精神をすり減らしていき、最終的に自分の思うままに洗脳することができるのだ。
この霊神の厄介なところは、相手の負の感情を大きく育てることにある。
ブレイメルンによって操られた相手は、己の凶行を自分の負の感情が暴走した結果だとしか認識できない。
それ故に、自分が他人に操られているのだと気付けないのだ。
完璧に霊神の力に落ちた者が術者に逆らうことは、もはや不可能。
自分の負の感情が制御できないと誤解して、操られていると分からないまま、術者の望むように凶行を繰り返すことになる。
操られた者の末路は、自我を手放して廃人となるか、己の罪に耐えかねて自ら命を絶つかの二択。
ブレイメルンとは、それほどまでに凶悪な霊神だ。
そして、この霊神に毒された者に出る特徴的な症状が発熱である。
熱が出るのは、霊神の力に完全に飲まれる一歩手前という証拠。
ここまで症状が進行すると、この霊神の力から逃れられる可能性は限りなく低い。
そういうことか。
どうりでリリアがあんなに毎日語りかけてくるわけだ。
あなたは悪くない。
全てはルルーシェのせい。
あなたもルルーシェの被害者。
何度もそう言い聞かせることでこちらの思考を誘導し、自分が自らの気持ちでフィオリアのことをルルーシェとして憎むように仕向けたかったのだろう。
そして自分は、確実にそれに飲まれかけていた。
心のどこかで何かが違うと思いながらも、リリアの言葉を受け入れようとする気持ちを止めることが非常に難しかった。
「正直、あなたが熱を出してしまった時は、もうだめかと思いました。リューリュー山の山頂でフィオリア様にああ言ったのは、私の最後の賭けでした。」
ヨルは目を閉じたまま続ける。
「あの場でフィオリア様があなたに助けを求めた時に、あなたがどんな答えを下すのかが全てでした。あなたがブレイメルンに打ち勝って、フィオリア様を助けるならそれでよし。そのまま見殺しにするなら……その時は、あなたを殺す気でいました。まさかあそこで、フィオリア様がご自分の死を受け入れるとは思いませんでしたが……―――今となっては、それがよかったのかもしれませんね。」
閉じていた目をゆっくりと開き、ヨルはシュルクを見つめて柔らかく微笑んだ。
「あのことがあったからこそ、あなたもフィオリア様も、お互いのことを強く想うことができたようです。今のあなた方なら、どんな障害も越えていくでしょう。リリア様とフィオリア様を蝕む呪いでさえも―――あなたなら、きっと。」
「………」
「シュルクさん。」
それまで一定の距離を保っていたヨルが、そこで一歩前に踏み出す。
シュルクの前に立った彼はシュルクの両手を握り、ぎゅっとそこに力を込めた。
「あとは、あなたに託しますからね。どうか……どうか、あの方を救ってあげてください。私にはもう……そう祈ることしかできないのです。」
ヨルは切実な声音で告げ、強くシュルクの手を握った。




