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第14章 毒を食らわば皿まで噛み砕いちまえ




次の土曜日の昼、俺は盗み出した情報全てをプリントアウトし、A4の封筒に詰めて鞄に入れた。外に出ると、むっと蒸し暑い空気が全身を包んだ。晴れてはいるが、昨日降った雨のせいか、嫌というほど湿度が高い。


()()()で会いたいと告げた俺に、玲サンが待ち合わせに指定してきた場所は、なぜか日本橋駅だった。玲サンによると、行きたいところがあるのだという。

俺は正直、この情報を玲サンに渡してもいいのかどうか、まだ迷っていた。いくら考えても答えが出そうもないので、とりあえず会ってから決めることにしたわけだ。


日本橋駅前にあるCOREDO前にやってきた玲サンを見て、俺は驚いた。玲サンが、浴衣を着ていたからだ。薄青で描かれたあじさい柄に濃い紫の帯を締めていて、どちらも玲サンにとても似合っていた。俺は玲サンの浴衣姿を手放しに褒めた。


「あら、ありがとう。こんなおばさんが変かしらと思って、少し心配してたのよ。」


「とんでもない。…でも、どうして浴衣、着ようと思ったんですか?」


「実は今日ね、夜に、府中市で花火大会があるの。それに行こうと思って」


「そうなんですか。それはいいですね」


「他人事じゃなくて、貴方も行くのよ」


「え」


俺は再び驚いた。玲サンは笑みを深くする。


「せっかくデートするなら、楽しいほうがいいでしょう」


「…それはまあ」


俺は煮え切らない返事をした。デートを楽しめる気分かというと、微妙なところだ。最近本当に色々あったせいで、俺の単純明快なはずのメンタルにガタがきている。


「行きましょ。早速行きたいところがあるの」


俺はあれよあれよと玲サンに連れられ、日本橋駅の近くにある、変わった水族館のような所に入った。なんとそこには、金魚しか展示されていないのだという。


「金魚、ですか?」


「そうよ。古今東西の金魚が、全部あるの」


玲サンと俺はチケットを買い、展示内へと入った。入り口には淡いオレンジ色の光を放つ釣灯籠がたくさん掛けられていて、幻想的な雰囲気だ。


次のスペースには、床から天井まで伸びた円柱形の水槽が、通路の脇に連なっていた。何百何千という金魚がその中を悠々と泳いでいる。水槽はLEDライトで色とりどりに照らされ、時々色が切り替わった。


「…すごい」


俺は思わず言った。


「涼やかでいいわね」


玲サンも少し、はしゃいでいるように見えた。色とりどりの光に照らされた浴衣の玲サンは、まるで一枚の絵画のようだった。

俺たちはゆっくりゆっくり、たくさんの水槽を見て回った。滝のように水が流れ落ちる中に、何重にも重なった水槽が連なる場所。灯籠の中に水槽があって、大きな金魚が泳いでいる場所。丸い鞠のような水槽に、同じ種類の金魚が何匹も集められている場所。キラキラ輝く透明なガラスの器に、金魚がふわふわ浮かんでいる場所。どれもとても綺麗だった。

しかし俺は、金魚なんてまるで目に入っていなかった。


「この金魚、かわいいわ。出目金の仲間かしら?」


「こっちのは、オランダシシガシラって言うんですって。オランダから来たのかしらね」


金魚を見ながら、くるくると表情を変える玲サン。俺はその表情に、ずっと目を奪われていた。そしてそのどれもが、見たことのない表情だった。よく考えれば、玲サンとこうやって一緒に過ごすこと自体が、初めてだ。今までは食事を共にしたことしか無かったのだから。


最後の方に、ひときわ大きな水槽があった。正十二面体をしたアクリルの水槽で、中には大量の金魚がたゆたっていた。周りの客たちの様子を見るに、あの水槽の前はフォトスポットになっているらしい。カップルや友達同士とおぼしき客たちが、列をなしている。

俺は、せっかくなら写真を撮りたいなと思った。玲サンの肩をそっと叩く。


「なに?」


「そのぉ…、あれ、写真…」


玲サンに見つめられ、俺は急にしどろもどろになった。改めて言うとなると、なんだか恥ずかしい。でも玲サンは、すぐに察してくれた。


「ああ、写真ね。いいわよ」


「本当ですか?」


「別に写真の一枚や二枚、恥ずかしがるものでもないでしょう」


からかうようにそう言われ、俺は内心を見透かされた気がして、頬が熱くなった。列に並び、スタッフが撮ってくれた写真を見ると、優美な笑顔を見せる玲サンとは対照的に、俺はえらくぎこちない笑顔をしていた。玲サンは写真を見て、「あはは、親子みたい」と笑った。


その後、水族館のショップに入り、玲サンとショッピングを楽しんだ。ショップには金魚にちなんだグッズが種類豊富に売られていた。玲サンはショップを一通り見てから、涼しげな金魚柄の扇子を一つ買った。俺は金魚のキーホルダーを買った。


玲サンは今まで見た中では一番楽しそうだった。俺は最初こそ気乗りしなかったが、そんな玲サンを見ていると、だんだんと楽しくなってきた。


水族館を出て、日本橋三越でウインドーショッピングをし、自分では絶対着ないような高い服を試着してみたり、女物のサンダルを見て「これ、玲サン似合うんじゃないですか」と言ってみたり。三時くらいになると玲サンが「喉が乾いたわ」と言ったので、マカロンが売りのカフェに入ってお茶をした。マカロンはずいぶん甘かった。


時間はあっという間に過ぎていった。駅の近くで早めの夕飯を食べながら話し込んでいたら、気づけば花火の時間が迫り、俺たちは慌てて電車に乗って府中市へと向かった。会場の最寄り駅に着くと、慌ただしく降りる。息を切らしながら聞く。


「会場っ、どこですか?」


「あれよ」


「…競馬場?」


「そう。間違いないわ。全席指定席だから、席間違えないようにね」


「えっ、俺、チケットないですよ」


「心配しないで。双くんのぶんも、買ってあるわ」


さすが玲サン、抜かりない。俺たちはギリギリセーフで会場にすべりこんだ。俺と玲サンは席に着くと、どちらともなく顔を見合わせて笑った。夕闇が迫る競馬場は、一面が人で溢れて騒がしい。玲サンは近くの売り子からビールを2本買うと、俺にも渡してきた。俺は玲サンに聞こえるよう、大きめに声を出した。


「そんな、悪いですよ!」


「いいの。カフェは奢ってもらっちゃったし」


玲サンはビールをカシュッと開け、俺に乾杯を促した。そう言われては俺も飲まないわけにはいかない。俺はビールを開け、玲サンと乾杯した。思ったより喉が乾いていて、俺は一気に半分くらいを飲み干した。急速に頭にアルコールが回る。体温が上がったせいか、風が昼間より少し冷たく感じた。


照明が消え、どこからか軽快な音楽が流れる。その瞬間、音楽に合わせて、下から花火が吹き出した。俺は驚いてビールを取り落としかけた。


「うわっ…!?」


「この花火大会はね!音楽と一緒に、花火が上がるのよ!」


玲サンが花火と音楽にかき消されないよう声を張り上げる。音楽を聞きながら、俺はぼーっと花火に見惚れた。パチパチと爆ぜる火の粉。華やかにドーンと打ち上がる大玉。焦げ臭い匂い。

俺は、そういえば花火大会を見るのは生まれて初めてだと気づいた。親父はもちろん、樫尾も、師匠も、そういうイベントに俺を連れていったことはない。玲サンに見惚れていて気づかなかったが、水族館だってろくに行ったことはなかったかもしれない。


俺は玲サンの横顔を見やった。玲サンの顔は、断続的に上がる花火に時折照らされて輝いた。その顔にふと憂いを感じたのは、俺の気のせいだろうか。

もしかしたら、玲サンは、夫さんと今日みたいに出かけることが、よくあったのかもしれないと俺は思いついた。今日みたいに二人で日本橋を回って、夫さんと笑い合って、ビールを飲んで──。


俺はどす黒い嫉妬を感じたが、同時にもの悲しさを感じた。玲サンは夫を奪われた時、いくつだったんだろうか。きっとまだ若かったに違いない。それから、若いうちに詐欺グループに入って、必死に一人息子を育てて。でも結局、息子も死んで、復讐のために俺のいるグループまでやってきた。

もしかしたら、玲サンはこうやって誰かと笑い合うなんてこと、ずっと無かったんじゃないだろうか。女性として一番華やかな時代を、ただ楽しむことなんて、到底できなかったんじゃないだろうか。


ついに最後の曲、これでもかと打ち上がった尺玉花火が空へと消えた。騒がしかった夜に突然降りた沈黙の時間に、玲サンは俺に身体を寄せて言った。


「ねえ、…()()()()()()に行きたいわ」


さすがの俺でも、その意味がわからない訳ではなかった。



会場を後にした俺たちは手近なホテルへと入った。ラブホテルではなく、普通のホテルだ。

心臓がばくばくとうるさい。自分の思考の声すら、聞こえなくなりそうだ。

覚悟を決めろ、()()()。ここまで来たんだ、今さら引き返せないだろ。引き返すチャンスはいくらでもあった、だけれど俺はそれを選ばなかったんだ。

俺はこのデートの間、トイレに立った時なんかに何度も、忍ばせたライターで書類を焼いてやろうと、そう思った。でも、どうしても実行できなかった。


利用されてることなんて分かってる。でも、俺の答えは一つきりだ。


俺はホテルの一室に入るやいなや、扉の前にいる玲サンを、素早く壁に押し付けた。それでも俺は最後まで躊躇した。玲サンを失うような結果はどうしても避けたかったからだ。俺は最後の抵抗というように、玲サンを必死にまっすぐ見て言った。


「俺の前から、いなくならないですよね?」


今の俺はどんな顔をしてるんだろう。きっと、捨てられた犬みたいな、情けない顔をしてるだろう。


「…もちろんよ」


これは、嘘だ。俺は直感的にそう悟った。

玲サンはすぐにいつもの笑顔を作って、俺に唇を重ねてきた。でも、それを拒むだけの力が、その時の俺には無かった。


もうどうにでもなれと、俺は思った。

俺はとっくに毒を飲んじまった。後は、皿まで噛み砕くだけだ。



微かな震えが裸の背中に伝わり、俺は目を覚ました。

それが、玲サンの押し殺したすすり泣きだと気づくのにそう時間はかからなかった。

夜はまだ深く、俺には椅子のうっすらとした輪郭しか見えない。誰もが泥濘のような眠りを貪っている時間に、玲サンはひとり、身を震わせて泣いている。きっとこうやって泣くことは一度や二度ではないのだろうと俺は思った。

俺は玲サンを抱き締めたいと思ったが、そうしても意味がないような気がしたので、そのままもう一度目を閉じた。


次に目を開けると、日はもう昇っていて、玲サンは部屋にいなかった。書類の入った封筒は消えている。俺は玲サンが横たわっていたシーツの皺を見つめ、ため息をついた。

俺は玲サンを衝動のままに抱いたことを後悔した。誰かを抱いたことを後悔することは初めてだった。


俺の語彙力の足りない頭じゃ表現が難しいが、あれは良くない時間だった。

あんな時間を持ってしまったら、俺は、女を抱く時には玲サンを思い出してしまうだろうし、その女が玲サンでないことに憤りを感じてしまうんじゃないだろうか。そして玲サンへの想いを、ずっと断ち切れないんじゃないだろうか。これからの俺の人生は、玲サンの婀娜骨に導かれるときを待ち続けるだけの、空虚な時間を過ごす抜け殻のようになるんじゃないだろうか。


玲サンは──どうだろう?


わからない。


ぽろり、と一粒、涙が俺の頬を伝った。俺は、玲サンにまた会いたいと思った。『俺の前を去るとき』が近づいているのは分かっている。それでも、背中に残った爪の感触が消えないうちに、もう一度だけでも。


だけど、その日から、玲サンは事務所に来なかった。





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