焦り
《瑞花が産気付いた!》
十六夜の声が、居間でやっと帰って来て着替えて寛いでいた維心と、横に座る維月にいきなり告げた。
「ええ?!」
維月がびっくりして思わず叫ぶ。
維心が、言った。
「…柊達が行ったよな。対面したのか?」
十六夜は答えた。
《そう、対面して柊と挨拶してたら、いきなり腹の子が暴れ出して。やる気になったと思ったら、今度は早く出なきゃって焦ってる感じなんでぇ!だったらもっと早くに出ようとしろって感じだよ!こっちは大騒ぎだ!》
維心と維月は、顔を見合せた。
それは…もしかしたら、犬神達の気を気取って、今出ないと犬神達と共に行けないと焦ったのでは。
「…やはりそうか。腹の子は犬神の宮に行きたいのだ。ということは、無事に生まれるの。」と、ホッと息をついた。「良かったの、維月。」
しかし維月は言った。
「焦って良いことなどありませぬ!瑞花様にはかなりのご負担が。困りましたわ、もう記憶などないだろうし、絶対に犬神の宮に行けるからゆっくり生まれて良いと、どうやったら伝えられますの?」
確かにそうだが、どうしようもない。
「待つしかなかろうが。」維心は言った。「ここは、腹の子がとにかく無事に生まれ出るのが重要ぞ。あの宮には多くの月の眷属が居る。大層な事にはならぬ。」
確かにそうだが、瑞花がつらいのは変わりない。
維月は案じながらも、どうしようもなく空から月の宮の様子を眺め続けた。
同日、綾も無事に皇女を出産したと連絡があった。
楢も無事に皇女を産み、椿は今絶賛分娩中だ。
一気に騒がしくなって、維月もどこを見たら良いのか全くわからない状況だった。
《昨日満月だったからなあ。》十六夜が、暢気に言った。《オレの力の波動が強い方が生まれやすいらしいからよお。ソコを狙って来たんだろうなあ。》
維月は、暢気な十六夜にプンプン怒って言った。
「もう!その真っ只中の皆様は、大変に頑張っておられるというのに!長引いておられた、美穂様はどう?」
十六夜は、答えた。
《さっきやっと生まれたぞ。ずっと待ってた渡はフラフラだが、美穂は生まれた皇子を抱いてケロッとしてる。ええっと、名前は、昊だってさ。うちの恒と読みがダブって面倒だなー。》
それどころではない。
維心が、書見をしていた手を止めて、脇から言った。
「やはり渡の所は皇子だったか。良かったの、これで先に繋がるわ。関が駿の臣下になって、思いの外楽しくやっておるようだし、どうしても後が案じられたのだ。そういえば、祝いを遣わせた翠明から書状が来ておったが、皇女で名を雫としたとか。綾によく似た皇女であるそうな。」
維月は、パッと明るい顔をした。
「まあ!ならば先が楽しみでありますこと。美しい皇女におなりでしょう。できたら維明が娶ってくれないかしら。」
維心は、苦笑した。
「まだ生まれたばかりであるぞ?それならまだ、上の皇女の紡の方がまだ現実的よ。そちらもまだ幼いがの。」
今生、転生してから綾は皇女ばかりをこれで二人持つ事になるのだ。
維月は、ぷうっと頬を膨らませた。
「どちらでも維明が気に入ってくれるのなら。私は娘としてとても仲良くできますのに。夕貴殿だけで寂しいですわ。」
夕貴は維斗の妃として北西から来て、とても穏やかにやっている。
時に里帰りするが、その時は皇子の維知も共にあちらへ行って、匡儀に可愛がられているらしい。
維月と維心の娘の弓維は、匡儀の息子で夕貴の兄の黎貴に嫁いで、幸せにやっていた。
なのに維明だけは、前世の記憶が邪魔をして、まだ独り身なのだ。
維心は、苦笑した。
「叔父上の記憶が薄まらねば無理よ。また維明に鬱陶しがられるゆえ、何も申すでないぞ、維月。」
維月は頷いたが、まだ納得が行かないようだ。
十六夜の声が言った。
《お!今の間に椿が産んでた!皇子だぞ。箔炎とこは皇子ばっかだなあ。名前は、箔泉。上の皇子の箔遥が、箔炎が抱く箔泉を覗き込んでらあ。こっちはすっかりマイホームパパっぽくなっちまって。》
維心が、眉を寄せた。
「マイホームパパとはなんぞ?」
維月が、慌てて言った。
「人世の俗語ですのでお気になさらず。」と、十六夜を見上げた。「では、残りは杏奈様と瑞花様だけ?」
十六夜は、頷いたようだった。
《そうだな。杏奈はでも、まだ前駆陣痛ばっかで生まれる様子はないけどな。瑞花の方は、相変わらず犬神達に囲まれて、大騒ぎしてるよ。》
桜は、早々に公明から知らせて来たので無事に終わっている。
後は、杏奈と瑞花だけなのだ。
十六夜いわく、みんな産み月は同じでも微妙に違うので、杏奈はまだもうしばらくは無理だろうとの事だった。
つまりは、まだ早いのだ。
だが、他の妃達はまず、恵麻は一番早くに懐妊していたらしくて、早く産んだのも道理なのだそうだ。
他は、似たり寄ったりだったので、いつ生まれてもおかしくはない状態だったが、瑞花は本来、恵麻と同じ頃でもおかしくはなかった。
つまりは、遅れていたのだそうだ。
そんな微妙なところまで、十六夜ぐらいしかわからないので、全く維月は知らなかった。
なので、腹の子はとても大きくなっていて、産むのに難儀しているようだった。
腹の子は慌てているのだが、本来少しずつ下がって準備をしていなければならないところ。
それを、犬神達と会ったあの時にいきなり頭を下に向けて、足を蹴ってグイグイ出ようとしたものだから、瑞花は堪らない。
母体の準備は全くできていなかったのだ。
そんなわけで、瑞花はかなりの苦しみようだった。
天媛は、珍しく話し掛けて来た天黎にならぬと言われて手出しできていない。
なので、送られて来た犬神の治癒の者達と、月の宮の治癒の者達総出で産所に詰めて、介助していた。
高瑞と天媛と共に、北の対の居間で待っていた蒼が、窓から外を見ながら言った。
「…もう日が暮れるな。」と、息をついた。「あれが昼前だったから、そんなに早くは生まれないだろうとは思うけど、瑞花が尋常でなく苦しんでるらしいから。うちの治癒の者達が心配してたよ。」
天媛が、心配そうに離れた産所の方向へと視線を向けながら言う。
「我なら一瞬で何とかできますのに。天黎があのように申すから。」
高瑞は、首を振った。
「ならぬ。これは我らの営みの上にあることぞ。ゆえに手出しはならぬと申すのだろう。それも道理よ。」
天媛は、下を向いた。
「…分かっておりまする。我では、天黎の戒めを破ってまであれを手助けすることはできませぬ。」
天黎は、それでも天媛が秘かに手を貸すだろうと戒めておるのか。
高瑞は、息をついた。
「そうか。主らは傍観者であるものな。何事も、なるようにせよとの事だろうて。」
それにしても、距離があるのに瑞花の唸り声はここまで聴こえて来ていた。
蒼は、堪らず言った。
「碧黎様!後どれぐらいですか?」
すると、パッと碧黎が現れた。
「そうだの、夜中かの。赤子が慌て過ぎて、治癒の者達が気で頭を押さえて顎を引かせて抜けやすくできるように必死に矯正しておるのだ。本来、顎を上げるのは出口付近でなければならぬのに、もう顎を上げておってつっかえておるのよ。押し戻して頭の先から通るように皆必死ぞ。」
うわ、痛そう。
蒼は、それを聞いて思った。
つっかえたので押し戻して、またやり直しなのだ。
今からそれなら、それは夜中になるだろう。
「あの子の体力は持つのでしょうか。天黎のせいで我には中が全く見えませぬの。」
天媛が言うのに、碧黎は答えた。
「月の宮であるからな。他とは違う。恐らく問題ないだろう。ただ無茶なことをしておるから、瑞花がこれより先他の子をとは難しいやも知れぬがな。」
もう、産めなくなるのか。
蒼は、それを聞いて思った。
だが、瑞花はまだ今産もうとしている子以外に、はぐれの神との間の比呂が居て、今月の宮で仕えている。
まだ幼いが、軍神として優秀そうな片鱗はあった。
「…とにかく、無事なら大丈夫だ。」蒼は、言った。「瑞花には比呂も居る。それより命が助かれば後は何とかなるんだから。」
碧黎は、答えた。
「ならば問題ない。そも、瑞花はか弱い女ではない。最近は特に軍神として鍛えておったので体力はある。ここは月の宮。命に関わる事にはならぬ。」
待つしかない。
蒼は思いながら、杏奈はあちらで大丈夫なのだろうかと秘かに案じたのだった。




