困ったこと
「…維月様?」綾が、黙り込んだ維月に声を掛けた。「どうなさいましたか?」
維月は、ハッとして振り返った。
「綾様…御文でお話したことでありますわ。瑞花様には、漸様が我の父からあのような教育を強制的に施されて、お戻りになってからの謝罪を全く受け入れておられませんの。会おうともなさっておられませぬ。それなのに、どうしてお隣りに漸様がいらっしゃるこのような場に、出て来られようというのでしょうか。もしかして、漸様にお会いして、お話し合いをしようとお考えなのでしょうか?」
だとしたら、こちらも場を整えなければならないけれど。
綾は、それを聞いて困惑した顔をした。
「ですが…それなら、こちらに申されるより、あちらへ申して漸様に、北の対へ来て頂くのが一番よろしいのではありませぬか?我らには、さすがに夫婦仲の仲立ちはできませぬ。他の宮の王にご意見差し上げることはできませぬので。」
そうなのだ。
だからこそ、困惑しているのだ。
維月は、阿木に言った。
「…侍女に申して。こちらへ来るということは、漸様とは和解なさったのですか、と。そうでないなら、お隣りに居られます場ですし、和解をなさってからの方がよろしいのではと。」
阿木は、頭を下げた。
「はい。そのようにお伝えいたします。」
阿木は、下がって行った。
椿が、渋い顔をしながら言った。
「…どうなさったのでしょうか、瑞花様は。こちらの状況はお分かりであるかと思うておりましたのに。王とは別とはいっても、真隣りでありますから…こちらの声が、あちらにも届くこともありますでしょう。」
維月は、同感だったので頷いた。
あれから瑞花とは文も取り交わしていないが、碧黎が言っていた事も気にかかる。
維月は、困ったものだと途端に気ぜわしくなったのだった。
隣りでは、千秋が維月からの文を小さく折った物を、維心の侍女に渡して、侍女は維心へと扇に乗せてそれを差し出した。
維心は、綺麗に結ばれたその小さな文を受け取って、結び目をほどいた。
炎嘉が、隣りから言った。
「まーたちょっと離れたぐらいで文か。主らは何年経っても変わらぬのう。隣りだぞ隣り。」
維心は、チラと炎嘉を見て軽く睨んでから、文を確認して、そうしてそれを閉じた。
「…急に何か伝えたい時もあるのだ。」と、胸から引き出した懐紙に小さく何か書き付けた。「これを維月に。」
侍女は扇でそれを受け取って、待っている千秋にそれを渡した。
千秋は、それを持って隣りへと引き返して行った。
「気になるのう。何を言うて来たのよ。」
維心は、呆れたような顔をしたが、答えた。
「…我が昔から維月だけを手元に置いておることに感謝しておった。どこの王でも、若い頃にはいろいろあるようだから、と。恐らく、妃達の話の中でそんな事が出たのだろう。それで、ふと思い立って我に会いたくなったが、今は堪えて文を書いた、と。」
やっぱりいつまで経ってもそんな感じか。
皆は内心呆れたが、何やら羨ましくもある。
「それで?」焔は言った。「主は何と返したのだ?」
維心は、真面目な顔で答えた。
「我は、維月以外は女ではないからと答えた。そも、そういう認識がないゆえ、そんな気にならぬからの。我にとり、維月は唯一の女なのだ。」
ハッキリした男よなあ。
皆は、あまりにも昔から変わらない清々しいほど割り切った考え方に、憧れる心地だった。
そこまで思えたら、本当に愛しているのかと迷う事も後悔することも、恐らく全く無いのだろうなと思うからだ。
「主は迷いがないのう。」渡が、言った。「誠に羨ましい限りぞ。我は翠明と志心の前でなんだが、美穂のことは可愛いとは思うが、心底想うておるのかと問われたら、まだ分からぬと答えるしかない。それでも、妃であるのだから大切にはする。初のことも、愛していたかと問われたら、恐らく否と答えるしかないしな。迷いなく誰かを愛する心地というものが、どんなものなのか我にはまだ分からぬのだ。きっと、あのままなら分からずで死んだのだろうの。今は…命が伸びたとはいえ、見つかるとは思えぬのだ。」
それには、炎嘉が頷いた。
「それは我も同じ。前世では多くの妃を娶ったものだが、その中の誰一人として愛してはおらなんだ。きちんと通ってはおったがな。何事も、難しいものよ。」
翠明は、言った。
「我とて、綾に出会うまでは婚姻など面倒だと思うておった。あれのことは、最初は面倒な女だと思うて見ておったが、最後にはあれの真の心根を知ってな。見捨てられずに側に置いたら、信じられぬほど居心地の良い女だった。出会った最初は、分からぬ時もある。気長にするのが一番ぞ。」
塔矢が、口を挟んだ。
「我は、政略であったのに恵麻ほどの女神は他に見たことはないと。今も、この縁を戴いた炎嘉殿には深く感謝しておりまする。あれが居らぬ生など、今は考えられぬので。」
焔は、苦笑した。
「あれは主のために誂えたかのような女ではないか。良かったの、塔矢。我らは、誰を望んでも側に置けるのに、望む女神が居らぬのだ。のう、志心よ。」
志心は、頷いた。
「その通りよ。誠に愛するとは難しい。だが急いでも良い事はないしな。維心とて、維月を愛したからこそ様々苦しんだ過去もある。良し悪しよ。」
王達がそんなことを話していると、また文が来た。
維心がそれを受け取って、また中を確認しているのを見ながら、炎嘉がむっつりと言った。
「もう、いっそ話して来たらどうか?そんなに離れておるのが難しいなら。」
だが、維心はその文を見て、スッと眉を寄せた。
箔炎が、それを見て言った。
「どうした?何か怒ったのか。」
維心は、首を振った。
「いや…これは報告ぞ。」
だが、中身は言わない。
炎嘉が、チラとその中を覗いた。
そして、ぐっと眉を寄せると、言った。
「…それは…維月が申す通り、無理ではないか?」
維心は、頷く。
「そうだの。筋が違う。」
「何の話よ。」
焔も、気になって維心の手にある文を見た。
そして、驚いた顔をした。
「え…瑞花が来ると言うておるのか?」
漸が、こちらを見た。
箔炎が言った。
「ならば…漸と話し合おうと?しかし皆が居る場ではのう。」
維心は、首を振った。
「そうではないようよ。」と、待っている千秋を見た。「維月に一度こちらへ来いと申せ。共に居た方が良いだろう。」
千秋は頭を下げて、出て行った。
漸は、言った。
「まあ、もしまだ何か申すなら、我が文を送るわ。というか、あれはこちらのことにかなり精通しておって、だからこそ我は婚姻という形を飲もうと宮に妃として入れたのだがの。なぜに筋違いのことを言うて参るのか。今の我には、それが違うと分かるぞ。何しろ、侍従の記憶があるからの。」
維心は、漸を見た。
「…ここのところの瑞花の様子を見ておって、我は維月と話しておったのだがの。どうも、瑞花は主の宮に馴染むために、そこで生活してその価値観を理解し、受け入れて生活しておったろう。そうせねば、皆が認めぬからぞ。」
それには、渡が頷いた。
「あれは、闘神としての血を使って何とか皆に認めさせたよの。遠目に見ながらようやっておるなと思うておったが。」
維心は、頷く。
「その通りぞ。ゆえ、漸がこちらを学ぶように、瑞花もあちらを学んだ。そうせねば、あの宮では生き残れぬからぞ。それは良いが、もしやその価値観に染まっておる所があるのではないかと感じておってな。あちらでの常識と、こちらでの常識が混じった状態。妃達は、瑞花を許して受け入れておったし、甘えが出てつい、その輪に加わる事がおかしい事ではないと誤った判断をしておるような気がする。あくまでも、我の考えではあるがな。」
言われてみたらそうだ。
漸は、考え込む顔をした。
「…確かにの。我が宮には王妃という地位は元々なかったのは皆知っておるよの。ゆえ、瑞花は軍神としての地位を持ち、その上で我の相手という位置付けになるのだ。つまりは、お互いに独立しておる考えよ。宮では、強い者には逆らわぬ。ゆえ、あれは宮でもやって行けた。実は今はの、宮ではまだ、軍神としての地位はそのままぞ。何しろ女神の軍神は、懐妊したら皆休暇を取るゆえ、その扱いでな。だが、こちらへ戻ったゆえ、もう我の相手ではないと思われておる。どこも共に住む場から離れたら、それで関係解消とみるからぞ。とはいえ、再縁することもあるし、なので我は、好きにせよと申しておったのだ。こちらでの婚姻の取り決めを受け入れておるから、正式に離縁とならねば宮を出たぐらいではそれは解消されぬのを知っておるからの。だが、宮ではもう、我らは関係無いものとされておる。居場所はあるがな。」
ややこしい。
とはいえ、なんとなく仕組みは分かった。
「…聞いておりましたわ。」維月が、妃達を連れて扉の前に立った。「ということは、瑞花様の中では、こちらとあちらの価値観が、入り交じって混乱しておる状態なのですね。」
妃達も、困惑した顔をしている。
王達は、難しい顔をしていた。




