大移動
康久は、王の居間へと走った。
克哉があんな大きな嘘をつくとは思えない。
そも、今居る妃の詩は、三番目の宮の皇女と言っているが、元は康久の娘だった。
それを、王の侍女に据えて王に言い寄らせ、三番目の宮の王の一人に賄賂を送り、ようできるので行儀指南のために養子にしたいと申し入れさせた。
詩を気に入り始めていた王は、表向きその王の養子にして数ヶ月そちらへ預けた後に、そこからこちらへ輿入れさせたのだ。
だからこそ、康久は筆頭の位置に来た。
だが、詩はその実そこまでできる娘でもなかったので、いまいち王は執心でもなく、それは皇子を産んでも変わらずで、遂に王妃の座につけることなく、ここまで来てしまった。
それを、あの月見の夜に世話に来た、峡の筆頭重臣和の娘の葛を見た途端、王の顔色が変わった。
確かに葛は美しく、上位の宮の皇女と並べても遜色ないほど品が良い。
峡の宮の侍女達はみんなそんな風だったが、特に葛はそうだった。
その上、峡があれは和の娘で何でもできるし良うできるのよとか煽るので、旗清は葛に夢中になった。
琴を弾かせてもそれは良い音色であるし、歌詠みも完璧、書も美しい。
余程和が力を入れて育てたのだと分かる娘だったのだ。
なので反対するには、その身分を使うよりなかった。
それなのに、王は夜、葛に忍んで関係は成った。
序列の移動が忙しい神世であるので、そこを推して何とか連れ帰るのは阻止できた。
旗清は峡に養子にしてもらえないか頼んだようだったが、臣下なのでそれだけを特別に扱うことはできないと難色を示した。
他の王にそんなことを頼む事もできないようで、旗清は頭を抱えていたのだ。
敢えて康久も、何かを贈って養子に迎えさせるという、方法は教えなかった。
これで、入内は阻止できたと思ったのに、渡の養子になるというのか。
康久は、焦っていた。
渡は、今や最上位。
そこの宮の皇女と収まった上に入内したら、詩は今より追いやられてしまうだろう。
それでなくても、最近旗清から康久への当たりが冷たくなっていたのだ。
康久は、王の居間の扉の前で言った。
「王。康久でございます。」
旗清の声が答えた。
「入るが良い。」
扉が開いて、正面の椅子に座る旗清が見えた。
その前に急いで進み出た康久は、膝をついた。
「王。急ぎお訊きしたいことがありまして。」
旗清は、落ち着いて頷いた。
「克哉から聞いたか。」
康久は、目を見開いた。
やはり、あれは誠のこと…!
「…渡様が他神の宮の臣下の娘をそのようにとは、いったいどのような?いくらなんでも、王は失礼が過ぎるのではありませぬか。三番目の宮ならいざ知らず…最上位であられるのですぞ!」
旗清は、落ち着いて答えた。
「我とて己からなど言えぬでいたわ。だが、渡から申し出てくれたのよ。あれは我のためにと考えて、引き受けてくれたのだ。もう、峡とも和とも話がついて、葛を宮に迎えてくれておる。美穂殿が歳が近いのに母だと喜んで世話をしてくれておるようぞ。後は、こちらへ迎え入れるだけよ。」
そこまで話が進んでいるのに、気付きもしなかったとは。
康久は、妨害することもできなかったと唇を噛んだ。
もう渡の宮へ渡っているなら、葛は渡の皇女だ。
最上位の宮の皇女に、二番目の宮の臣下が某かできるはずはなかった。
「…何故に、お話をしてくださいませんでしたか。我はこの宮の重臣筆頭でありますぞ!」
旗清は、目を鋭くした。
「…主が反対するからぞ。」と、康久を睨んだ。「戸佐に調べさせた。詩を王妃にと画策しておったのだの。そも、最初から三番目の宮の王にあちこち打診して、詩を養子に迎え入れさせようとしておったと聞いた。まんまと我は詩を娶ったが、あれは主が言うほどできた女ではない。主の地位のことばかり申すので、鬱陶しく思うて王妃にするなど考えてもいなかったわ。己の地位を固くするために、主は様々な事をした。結界内は見ようと思えば見えておるゆえ、今、克哉と何を話しておったのかも見ておったぞ。この事を康久に知らせよと命じたのは我。克哉は主には世話になっているのでと難色を示しておったが、主の本性を見て迷いはなくなったようであったの。千早を質に臣下を思うようにしようとは何ぞ。あれの世話をしたとか片腹痛い。主らの世話をしておるのは我。主は、克哉が申したように、己一人で生きて行けるようであるがな。」
聞かれていた…!
康久は、油断した、と思った。
旗清はおっとりとした王で、臣下に強く当たる王ではなかった。
宮の中の事も、臣下に任せて深く関わって口出しして来る事もない。
なのでこれまで何をしても発覚することはなかったが、今回ばかりは旗清は見ていたのだ。
「王…!違うのです、我は内向きのあれこれを克哉に引き継いで行こうと思うて育てておったゆえ、惜しいと思うてあのように…!本心からではありませぬ!」
旗清は、眉を上げた。
「ほう?まだ嘘をつくか。戸佐に調べさせたと言うたであろうが。己に、都合の良い者ばかりを側に置き、地位を与えるように我に報告しておったのだの。次席の誠二が全て吐いたゆえ何を言うても無駄ぞ。今地下に繋いでおる二人にしても、大した能力もないのに軍神と繋がりがあって己の言いなりになるゆえ駒として使っておった。仕事は克哉に押し付けさせ、そのやり方も指示しておった。これは克哉には言うておらぬがの。あやつが哀れかと思うたからの。」
誠二が言いおったのか…!
気が弱い誠二は、仕事はできるが思うように動かせるので便利に使っていた。
克哉も同じように使うつもりだったのに、急にあのように強く出るようになって…!
「…誠二は我に罪を押し付けようとしておるのです!」康久は必死に言った。「全てあれの罪であるのに!」
「もう良い。」旗清は、冷たく言い放った。「戸佐。」
え、と康久が驚いていると、脇から戸佐が出て来た。
「御前に。」
旗清は、言った。
「聞いておったの。どうやらこやつは一人で生きて行けるそうだ。我は居らぬでも良いようよ。外へ放り出せ。」
「は!」
康久は、言った。
「お待ちください!」康久は、戸佐に拘束されながらもがいた。「違うのです!王!」
だが、旗清は康久を睨むばかりだ。
戸佐は、言った。
「王は家族にはお咎めなしと温情を賜っておる。詩殿はゆえに母のもとに返される。感謝するべきぞ。」
康久は、涙目になりながら叫んだ。
「詩を降ろすのですか?!」と、康久は必死に言った。「王!詩は何も知りませぬ!王!」
だが、戸佐はそのまま康久を引っ立てて行った。
旗清は、宮の中をしっかり管理できなかった己の責だとため息をついていた。
旗清はそれから、宮の重臣を大粛清した。
古く康久の息が掛かったものは軒並み降ろしてその子すら最下位近くに落とし、全く関係のなかった者達ばかりを上に上げ、葛が来るまでに宮の中を整えて行った。
そんな状態なので、克哉も軍神になるのは諦め、文官として残って宮を回す事に尽力することにした。
克哉は一気に序列三位の重臣となり、もう千早を案じる必要もなくなった。
千早は、何も知らずに毎日侍女達に教わりながら侍女として仕える事ができるように励んでいる。
克哉は、本当に良かった、と、胸を撫で下ろしていたのだった。
その夜、月はまた満月だった。
宮の中が何やら浄化されて清浄になっている気がする。
すると、月が話し掛けて来た。
《…そろそろだな。お前、いろいろ学んだろう?神世は大変だ。いろんな柵があって、王次第で宮の中は変わり、臣下も忙しい。迷惑この上ない。今回は旗清がやっと気付いて宮の中は良くなった。だが、気付かなかったら大変だ。葛にしても、旗清が約した事を信じて待っていたろうが、こうならなかったらどうなった?約した事が守られなかったら、可哀想なことになった。だが、恨んでも王はそのうち忘れてしまうだろう。理不尽だよな。信じてる女はどうなるんでぇ。》
克哉は、何の事だと目を丸くした。
「それは…そうだが、主は何を言うておる?」
月は続けた。
《まあ良いさ。夢から覚める時が来た。克哉も、漸もな。》
漸…?!
何故、知っておる。
克哉は、その記憶が自分の中にあることを、月が知っている事実に驚いた。
だが、月は言った。
《おやすみ。》
克哉は、まだ問おうとしていたが、フッと意識がなくなって、そうしてその場に崩れて何も分からなくなった。
その日は霜月の27日、あの長月の月見の宴から、二カ月が経っていた。




