生活
漸は、克哉であると信じ切ってその日を迎えていた。
漸としての記憶はある。
だが、それは他の誰かであるようで、自分はあくまでも克哉だ。
そういう感じだった。
…夢見が悪かったのか。
克哉は、そう思った。
何しろ宮での生活は問題なく、自分が昨日まで何を考えて何をしていたのかも細かく覚えている。
あの時の碧黎の姿も断片的に覚えていて、だが、碧黎は女にする、というようなことを言っていたはずだ。
だが、今自分は男だし、そもそも漸という王は、昨夜月の宮の月見の宴に出て、宮へと問題なく帰っているようだった。
つまりは、自分はやはり漸ではない。
その記憶が、満月の昨夜何らかの力が働いてこちらへ流れて自分が捉えてしまっただけなのだろう。
漸は、克哉としてため息をついていた。
すると、同僚の辰馬が声を掛けて来た。
「克哉?どうした、珍しいな。何やら心ここに在らずのような。王がお戻りになったぞ。」
やっとか。
克哉は、答えた。
「王は峡様の宮からお戻りか。時が掛かったの、いつもは朝に戻られるのに。」
それを聞いて、辰馬は声を潜めた。
「…それが、王はあちらの宮で美しい侍女を見つけられたようで。お楽しみであったらしい。」
え、と克哉は驚いた顔をした。
「え、では新しい妃とお戻りに?」
ならば、部屋を準備させねば。
克哉としての記憶が漸を焦らせたが、辰馬は首を振った。
「いいや。そんな身分でもないゆえ、置いて来られたようよ。連れ帰ることも考えられたようだが、康久様がのう。そんな身分の者が宮に入るのはと仰って。」
康久とは、この宮の筆頭重臣だ。
漸は、克哉の記憶のままに言った。
「では…だが、その侍女は?王のお手がついてしもうて、あちらでは他の男に嫁ぐのも難しくなろう。それなのに、置いて来られたと?子ができておったらどうなるのだ。」
辰馬は、首を振った。
「そんな、下位の侍女のことまで康久様はお考えにならぬよ。あくまでも宮の評判ばかりぞ。このご時世、三番目にでも陥落したら大変だからの。主も、千早のことは気を付けておけよ。まだ幼いが、美しいと噂になっておるし。ふらりとどこぞの王が来て見初められて、こんなことがあっては堪らぬだろう。」
そうだ…千早。
漸は、こんなことがある可能性があるのだ、と焦った。
確かに千早は美しい顔立ちだ。
幼いとは言っても、もう嫁いでしまう時もある歳であり、つまりは、男が相手にしようと考えられる範囲に育ってしまっている。
…千早を、守らねば。
漸は、思った。
そして、安易にあちこち手を出して放置してしまう上位の男に、憤りを感じたのだった。
それから、千早の事には気を遣っていた。
あれから数か月、宮の事に忙しく立ち働いているうちに、少しは漸という王の記憶も遠くなるような気がしていたが、まだはっきりと頭の中にあった。
だが、それは誰か遠い他の神のような感じだった。
それでも、その神の記憶を利用して、克哉は宮で上手く立ち回った。
これまで、あれこれ頼まれたら断る事をしなかった克哉だったが、それは自分の仕事ではない、と思ったら、引き受けるような事はしないようになった。
中には、それで強く出て来る侍従も居たが、克哉は全く怖くはなかった。
漸の記憶が、大した事はない、と感じるからだった。
そうしていたら、侍従達は克哉に強く出て来なくなった。
だがこれで収まるとは、克哉は思っていなかった。
何しろ、これまで克哉に依存して楽をしていた侍従達が、一気に自分の仕事として、いろいろ処理しなければならなくなったのだ。
あれらの能力では手が回らなくなって、恐らくどうあっても、克哉にさせねばと思うようになるはずだった。
それが見えていた克哉は、毎日警戒しながら、仲が良い辰馬に情報をもらいながら過ごしていた。
こうしていると、漸という王は、本当に長く神世を離れてしまっていて、こうして自分達が当然のようにやっている日常生活の何某かまで、全く知らなかった。
漸の宮は漸の宮で、その中での理があってきちんとやっている。
だが、外へ出ると細かい取り決めが多過ぎて、何に気を遣えば良いのかも分からないような状態だ。
それを、最初は学ぼうと思ったようだったが、あまりにも多過ぎて、学ぶ意欲もなくなってしまっていた。
なぜなら、妃がこちらの女神で、何でも取り仕切ってやってくれるからだった。
克哉の目から見たら、王ならそれぐらいやっておかないと、という感想だった。
何しろ、王達の付き合いは宮同士の付き合いで、そこが拗れたら臣下達まで迷惑を被るのだ。
臣下の立場から見て、困った王だと思っていた。
そこへ、辰馬が寄って来た。
「克哉。」克哉は振り返った。「八津と影木が、面倒な様子だぞ。」
その二人は、同じぐらいの立場の侍従だ。
克哉は、眉を寄せて辰馬を見た。
「…何をして来ようとしておる?」
辰馬は、首を振った。
「分からぬ。だが、主が最近気強くなったゆえ、扱いづらいとこぼしておった。相手にしておる侍従は少ない。己の仕事を己でやらぬあれらが悪いのは、皆分かっておるからの。これまでは、言いなりの主に憤っておる者まで居るぐらいだった。だが、今はスカッとしたようだ。我もそうだがの。」
克哉は、苦笑した。
確かになぜに言いなりだったか分からないぐらいだ。
「…思うたらおかしい事に気付いたからの。」
辰馬は、声を潜めた。
「もう、千早は守り切れそうなのか?」
それを聞いて、克哉はハッとした。
…そうだ、我は千早に危害を加えられないようにと、言いなりに動いていたのだった。
どうして今の今まで忘れていたのだろう。
克哉は、答えた。
「…問題ない。我が目を光らせておる。あれに手を出したら、王に申して決闘をさせてもらうわ。そうして、始末する。」
そうだ、我にはできるはずだ。
克哉は、そう確信できる自分に自分でも驚いた。
辰馬が、驚いた顔をした。
「主、そういえば訓練場がどうの言うておったな。だからなのか。だが、立ち合いを今から習ってあれらを下せるか?あれらは、軍神に友が居て、そこそこやるのだぞ。案じられるな。」
克哉は、頷いた。
「問題ない。辰馬、主も共に来るか。申請が通って、数日中には訓練場で軍神達が指南してくれるそうよ。もう一人ぐらい増えても、恐らく大丈夫だろう。」
辰馬は、苦笑した。
「そうだの、我も行くか。主の手助けもせねばならぬし、何より己を守る術をと王が与えてくださっておる機会であるしな。」
旗清は、侍従などの文官であっても、何かあった時に自分の身を守れるように、やる気のある者向けに、軍神達に講習会を開かせていたのだ。
それに申請すれば、誰でも参加することができる。
克哉は、漸の記憶を得るまでそんな事は恐ろしいと思って、全く参加して来なかったのだが、こうなってからはなぜやらない事などあるのかと、考えがガラッと変わった。
そして、参加申請をして、やっと回って来たのだ。
克哉は、早く訓練場へ行って、記憶の漸ほどではないまでも、自分がどこまでやれるのか試したい、とその日を心待ちにしたのだった。
数日後、その日はやって来た。
辰馬と二人で訓練場へとやって来た克哉は、使い古した甲冑が、無造作に放り込まれている箱を示された。
「そこから、体に合うものを適当に見繕って身に付けよ。そうしたら、こちらへ。」
強い口調だ。
軍神なので、文官たちとは違うのだ。
全く悪気はないようだった。
辰馬は、肩をすくめて言った。
「こんなもの、どうやって身に付けろって言うんだろうな?」と、慣れない手つきで甲冑を手にした。「これは何だ?」
克哉は、言った。
「それは膝あてだ。」と、箱の中を漁った。「主はこれとこれとこれ。我はこれぐらいかの。ちょっと待て、我が着けたら、主を手伝ってやるゆえ。」
辰馬はそれを聞いて驚いた顔をしたが、頷いて克哉が甲冑を慣れた手つきで身に付けるのを見守った。
それこそ毎日着ているのではないかというほど、スラスラとあれこれ身に付けて行き、辰馬がそれに倣ってやろうと思っているのに、追いつかないほどだった。
克哉は、言った。
「よし。」と、甲冑が外れないのを確かめてから、辰馬を見た。「さ。そこへ立て。ここを押えて。」
辰馬は、言われるままに押えては、それを身に付けるのを手伝ってもらった。
甲冑を見た克哉は、何やら様になっているように見える。
辰馬も甲冑を身に付けた後、克哉は満足げに頷いた。
「できたぞ。さ、行こう。だが、刀がないの。」
そういえば、軍神達は皆、左の腰に挿しているあの、刀がない。
それを聞いた軍神が、後ろからクックと笑って言った。
「…最初から刀など持ったら首が飛ぶぞ。」え、と振り返ると、若いがここの筆頭軍神である、戸佐であるのか分かった。「あちらへ行けば、木刀を渡される。」
辰馬と克哉は、慌てて膝をついた。
「は!ありがとうございます。」
戸佐は、まだ笑顔のまま言った。
「主らが、己の身を守ろうと思うのは良いことぞ。我らも、手助けしてもらえると思うと助かるわ。行って参れ。」
戸佐は、とても気の良い神だ。
克哉は思い、辰馬と頷き合って、訓練場へと出て行った。




