龍の宮からの誘い
関は、正月の臣下の挨拶を終えて、ホッとしていた。
宮は、渡を王座にという雰囲気で居心地が悪かったが、当の渡はがっつりと関を守っていて、挨拶の席でも関の隣りに座り、臣下に睨みを利かせてくれていたので、誰も無礼な様などなかった。
が、このままではまずい。
渡は離宮を出て皇太子の対に移り、そこで生活して関を守ってくれているが、いつも王の居間に居るわけではない。
なので、臣下は渡が居ない時を見計らって居間にやって来ては、宮のために自ら渡に退位を申し出ろと悲壮な顔で願い出て来た。
渡が決める事だと拒否すると、ならばもっと励めと訓練場へ促される始末だった。
渡は、毎日ほど訓練場で指南してくれるが、今生の記憶に加えて、前世の戦国での記憶が甦った渡の技術は一朝一夕では真似できるものではなかった。
それでも、渡は根気強く毎日関に、手取り足取り指南を続けてくれていた。
年が明けた今、まず睦月の中旬に筆頭軍神達の立ち合いの会があり、如月には王の立ち合いの会がある。
今の関の実力では、いくらか良くなったとはいえ、まだ峽の宮の辰起にも敵わなかった。
辰起は、もっと前から渡に習っていたからだった。
関がため息をついていると、渡が奥へと引き揚げながら言った。
「さあ、着替えて訓練場へ行こうぞ。」え、と関が驚いた顔をすると、渡は続けた。「今のままでは臣下に認めさせるのは無理だろうが。如月までまだ時はあるとはいえ、正月などと浮かれておる場合ではないぞ。」
関は、慌てて言った。
「ですが父上、亜寿美が。本日はあれが合わせた香を利くのだと約していて。」
何しろ、毎日訓練ばかりで妃どころではないのだ。
妃の亜寿美は、不満を漏らしていたので、正月にはと説き伏せていた。
渡は、言った。
「何を言うておるのよ。妃の機嫌を取っておる場合か。というか、亜寿美は今の状況を分かっておるのか。王の妃という座も危ういのだぞ。連日臣下が主に何を言うておるのか我は知っておるぞ。我ぐらいしか臣下を抑えておけぬのに、今少し危機感を持たぬか。」
そこへ、慌てふためいた様子の滝が転がるように走って来て、膝をついた。
「那佐様!龍の宮から書状が!」
え、と渡と関は振り返る。
正月から書状とは、何か特別な用でもないとあり得ない。
何しろあちらには、本日からしばらく最上位の王達が集まって、正月休みを楽しむはずだからだ。
「…関に見せよ。」
渡が言うと、滝は不満そうにしながらも書状を関に渡した。
関は、内容を確認してから、険しい顔でそれを渡に差し出した。
「…これから、宮へ来いと。覚殿達が欠席したので、席が空いたそうです。父上も共にと書いてありまする。」
渡は、書状を手にして中身を確認すると、むっつりと頷いた。
「…普通、妃だけを伴って参るもの。それを我もか。」
関は、言った。
「どちらにしろ亜寿美には、そこまでの躾をしておらぬので、龍王妃と立ち混じるなどいきなり言われて無理でありましょう。準備の時間があれば別ですが、確かに亜寿美を連れては参れませぬ。」
だが、引退した父を伴うのもおかしな話だ。
しかし、滝は言った。
「この序列再編の時、どのようなお誘いでもお断りになるのは良くありませぬ。ここは、行って参られる方がよろしいかと。」
関は、あの最上位の王達の中に放り込まれる自分を思うと気が滅入ったが、渡は頷いた。
「…仕方がない。参ろうぞ。確かに今この時に誘いを断るのはこちらに不利になる。むしろ、誘ってもろうて良かったのだ。とはいえ…関よ、主は少しは琴に触れておるか。琵琶でも良い。何かできるか。」
関は、下を向いた。
何しろ立ち合いばかりで、ここのところそんな暇もなかった。
確かに何度か渡に教わったが、自主練習などしているはずがない。
だが、遊びと言うと恐らく楽やら香合わせやらで、できないと恥をかく恐れがあった。
渡は、関の様子を見てため息をついた。
「…そんな暇はないか。とにかく、行くしかないのだ。何かやるとなったら我が。共に参ろう。」
関は、仕方なく頷いて、そうして急いで侍女達が厨子に着替えを詰めたりと準備をする中、不機嫌な亜寿美に着付けられて飛び立つ準備を始めたのだった。
「…妃も共にと聞いておりますのに。」亜寿美は、ブツブツと文句を言いながら関を着付けた。「我はお連れくださらぬのですね。龍の宮へ、我も一度客としてお招き頂きたいと思うておりましたのに。」
関は、言った。
「文句を言うでない。龍王妃と共に立ち混じるのだぞ。主にそれができるのか。事前に何も準備をしておらぬのに、主の粗相がそのまま宮の粗相とされ、龍王に罰せられた妃が幾人居ると思うておるのよ。主に上手くやれるとは思えぬし、次の機会にせよ。それまでに礼儀をしっかり弁えての。」
亜寿美は、プウッと頬を膨らませた。
「…分かっております。」
亜寿美は、三番目の宮から来た皇女だった。
三番目の中でも下位の方で、下位の宮と比べてもギリギリ三番目を維持している状況で、今回の再編では、恐らく下位に陥落するのではないかと思われる。
なので、最上位の宮の王妃と比べられると、まずいことになりそうなので、今回はどうしても連れて行く事はできなかった。
だが、そこへ、渡が入って来て、言った。
「…主は、できると思うのか?」
渡は、いきなり亜寿美に言う。
関は、慌てて言った。
「父上、亜寿美はまだそこまで躾られては。」
渡は、首を振った。
「初が宮に入った時から、いろいろ教育しておったはずよ。長年共に居たのだし、そこそこできるのではないのか。」と、亜寿美を見た。「どうなのだ?宮の威信に関わるが、主はできるのだの?」
亜寿美は、顔を赤くしながら嬉しそうに頭を下げた。
「はい!渡様。皇太后様にお教え頂いたことは、胸に留めておりまする。」
渡は、頷いた。
「関、どこも妃を連れて参るのだ。ここで、妃を伴わぬと、見せる事もできない妃なのかと憶測を生む。そして、序列には宮の品位も関わって来るので、宮に確認に参るやもしれぬのだ。その方がまずい。二番目とはいえ、外から評価など滅多にないゆえ、こちらは今緩み切っておろうが。今来られたら、内の緩みを露呈することになる。亜寿美ができるなら、それを阻止できる。もうこやつも三百を越えておるのだし、できるのではないのか。どうよ?」
関は、渋い顔で亜寿美を見た。
確かに亜寿美は、長年母の初に教わってはいたが、とにかく学びが嫌いな女神なのであまり進まないままに、初は亡くなり、今だった。
もちろん、渡は奥の事は初に任せきりで、そんな事情は知らないだろう。
滝が、冷や汗を流しながら言った。
「関様、ならば亜寿美様にお気張り頂かぬことには。宮の中にまで精査に入られるとなると、宮を上げて中を整えて行かねばならず、時がありませぬ。お出来になるなら、上手く立ち混じって頂いて。」
関は、確かにそうだがと亜寿美を見た。
亜寿美は、龍の宮へ行ける事が嬉しいのか、顔を輝かせて言った。
「王、我は大丈夫です。皇太后様にお教え頂いた通りに致しますゆえ。宮のためなのですもの、参ります。」
事の重大さを理解できていないのだろう。
関は、それでも他に選択肢はないと、頷いた。
「…では、急ぎ準備をせよ。」
侍女が、頭を下げる。
亜寿美は、龍の宮へ行けるとそれは明るい様子で頭を下げると、嬉々としてそこを出て行った。
渡は、滝を見た。
「滝。正月などと言うてはおれぬ。分かっておるだろうが、初が居った頃と比べて宮が弛んで来ておるの。我らが留守の内に、宮を引き締めておけ。もしやと思うが、亜寿美がまずかった時、やはりここに精査に来ることになるぞ。亜寿美は、主から見てどうなのだ。」
滝は、まだ汗を流して頭を下げた。
「は…お出来になるかとは思うのですが…何しろ初様がずっと側で見てくださったのです。」
渡は、眉を寄せた。
「…ずっととは、どれくらいぞ。」
それには、関が答えた。
「亡くなるまででございます。」渡がますます眉を寄せると、関は言った。「ですから、連れて参るのはと渋ったのですよ。何しろ進まぬので…本当に大丈夫なのかと案じております。」
渡は、チラと亜寿美が去った方向を見たが、言った。
「…それでも、上位は皆妃を伴っておるのだし、連れて行かぬと今言うたような憶測を生むのだ。困ったことよ…とにかく、輿の中でしっかり言うて聞かせよう。七夕に参るのとはわけが違うのだとあれには話しておかねば。」
関は頷いて、まだ不安の残るまま、宮を飛び立つことになってしまったのだった。