香
それから、仁弥を待つ間に王達は目の前の畳の方へと移って、そちらで楽を楽しんでいた。
関はこちらで見ているだけだったが、渡が代わりに良い調子で演奏に花を添えていて、妃達も聞き応えがあった。
関一人ではと、蒼が話し相手になろうと思ったのか、参加せずに関の隣りに座っている。
そういうところは、蒼は気が利いていた。
王達は、妃には構わずあちこち弾き散らして楽しんでいるので、こちらはこちらで畳の上で集まって、それを聴きながら話していた。
大きな声は出せないが、小声で話すのもまた皆の距離が近くて楽しい。
亜寿美も、少し落ち着いて来たようだった。
「こうして無礼講な雰囲気になれば、もう誰が先に話すとかの柵もないので、問題ないのですよ。」椿が、亜寿美に説明した。「先程も、維月様が入って来られて皆に順番に話し掛けておられたのも、皆が早く口を開けるようにと気遣っておられたから。亜寿美様は、きちんとそれを待つことがおできになりました。後は、その応用みたいなものですの。」
亜寿美は、頷く。
「はい。皆様が逐一教えてくださるので、とても心強いです。几帳があって中は見えないし…気持ちが楽になりました。」
とはいえ、まだ父王を案じているのは見て取れる。
維月は、言った。
「御父王は大丈夫ですわ。王達もお酒が入ってあのようにはしゃいでいらっしゃるし、少々のことは気付かぬのでは。何より、父王はいつも会合などに難なく出ていらっしゃるのですから。余程お外の事はご存知であるかと思いますよ。ご案じなさいますな。」
そう、きっと顔を合わせてはいるのだから、ある程度できるはずなのだ。
そもそも、志心が宮の様子を見に行った前の序列再編の動きの時も、特に問題のある宮だとは報告されていなかった。
恐らく、目につくほどおかしな所はないはずなのだ。
皆が亜寿美を気遣う中、鵬が入って来て膝をついた。
「王。仁弥様がお着きでございます。」
維心が、そちらを見た。
「…入って良い。」
鵬は、頭を下げた。
「は。」
亜寿美が、また体を固くした。
鵬が扉を開くと、そこには仁弥らしい初老の神と、中年ぐらいの臣下らしい男が、並んで頭を下げていた。
炎嘉が、言った。
「おお、よう来たの仁弥!本日は無礼講ぞ、ささ、こちらへ参れ。主の琴が聴きたいのよ。」
仁弥は、顔を上げた。
「もったいない仰せ。香のお話もおありだと聞いて、我の道具なりを思い付くまま、急ぎお持ちしたのですが。」
志心が、頷いた。
「そうよ、我は先にそっちが聞きたい。」と、炎嘉を見た。「主な、演奏は後で良いではないか。」
炎嘉は、むっつりと言った。
「こやつの琴は良いのだぞ。亜寿美も良かっただろうが。仁弥はそれ以上なのだからの。」
仁弥は、亜寿美の琴を聞いたのかと、慌てて言った。
「あ、いや、いくらでもお聞かせ致しますが、ならばどうしたらよろしいですかな。」
維心が、このままでは埒があかないと言った。
「とにかくこちらへ。それは主の臣下か?」
仁弥は、頷いた。
「はい。我の筆頭重臣の桂でありまする。数年前に見習いに参っておった覚殿の宮から戻りまして。若いですが、今はこれに任せております。本日は、道具を持たせて来ました。」
維心は、頷いた。
「ならば道具を持ってそれもこちらへ。主の香、確かに珍しい香りばかりで気になっての。志心は秘密を知りたいとウズウズしておる。」
仁弥は、また頭を下げた。
「は。もったいないことでございます。」
仁弥は、目の前の半円の細いテーブルを飛び越えたりせずに、鵬に案内されて向こう側から回り込んで王達が居る畳の上へと入って行った。
綾が、言った。
「…誠に申し分ないかたでありますわ。臣下の足の運び一つ取っても、おかしな所など一つも見当たりませぬ。」
厳しい綾の目で見てそう言うので、それは間違いないだろう。
臣下は、あれで上位になるほど足の運びは落ち着いていて歩幅も一定で、姿勢も崩さず流れるように動いていて、上位の宮と下位の宮は全く違うものなのだ。
確かに桂は、鵬と比べても完璧な様子だった。
亜寿美が、言った。
「…そういえば、我がまだ宮にあった時に、このままではと王が覚様にお願いして、臣下の息子を行儀見習いに出したことがありました。恐らく、それがあの桂なのです。何しろ母は、下位から参って宮の中を上手くしつけることができなくて。まだ若かった父が、苦肉の策として命じていたのを覚えておりまする。」
椿は、頷いた。
「覚様といえば、二番目四位のお方。妃の天音様とは、我らは友で良くお会いするのですよ。そこで習って参ったのなら、それは完璧でしょう。」
維月は、ホッと息をついた。
ということは、やはり仁弥なりにまずいと思って対策を講じていて、今は良い様なのだ。
亜寿美は、桂が戻る前に嫁いでいて、その恩恵に預かれなかったのだろう。
だが、初もそれなりにできる王妃だったはずだ。
やはり、少し亜寿美は学ぶのが苦手なほうなのかもしれない。
畳の上では、志心が言った。
「早う見せてくれぬか。主は何を使ってあのように奥深い香りを生み出しておるのよ。なにやら若々しい香りやら、艶めいた香りやら。」
急かす志心に、仁弥は苦笑した。
「我ら、良い材料に恵まれておりましてな。」と、桂がスススと厨子を前に押して、開いた。「それら、本来秘伝として宮の奥に置いておるのですが、今回特別に。お持ち致しました。」
王達は、酒も入っているので礼儀もへったくれもなく我先にと厨子の中を覗き込む。
少し引いていた桂だったが、頭を下げる姿勢は崩さなかった。
中には、白っぽい一見ただの枯れ木や、干された何かの葉、何かの粉末などが並んで入っていた。
漸が、後ろから見た。
「香木ぞ。」と、その枯れ木を指した。「これからかなり品の良い香りがする。」
匂いには、殊の外敏感な漸が、離れた位置から見てそう言った。
志心も、頷いた。
「我らが使う白檀とはまた違った趣。」と、ジーッと他の物も見つめた。「葉は、いったい何の葉なのかの。」
仁弥は、全員が子供のように興味深く中を見つめるので、緊張も解けて来たのか、微笑んで答えた。
「まず、香木は、宮の奥の中庭にありました木が初代の王の頃に立ち枯れてしまいもうして。初代の王は、それをとても大切にしていたので、大層悲しんで切らずに置いておりました。すると、それが何年もかけて乾燥し、何やら良い香りを醸し出すようになり、試しにそれを少し削って香に混ぜてみましたら、それがまた良い香りで。それから、その香木は宮の奥で大切にされながら、こうして何百年も我らに良い香りを提供してくれておるのですよ。そして、その頃から我らは香に傾倒し始めまして、今では他にも我が領地の中に、他の材料も発見して、それがこの、葉を乾燥させて砕いたもの、赤い土の粉などでございます。」
維心が、珍しく前のめりでその香木を見つめた。
「手に取って見ても良いか。」
仁弥は、頷いた。
「もちろんでございます。どうぞ、皆様も。」
維心が香木を手にすると、皆我先にと他の材料に手を伸ばした。
維心が、香木の香りを確かめながら言った。
「これは誠に稀少な。その木が立ち枯れて、その頃の王が残さねばここまでにはならなんだのだろう。これを使って合わせてみたいと意欲を掻き立てるものよ。」
志心は、頷く。
「あの辺りは珍しい木々が自生しておるのは知っておったが、まさかそんな風に使えるとはの。仁弥、秘伝であろうが少し分けてはもらえぬか。代わりに我の宮の質の良い白檀を送るゆえ。」
仁弥は、頷く。
「そのつもりで、皆様にはこれと同じ物を厨子に入れて、お持ち致しておりまする。後で控えに届けさせましょう。」
炎嘉が、小さな容器に入った樹液のような物を嗅いでいたのだが、驚いたように仁弥を見た。
「良いのか?宮の秘伝なのだろう。ここまで明かさず来たものを。」
仁弥は、苦笑した。
「我らだけでこの稀少な物を取り込むのは、罪な気が致しますゆえ。何より我より、皆様の方が腕がよろしいのではと。また、合わせた香を試させて頂けますなら、これよりの事はありませぬ。」
焔が、言った。
「もちろんよ。これよりは主も香合わせの席には呼ぶとしようぞ。それにしても、それぞれが個性的な香りであるし、これを上手く合わせるのはなかなかに難儀しそうで楽しめそうよ。思わぬか。」
維心は、頷いた。
「合わせ甲斐のありそうな。礼に主には我の合わせた香を持ち帰らせる事にする。王妃と我しか焚き染めておらぬ貴重なものぞ。」
仁弥は、驚いた顔をして、頭を下げた。
「誠にありがたきこと、御礼申し上げまする。」
炎嘉が、言った。
「さあ、堅苦しい事は抜きよ、仁弥。せっかく来たのだ、楽しんで帰れ。我ら正月には、最近集まって無礼講で遊んでおるのよ。主は琴が良かったよの。亜寿美の和琴があまりに良いので、主の琴が懐かしゅうなってな。弾いてくれぬか。」
仁弥は、亜寿美が腕を上げたのかと、微笑んで頷いた。
「あれは宮にあった時にも、我に習ってはおりましたが、練習が厳しいと泣き言ばかりでありましたのに。嫁いでから、腕を上げておるのでしょうか。」
渡が、答えた。
「いや、亜寿美は宮に来てから琴には触れてもおらぬぞ。ゆえ、我とてあれほどの腕なのだと、今さっき知ったのよ。」
仁弥は、顔をしかめた。
「ははあ。あやつは礼儀がからきしであったし、せめて琴や香はといろいろさせて送り出したのでございますが、役に立っておらぬのですな。」
渡は、首を振った。
「今役に立っておるわ。関が楽などからきしだからの。香は、我の焚き染める物まであれがひたすら合わせてくれておる。良い妃ぞ。」
それを聞いて、亜寿美はこちらの几帳の中で涙ぐんだ。
仁弥は、微笑んで答えた。
「少しは役に立っておったのなら、良かったことです。」
維月は、そんなやり取りを聴きながら、亜寿美の背を撫でて労った。
そして、綾や椿と視線を合わせて、微笑み合ったのだった。




