4.兄上/過去
暴力シーンがあります。
向こうから偉そうに歩いて来るあいつ。しまった、今から引き返すんじゃ目立ち過ぎる!
用がある、と誤魔化して入れそうな扉もない。ハア、ここは大人しく頭を下げるしかないか。俺は廊下のできるだけ端まで下がり、頭を下げた。
カッ、カッと同じ調子でせわしげに近づいてくる足音。それが通り過ぎて気を抜いた瞬間、頭に衝撃が来た! それをこらえ、足をすくわれるのを感じて壁に激突しないよう両腕で頭をかばい、体を丸める。それでも容赦なく襲ってくる蹴りに、体に魔力を流し、小刻みに動いてなるべく衝撃を受け流せるようにした。もうこれは条件反射みたいなもんだ!
「小僧! なんだその生意気な目は!」
これは昔からですよ、っと。
「一人前に身体を鍛えもせず、軟弱にこちらの棟に来よって! その思い上がった根性を叩き直してくれる!」
だからあんたと顔を合わせるのは嫌だったんだ! なんのかんのと屁理屈をつけて、結局は俺に暴力を振るいたいだけなんだからな!
飛んで来る蹴りを避けて立ち上がったところに、拳が襲ってくる。逆襲できないことはないが、うっかり一撃入れようもんなら半死半生になるまでやられちまう。あっちが疲れるまでかわし続けるしかない……。
後ろに跳んで殴られる勢いを殺したが、目測を間違えて壁にぶつかってしまう。しまった!! そこに避けようのない一撃が――。
「父上、客人がお待ちです。急いだほうがよろしいのでは?」
兄上がそいつの腕を取り、殴られるのを止めてくれたんだ。助かった……。
「こ、こいつが、こいつが生意気な真似を――」
「叱責は私の方からしておきましょう。客人は辺境伯の使者ですから、父上に同席していただきませんと」
「……そうか。そうだな。客人をお待たせしてはなるまい」
次期子爵である兄上に、そいつは強くは出られない。衣服を検めて、俺を冷たい目でひとにらみすると、そいつは踵を返して廊下を去っていった。
「……グリン。手当てをしなくては。書斎に来なさい」
「いえ、私は――」
「あれをうまくコントロールできぬのは、私に責任がある。詫びさせてほしい」
兄上にそこまで言われては、拒否することはできない。俺はおとなしく兄上の後について行った。
兄上は水と清潔な布、俺の着替えを持ってくるように言いつけると、書斎にある薬箪笥の鍵を開けた。そして頼んだ物が届くと人払いをして、俺に服を脱ぐように言った。
「次期子爵でなければ、薬師になりたかった」という兄上。その手際はよく、怪我を確かめ傷口を清めて打ち身の薬や血止め・化膿止めの薬を塗っていく。
兄上の手が触れただけで、痛みが軽くなるような気がする。もしかしたら兄上には、薬師に向いた魔力があるのかもしれない。
俺より12歳年上の兄上。母上が女子爵で父親がアレなせいで、「少しでも早くアルティボルト領を支えられるように」と、生まれた時から次期子爵として育てられてきた。
俺が身じまいを調える間に、兄上は薬草茶を淹れてくれた。俺がそれを一口飲むのを待って、兄上は口を開いた。
「グリン、其方には悪いと思っている」
「いえ、本当に悪いのはあいつでしょう? あいつがしでかすせいで、兄上も母上も肩身の狭い思いをしているんだ! 兄上が謝ることなんてなにもない!」
兄上は悲しげに微笑んだ。
通称『魔の森』を抱えるアルティボルト領。先代辺境伯の異母妹だった母上に婿を取って独立させる、と決めた先々代辺境伯。「防衛力が不可欠」ということで、婿には武勇に優れた婚約者を見繕ってあったんだ。しかし婚礼を目前にして彼は病に倒れ、闘病むなしく病没。適齢期を過ぎた母上の婿となったのが、あいつだったんだ……。
「王都の騎士団で活躍」という仲人口を信じたのが悪かったんだろう。武勇だけはあるがその実、人の話を聞かぬ乱暴者だったんだ。さすがに目上の者には腰が低く礼を尽くしているので、ばれにくかったらしい。
目上の者には卑屈な分、逆らうことのできぬ目下の者にはひどかった。当時所属していた王都の騎士団では、自分付きの騎士見習いを虐待したことで左遷先を探しており、情報に疎かったアルティボルト領が外れくじを引いたのだ。
アルティボルト領でもしばらくはおとなしかったんだが、任された領の騎士団では体罰が横行。異動希望者が続出したことでようやく本性がバレたという。
魔の森警備には騎士団が不可欠だというのに、これでは本末転倒だ。母上は先代辺境伯に願って騎士団の実質担当者を派遣してもらい、あいつをただのお飾りにすることで事態の解決を図ったんだ……。
「私は生まれた時から次期子爵だった」
そう兄上は語り始めた。
「しかしあの人は『女子爵の夫』で『次期子爵の父』ではあるが、他に確かな肩書はない。『妻より力も学もない夫』というのは、あの人には我慢できないのだろう。無学で読書することもないあの人は、自分の血を引きながら賢く読書好きな其方に嫉妬している。やり場のない感情をどこかにぶつけることで、平常心を保っているのだ」
其方に「あれを許せ」とは言わぬが、理解しようとだけはしてほしい。
そう語る兄上に、言葉を返すことはできなかった。
「私は『次期子爵』ということで、あれは手出しができなかった。私の方が地位が上になるし、母上や私に何かあれば処罰対象となるのだからね。嫁に出す妹たちに傷があれば、あれの悪評が広がる。それに娘は母親の養育対象だからね。だから父親の体罰や干渉をはねつけることができた」
兄上は、俺の顔を真正面から見た。
「しかし末の其方だけは別だ。継嗣が定められている以上、次男である其方は普通、騎士団を率いることが求められる。『騎士団を率いるのにふさわしく鍛えなければ』と主張されてしまえば、あの人を正面切って止めることはできなかったのだ。幼いお前に無体を働くあの人に、母上がどれほど心を痛めておられたか」
私も其方を守ってやれなかった、と自嘲する兄上。
兄上は十分に守ってくださいましたよ。先ほどのように、酷い事態になる前に必ず兄上が止めてくださった……。
「其方にはもう十分に我慢させてきた。其方が騎士見習いになるには15歳まで待たねばならぬが、冒険者であれば13歳で、それより二年早く登録ができる。強くて賢い其方ならば、独立して冒険者としてやっていけると思う」
其方が望むなら半年後、冒険者として送り出してやれるが、どうする?
「上の妹のキヨラは辺境伯の後妻に出た。下のカレンも婚約者がいる。私も来年には妻を娶る。この機会に母上は隠居し、私が襲爵するつもりだ。あれにも表舞台から去ってもらうが、その前に其方相手に何をしでかすか分らぬ。『武者修行に出た』と誤魔化しておくから、身を隠しがてら冒険者修行をしてみないか?」
大胆過ぎる兄上の作戦に、俺は開いた口がふさがらなかった。
「知っているだろう? 私は子爵じゃなければ薬師になりたかったって」
薬師は店持ちか店の下請けじゃなければ、流れで仕事することになる。つまり、冒険者登録することが多い。これでもいろいろ関係者から話を聞いてみたんだよ、と兄上は微笑む。
「私は流れの薬師になることはない。が、弟が冒険者になっていろいろとその話を聞かせてくれたら、薬師の気分に浸れるんじゃなかろうか。そう閃いたら、いい考えに思えてね」
俺は兄上の笑顔に見とれた。
「でも……騎士団は? 15歳から騎士見習いしないと騎士になれなくて、領の騎士団を率いられないんじゃ?」
「確かに、グリンが騎士団長になってくれると嬉しい。だけど慣例通りに騎士見習いをやっていて、それで絶対に強くなれると思うかい?」
……それは断言できない。騎士見習いになれば、他の有力騎士団と交流が持てるから有効な作戦や戦い方を身に付けることはできるだろう。社交で有力な情報が手に入りやすいかもしれない。だが、それで誰よりも強くなれるかというと、そうじゃないだろう。
「グリンが書斎の歴史書や戦術書を全部読んだのは知ってる。よかれ悪しかれ、あの人に鍛えられたことも知ってる。だからグリンが、12歳にはあり得ないほど強くて賢いこともわかってるんだ。いじめられてる者に優しいこともね。だけどその特長が、話に聞く騎士見習いの生活で伸ばせるとは思えない」
確かに。束縛の多い集団生活。下働きの仕事に追われる時間。騎士たちからの嫌がらせ。あいつから逃れての生活がそれじゃ、まったく報われないな。
「冒険者生活で、グリンが強くなればいいんだ。騎士団の誰もがグリンに従うほど、強くなればいい。それともグリンは、誰かに手取り足取り教えてもらわなければ強くなれないの?」
「違う!」
「よかった」
兄上は満足そうに微笑んだ。
「だけど俺が十分強くなれなかったら? 俺がアルティボルトに帰ってこなかったら、困るだろ?」
兄上が守るアルティボルト領。俺は騎士団のために育てられたんじゃないのか?
「グリン。おまえが強くなって帰ってきてくれれば私はうれしい。だけど一番うれしいのは、おまえが自分のために強く生きてくれることだ。おまえが騎士団長になろうとなるまいと。おまえが自分に恥じない生き方をして幸せになってくれればいいんだ」
身の内を戦慄が走った。
「兄上……」
兄上は俺の両肩をつかんだ。
「強かろうと強くなかろうと、おまえがいい騎士団長になることに疑いはない。だけどおまえが騎士団長を選ばないのならば、それには十分な理由があってのことだろう。それはお前の選択に任せるとも」
つかまれた手の力がふっと緩む。
「おまえの知識は、おまえを生き延びさせるだろう。おまえの経験はすべて、お前を成長させる糧になる。よく考えろ。冒険者だろうと騎士だろうとそのほかだろうと、おまえの世界は大きく開かれているんだ!」
よく考えた。俺は冒険者になることに決めたんだ。