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ホラー短編 「バス」

作者: Hiroko

どうして今さら帰んなくちゃいけないんだ。

こんな田舎の、こんな山奥の、こんな汚いバスに乗って……。

最終が21時30分だなんて。

このバスに乗るために、どれだけ走らされたか。

まったく。

こんな汚いバスに乗って……。

わたしはバッグの中にハンカチを探した。

けれどどこにも見つからなかった。

暑い、暑い、暑い……。

運転手に文句を言ってやろうか。

エアコンの送風口からは、腐ったイチゴのような奇妙な臭いのする生ぬるい風が、痰を絡めた老人の咳のようにガフガフと吐き出されていた。

実家に帰るのなんか、六年ぶりだ。

今年八十になる母親から急に電話があった。

父親が危篤状態だと。

もう死ぬのだと。

自分は独りになるのだと。

きっと自分も死ぬのだと。

母親は泣いていた。

か細い声で。

何も悲しくなんかないくせに。

父親のことなんかどうでもいいくせに。

母親が憐れんでいるのは、いつも自分だ。

あんな家に、こんな時間に、こんな汚いバスに乗って、どうして私は帰らなくちゃいけないんだ。

鉄道の駅にある始発のバス停から実家のある村に行くには、錆だらけで薄汚れたこのバスに乗って行くしかなかった。

村にはバス停が二つある。

一つは廃校になった小学校の前で停まる。

私が通った小学校だ。

私がいたころには、全学年合わせても八人だった。

いつ廃校になったのかは知らない。

六年前に帰った時には、もうすでに荒れ果てていた。

次のバス停は、そこから十分ほど走ったところにある終点だ。

バスはそこで折り返して帰って行く。

そこで降りる者を置き去りにするように。

足早に逃げるように。

この汚らしいバスだって、この村にお似合いのくせに。

こんなさびれた村には、こんなバスがお似合いなのに。

まるで自分を一緒にするなとでも言うように、バスは鉄道の駅へと帰って行く。

運転手はいつもそこで煙草を吸う。

青白い煙を吐き出し、吸い殻を地面でもみ消し、帰って行く。

自分とは関係のない場所だとでも言うように。

私はそこで降りる。

そこから山に向かって、さらに十五分ほど歩く。

いやだ、いやだ、いやだ……。

雨上がりのこんな蒸し風呂みたいな田舎道を、薄暗い街灯に群がる無数の羽虫を横目に、舗装もされていないぬかるんだ道を山に向かって歩いて行くのだ。

そうだ。

忘れていた。

今日は先週買ったばかりの新しいパンプスを履いていた。

最悪だ。

仕事帰りだった。

仕事帰りにいきなり電話があった。

母親の泣き声なんて聞きたくなかった。

「すぐに帰ってきておくれ……、お父ちゃんが……、お父ちゃんが……」

マンションに帰っている暇はなかった。

それではこのバスに乗り遅れていた。

最終が21時30分の、このバスに。


バスに乗ってもう一時間ほど走っている。

その間に見かけた私以外の客は三人ほどだ。

三人とも、始発のバス停で乗って、私より先に降りて行った。

ふと見ると、斜め前の窓際に、女の客が一人乗っていた。

あんな客、いただろうか?

いつから乗っているんだろう。

どこから乗ってきたんだろう。

ぜんぜん気が付かなかった。

入り口の開いたとこなど記憶にない。

少し離れているのでよくは見えないが、女の客は自分に似ていた。

どこ……、と言われても、うまく答えられないのだが。

ここからでは、後ろ姿しか見えない。

髪型が似ている。

髪の艶が似ている。

クセのつきかたが似ている。

あの右耳の後ろのクセっ毛が、いつも直すのに苦労するんだ。

そう思いながら、私は自分の髪の毛を触った。

女は私に似ていた。

似ているように見えた。

わからない。

後ろ姿だけだから。


辺りは走れば走るほど暗くなり、時折見える街灯以外、なんの明かりも見えなくなった。

外を見ているだけでは、いくつのバス停を見送ったのかわからない。

ここがどこだか、わかりゃしない。

時折思い出したように、運転手が次のバス停の名を告げる。

「次は……、次は……」

きっと客が乗っているからだろう。

客が乗っていなければ、運転手は無言でこのバスを走らせているのだろう。

なんて気楽な仕事なのだろう。

あの斜め向かいの女の客は、どこまで乗っていくんだろう。

こんな田舎の、こんな山道の、こんな汚いバスに乗って。

あの女の客は、私に似ている。

似ているのは、髪の毛だけだろうか。

もしかしたら、顔も似ているのだろうか。

どうでもいい。

どうでもいいけど、どんな顔をしているのだろう。

少し薄気味悪かった。

女はずっと前を向いていた。

前を向いて……、いったい何を見ているのだろう。

何も考えていないように見える。

マネキンでも座っているように見える。

マネキンだろうか?

そんなわけないだろう。

けれどその女からは、まったく生気が感じられなかった。

生きた人間、少なくとも、何か意思を持っているようには見えなかった。

どんな顔をしているのだろう。

どうでもいい。

どうでもいい。

けれど、どんな顔をしているのだろう。

虚ろな目で、じっと前を見ているに違いない。

目を開いているのに、何も見ていないのに違いない。

どんな目をしているのだろう。

わざわざ席を変えてその顔を覗き込むわけにもいかないだろう。

どうでもいい。

どうでもいい。

もう、考えないようにしよう。

私は窓に頭をあずけた。


今日は疲れた。

私は仕出し屋で働いていた。

注文された弁当を届ける仕事だ。

予約があって、朝の五時から出勤していた。

いつもの物に加え、昼に50個ほどの弁当の注文が三件もあった。

途中で漬物が足りなくなり、業者まで車を走らせた。

何とか間に合わせ、今度はその配達に付き合わされた。

そしてそこから帰ると、また夜に急な予約が入っていた。

へとへとだった。

仕事を終えたのは夜の7時だった。

仕事場を出て、駅に向かって歩いていた。

そこに電話があった。

「お父ちゃんが……、お父ちゃんが……」

私はこのまますり減って、すり減って、すり減って、すり減って、すり減って、すり減って、すり減って、すり減って、無くなるまですり減って、生きていかなければいけないのだろうか。

ろくな恋愛もなかったし、結婚もしなかった。

高校を卒業して家を出て、大して変わらない田舎の仕出し屋に務めた。

もっと都会に出ればよかった。

もっと違う仕事を探せばよかった。

華やかなことなど何もない人生だった。

きっとこのままこのバスのように、どんどんと暗くなる風景を眺めながら、終着の駅に向かっていくのだろう。

運転手が次のバス停の名を告げた。

私の村の、一つ目のバス停の名だった。

しばらくして、薄暗い街灯に照らされる廃校が通り過ぎていくのが見えた。

あの女は……、まだそこに座っていた。

私は少し、ぞっとした。

次は終点だ。

あの女は、私と一緒に降りてくるのだろうか。

何やら気味が悪い。

女はただじっと、真っすぐ座ったまま前を見ていた。

終点で降りてあるものと言えば、山道を登ったところにある私の家と……、他に何があるのだろう。

途中、分かれ道を反対に行けば、山の中にいくつか墓がある。

けれどこんな夜更けに墓参りもないだろう。

もしかして、母親の知り合いだろうか。

あの女も、私の家に行こうとしているのだろうか。

だとしたら、声をかけるべきだろうか。

いやでも、まだそうと決まったわけじゃない。

とにかく薄気味悪い。

なにやら中身がないように見えた。

幼い頃、家の庭の片隅の金柑(きんかん)に、(ちょう)(さなぎ)を見つけたことがある。

春になっても蛹は蝶にならなかった。

よく見ると、針の先で突いたような小さな穴が開いていた。

私は気になってその蛹をむしり取り、破って中を開けてみた。

中には何も入っていなかった。

寄生虫にやられたのだ。

あの女も、きっと同じに違いない。

空っぽだ。

空っぽだ。

空っぽだ。

女の中身は空っぽだ。

頭蓋骨の中はなんにもなくて、空洞になっていて、呼吸もしていなくて、顔に目はついているものの、何かを見ているわけではなく、それはただ誰も見ていないテレビのように映像を映しているだけで……、空っぽで……、空っぽで……。

声なんかかけたくない。

終着駅で、私はあの女と二人きりにされるのだろうか。

運転手はバスのエンジンを止め、煙草を一本吸うと、このバスに乗って帰って行ってしまう。

バス停には明かりもない。

バスの車内に灯された蛍光灯が、その代わりの役目を果たしていた。

道沿いに、いくつか街灯はあるけれど、それは途切れ途切れで間は何も見えない。

あと五分もすれば、私はこのバスを降りなければいけない。

降りたくない。

このまま降りたくない。

もう嫌だ。

何もかも嫌だ。

考えるのも、体を動かすのも、呼吸をするのも、何かを見るのも、もう何もかも嫌だ。

あの女と一緒に降りるのも、家に行くのも嫌だ。

仕事に行くのも、仕事のことを考えるのも、このまま年を取るのも、死ぬのも、生きるのも、もう全部ぜんぶ嫌だ。

もうすぐバス停に着く。

最後のバス停だ。

降りなければいけない。

なのに、私は意識が朦朧とした。

眠いのだろうか。

うまく意識を保つことができない。

朦朧とした意識の中で、女が立ち上がるのが見えた。

いつの間にかバスは止まっていた。

きっとバス停に着いたのだろう。

けれど、私は体を動かすことができなかった。

気持ちを動かすことができなかった。

降りなければいけない。

嫌だ、嫌だけど、降りなければいけない。

なのに、体が動かない。

女は立ち上がって、何かを待つように動かない。

薄気味悪い。

薄気味悪い。

そしてゆっくり、わざと時間をかけるように振り返った。

振り返って私を見た。

ああ、私だ。

あの女は、私だったんだ。

私はずっと、私を見ていたんだ。

もう何も考えられなかった。

心から力が抜けて行った。

女はゆっくりと前を向くと、バスから降りて行った。

そしてバスは動き出した。

終点のはずなのに。

運転手はバスを降りて、煙草を吸うはずなのに。

バスは走り出した。

終点でもう一人の私を降ろし、バスはどこかへ向けて走り出した。


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