ありふれた異界での出来事
肺が痛い。高校から碌に運動していなかった体は想像以上に鈍く、気を抜けば足が縺れて転びそうになる。意識まで朦朧としてきた。それでも体は前に進み続ける。少しでも迫りくる死を遠ざけるために。
「あと少しでゴールだ。目の前にある七階建てのビルの中まで行けば、コイツは追ってこれない。」
腰にぶら下げた通信機から無責任なだみ声が聞こえてくる。冗談じゃない、今すぐにでも倒れそうなのにまだ
30メートル近くもあるじゃないか。このまま馬鹿正直に逃げても途中で追い付かれてしまうだろう。
俺はなるべく速度を落とさないように背負っていたリュックサックの中身を漁った。もう残り少ないが出し惜しみしている場合ではない。リュックサックからノートを取り出すとライターで火をつけようとした。理由は知らないが奴らは火を恐れる。アイツもそう言っていたし実際に火から逃げるように去っていくのも見たことがある。
火か着かない。オイルが切れたのか、それとも今まで酷使し続けたツケが回ってきたのか、その両方か。狂ったようにカチカチとライターを鳴らすが火花が散るのみで一向に着火する気配がない。
背後から奴らの唸り声がする。彼我の距離はもう2メートルを切ったぐらいだろうか。目的が安全地帯の到着から火を起こすことにすり替わったせいだろうか、
遂に足が縺れて倒れこむ。頭がおかしくなりそうだった。
反射的に振り返れば奴が飛び掛かってくるのがスローモーションで見える。全ての感覚がなくなり、迫りくる死の恐怖に包まれた。ここは常に暗い場所のはずなのに奴の悍ましい顔が細部まで見えた。
俺は何もできず奴に引き倒された。どうしてこうなった。この世界で目覚めてから幾度となく抱いた疑問が俺の最後の思考となりそうだった。