Stand Alone 寄稿
現在彼のネットでの掲示板や文章は有志や元仲間たちによって移項して残そうと頑張っておられます。
私の稚拙な文章がもし少しでも読まれてもらえるなら、どうか彼の本来の彼の文に触れていただければ幸いです。フリーランスの彼のコラムは最後まで書籍にはなっておりません。ですが、多岐にわたる雑誌でどんなダメ出しを食らっても自分流儀のちくっとした皮肉や応援、意味深な言葉や慈しみが必ず添えられていました。名前を明記させてもらえない雑誌でもです。
どうか、心に残れば幸いです。
絶望の最後に希望が残っていました。
パンドラの箱の中の花。
私はそれがどのような美しさなのかを想像して生きてきました。
幼少時代より。
やがて怪物たちが破壊しまくった後に残るもの。
美しいものを。
夢を見て、生きていました。
ネット黎明期と言われる少し前から、そう、ネット通信以降、たくさんの珍妙名物サイトがぎらぎらと出尽くしていたころ。
ブックマークはパンパンで、回線を一度切っては読み直すという電話使用料の節約術をしていた時代から。
彼はいました。
私はどうしようもないほど、自尊心が高いわりに、お笑いセンスが全くなく、投書しても採用されたことがなく、葉書職人の技術と常連の羨ましさにじっとしているしかありませんでした。
勝手邦題。
邦題を自分らで作ろう。
もともと、コミュニケーション能力の高かった彼は、昔から壁新聞のような持ち寄り投稿を取り仕切りるのが好きなタイプだと後日聞いたことがある。
巷あふれる、変な題名の英語のセンス、よくわからない邦題、これさえ入れておけば客が入るという魔法の言葉の羅列にヘキヘキしませんか!
ってのです。
彼は、投稿者の投稿がどれくらいだめでも、ゴミ箱に入れることはしない人でした。
それがスタンスで、それを喜んで「嬉しいなぁ、嬉しいなぁ」コメントもらえるなんて嬉しいなぁと。
酷すぎるものをさらりとこともなげに an indefinite opinion で流し、「およ?」って誰もが喧嘩せずを丸く収める技術を持っていました。
のらりくらりとぬらりひょん。
のような、そういうつるんとして手から抜け落ちるまさに子供時代流行ったバケツのスライムだったのです。あのスライムの話を「指についた泥汚れを落とすのに貸してくれとか言われて戻ってきたら粘着が全然」有ったよね。(その後内容物のあれが何で日本で輸入が止まり販売しなくなったが)ってついこの前話したところだったのです。
日本、ちんこまんこ学会の設立。
そこはかなるもの。
彼の短い短編。
プチよしなしの文章。
そして、世に最初に愛の伝道師「田亀源五郎」を熱く語った人であります。
当時、『お貸しいたしましょうか』のメールに「いや、自分で買います」とは言ったものの田舎民には田亀先生の本など中型書店にはあるわけもなく、数年前に、ようやく「すみません、お貸し願いませんか?」平に平にでした。
私が「すごいなぁ。凄い本だ」と箇所個所を指摘していく前に、どもったように「田亀先生は初期から女性向けの耽美小説にも漫画載せてたんだよ、だからこっちは読みやすいよ」
聞いてもないのに先に言われた。
「そうだね、こっちの方は的確にとらえていいよね、分かりやすい。愛って相互間が同等だからこそ成り立つんだよね。BLってのは理想愛の形の表現でもあるんだよね。むず痒いところにまで手が届く!」
それから、大きさの違いや、開き具合、書き込みのうまさと髭と毛の率。
とかね。
「そこまで読み込む人見たの初めてだ」感動してる、て言われた。
「ふへー、普通読むじゃん、よ。褒められると図に乗るからやめい!」
と、私はぶー垂れてパソコン画面の前でまっかっかだった。
今でも楽に検索して読めると思う数冊をあげてみよう。
君の名は。のパンフレットの仕事。
ハッピージャパンの厨房機器ネギーも、ググれば出てくる。
第68回芸術選奨メディア芸術部門 文部科学大臣新人賞を受賞した彼をインタビューをした和田永との対談和田が驚くほど喜ぶようなトークだった。
彼らしいイカれた通好みの文章だった。
「すげぇねぇ。すげぇねえぇ」
「ただ、好きな分野だったから」
直接言われると……嬉しいって、恥ずかしい顔をしていた。
昔の雑誌や新聞社にはライター表記している一時期がありました。海外のように。この記事はワタクシがお伝えいたしましたって、やつです。
パソコン通信やゲーム批評のぺーぺーライターもそういう個人名が載っている、F 1だったら今宮だ。ぐらいの自信と安心と青田買いのファン層をくすぐるにはもってこいだった。
私がそうだったから。
コラム・エッセイは通勤通学の文庫で一番手に取りやすく、一番目と心に優しいのも、私が深夜ラジオ世代じゃなかったからかもしれない。だけど、コレジャナイ感が酷かったのは、適当の裏打ちをしない、たぶんであろう、まあいいか、で括られる自分本位な週刊誌コラムのエッセイ集が多すぎたためだ。タイムラグが思春期における一日の違いでの格差もある時代に、文庫化されたそれらは役立たずどころか、前時代的だった。それは少年漫画におけるギャグマンガが印刷された時点で「ネタ、遅い!」って言いながら読み、書籍になった時に単行本派との笑いのツボの差とにている。だからこそ、怖い、面白ネタは怖い。独特の感性を持って真摯に物事を他者として見る第三の目を作っている人でないと、ギャクとはとにかく鮮度とその場の空気感そして、その人の持っているそのものを尻の穴まで見せるぐらいの度胸がないと他人から身ぐるみはがされるよりも恥ずかしく退出させ別の意味伝説となるのだ。すぐに忘れられる。そういう、非常な…。
彼らしい文章を書かせてくれる業界は、ほとんどといっていいほど見なくなった。そして覆面ライターのような扱いと滞る原稿料の入金の遅れに貧窮させていく、腐れ文筆業界と癒着を見続けた。
彼はけっして他人を批判的な興味本意だけでみることはしなかった。芸能記者や芸能記事の会見に一度だけ参加して体育座りしてみていて気持ち悪くなって泣いたほどの人だった。
彼は生涯芸能人を晒し者にし小馬鹿に批判するような雑誌で書くことを拒否し、その手の場にも行くことはなかった。徹底したリベラリストだった。
映画の宣伝の会見場でも海外の役者や国内の役者でも同じように振る舞った。
彼の仕事が恐ろしいほどの心身疲労骨折するような多種多様の分野を受注し入稿していくフリーランスの現実の厳しさを知らなすぎた。彼はそういうことを語らない人だったし、私は一抹の清涼剤という刺激ラムネであり続けた。
彼らしい生き方はTWで生存報告の要領で書く文字だけだった。
膨大な人々は砂のようにゆきて去り。
それもまたよし。
と言い切った人だった。
残ったのはありのままのワタシを好きでいてくれる人だからいい。ただ、会いたいと思っている連絡を取りたいと思っている人にもう一度繋がるのって難しいね。
と、呟いたんだ。
私もね、そうなんだ。だからこの人と繋がりを持とうとしたんだ。
「いろいろめんどくさいから、もうゲイでいいわ」
って、結婚しないという理由の問いをそれで逃げた人だった。あの、完封すさまじいバッシング時代に。ああ、同じだ。そこまで私と同じだと、読んで笑ったんだ。同じ時期、同じ時刻。
「君は誰だ、目が曇って観えない!」
私たちはキスをしよう。
「あなたを愛するものです」
そいで、わがままとさみしがりの浩にこの先のことの顛末を語れる人になろう。
世界は今こうなっているんだ。
面白いね。
面白いね。
「子供は未来からの使者。子供を泣かすはなんびともいかん!」
哲学を愛した彼。
タゴールの言葉なら
“Every child comes with the message that God is not yet discouraged of humanity”
彼はどんなに前の道路に車がいないとわかっても、横断歩道を歩いて見せる人だった。たぶん、草むらで遊ぶ子、カートの赤ちゃん。窓ガラスの向こう側にいる子にまで気を配るオトナだったから。
そして26世紀青年を出してきて「この映画はイイモノダ」っていうんだよ。
見方を変えよう。少しだけ。生きやすくするために。
自分が生きやすくするために。
『愛してるよ、光、命の輝き、君の光彩、ひろし、浩君、hero!同じ時代に生きて出会えてありがとう』
いかくんの名前で出すと言った長編小説を一読者は楽しみにしていました。