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最終話 送るひとびと


「おじいちゃんなんでしょう?」


 もう一度、確かめるように尋ねるあさひの顔を驚いたように見上げていた湯守は、ややあって、ふわりと微笑んだ。

 体を回して、あさひと向かい合う。あさひの手を取って握った。あたたかい。


「そうじゃよ、あさひ坊。今まで黙っとって、すまなかったな」

「……おじいちゃん」


 あさひの目から涙があふれる。

 堪えられず、あさひは床に膝から崩れて湯守に抱きついた。

 オコゼはいったんあさひの肩から驚いたように飛び立って、湯守の肩にとまる。


「おじいちゃん、おじいちゃん、おじいちゃん……」


 湯守の白作務衣に顔をこすりつけて、あさひは涙を流した。子どもの頃のように泣きじゃくる。

湯守の手が伸びてきて、いたわるようにあさひの頭を撫でる。

 記憶にある祖父は、長年の農業と狩猟の山歩きで日焼けし、鍛えられた体をしていた。それでも老いるにつれて、筋肉は次第に落ちて骨ばっていったが、いつもあたたかくやわらかい手をしていた。

 その大きな手で頭を撫でてもらうのが、あさひは大好きだったのだ。


「あた、あたし……クマから庇ってもらったときにおじいちゃんが湯かき棒を構えるのを見て、あれっと思ったの。何だか、どこかで見たことがある気がするって。猟銃、構えたおじいちゃんをよく見てて、それに、似てたから」


 ひっくひっくと、咽喉の奥が鳴って苦しいが、あさひは続ける。湯守はかつてそうしてくれたように、短く相槌を打ちながら聞いてくれた。


「それにね、あのハーモニカ。『ふるさと』、吹いてくれたでしょ」

「うん、そうじゃな。あの曲はあさひ坊がいちばんのお気に入りじゃったもんな」

「だけど、湯守さんがおじいちゃんだって確信したのは、さっきなの。湯守は、山で亡くなったひとがなる、っていうから」

「そうか、そうか。よくわかったのう。わしはな、あさひ坊ならきっと、気づいてくれると思っとったぞ」

「だったら、最初から、言ってくれたらいいのに」


 つい勢いでそう言うと、ちょっと困った気配を頭上に感じた。

 怪訝に思って顔を上げると、案の定苦笑いの湯守と目が合う。


「もしかして、言っちゃいけない決まりなの?」

「……ひらたく言うと、そういうことじゃな。ここは亡くなったものが来世へと旅立つための癒しの場じゃ。従業員が自らの素性をさらすことで思い煩わせ、万が一にもその旅立ちを妨げるようなことがあってはならんからの」


 湯守はぽりぽりと顔を掻いた。


「じゃが、わしは湯守失格じゃな。あさひ坊に気づいてほしくて、つい色々と『ひんと』を出してしまったわい。後で姫神さまからこってりお説教があるかもしれんの」

「もしそうなったら、あたしも一緒にお説教されてあげるよ」

「おお、そりゃ心強いのう」


 あさひは湯守の腿に頭を乗せた。

 あさひが落ち着きを取り戻したのがわかったのか、オコゼが湯守の肩からつつっと滑り降りてくる。


「くるるぅ?」


 あさひの肩に乗り、オコゼは心配そうに顔をのぞきこんで鳴く。頭を指先で撫でてやると、嬉しそうに目を細めて「うるる」と咽喉を鳴らした。


「ねえ、おじいちゃん」

「何じゃ?」


 あさひの手を温めるように包みこみ擦りながら、湯守は答える。


「あたしがここに来たとき、コートのポケットに、入れた覚えのないまほろば電鉄の切符が入ってたの。最初、あれは姫神さまが入れたのかもって思ってた。でも、あれはきっと違う……おじいちゃんがくれたんだよね?」

「ああ、そうじゃな」

「たぶん、そうなんだろうなって思ってた。でもずっと、その理由がわからなかった。だけど、今日、わかったの」


 あさひはじっと湯守の顔を見上げた。

 瑞々しい少年の瞳に映るのは、泣きはらした女性の顔。

 ある予感に、手のひらが冷たい汗で湿ってくる。


「あたし……死んじゃったんだね? おじいちゃんと同じように。山の中にある、自分のうちで」


     


 湯守は即答しなかった。

 けれどそれは、否定でもないということだ。

 どくどくと胸の中で徐々に激しくなってゆく鼓動を鎮めるために、あさひは大きく息を吐く。


「さっき、優衣ちゃんのお父さんを見てて、わかったの。ここには生きているひとは来てはいけない。だけど、あのお父さんみたいに必然の理由があったら、切符をもらえるの。もしあたしが、本来ここに来てはいけない人間だったら、おじいちゃんはあたしに土沢から温泉駅行きの切符なんて発行しないし、仮にあの切符が手違いで発行されたのだったら、きっと帰りの切符もすぐに発行してくれたでしょ? じゃあ、それができないのはなぜか、あたしは考えた」


 湯守は、否定はせず、かといって頷きもせず、あさひの手を握っている。


「いくら考えても、答えはたったひとつしか浮かばなかった。……つまりあたしも、ここの温泉に引き寄せられた人間だったからなんだよね?」


 後頭部にずきん、と鋭い痛みが走った。



『どこ行くんだ!』


 ガシャン、とすぐ後ろでガラスが砕ける音がする。

 びくりとしてあさひがふりかえると、三和土がカップ酒の中身でぐっしょりと濡れ、割れたガラスが散乱していた。

 酔って充血した目の父が、玄関の上り框に仁王立ちしている。


『……お父さん』

『こんな時間から、どこに行くんだって言ってるんだ』

『い、行ったでしょ。仕事よ。今日は遅番シフトなんだって』


 肩に掛けたバッグを背負い直して、あさひは急いで敷居を跨ぐ。

 けれど、閉めようとしたガラス戸を、父が手を掛けて遮った。


『おれぁ聞いてねえぞ』


 酔いが回ってふらついた足で、父はあさひに向かって踏み出してくる。


『お父さん……ね、あたし、仕事に遅刻するから、もう行かなきゃ』

『おまえも、おれを置いていくのか。こんな役立たず、のたれ死んだらいいって思ってんだろ!』

『お父さん、違……』


 融けた雪が凍りついたポーチで踏ん張ったところを、父がものすごい力でこじ開ける。はずみで、ずるりと足が滑った。



「あたし、電車の中で目が覚めるまでの記憶、すごくぼんやりしてるの。どうやって家から駅まで行って、どんなふうに電車に乗ったのか、うまく思い出せない……さっき、話してるうちにそのことに気づいたら、すごく怖くなって……」

「ひとつだけ訂正するなら……」


 湯守は微笑む。


「あさひ坊はまだ、死んではおらんぞ。ただ、その『あわい』を彷徨っとるだけじゃ」

「あわい?」


 子どものように首を傾げるあさひの頭を、湯守は微笑みのまま、わしわしと撫でた。


「そうじゃ。『あわい』とは世界と世界の境界に位置する場所、どこでもあり、どこでもない場所――すなわち、このまほろばの温泉郷のことじゃ」


 湯守は後ろの壁に立てかけてあった湯かき棒を手に取る。


「わしは湯守じゃからの。ここを訪れた客が戻るか往くかを決めることはできん。ただ受け入れ、心からもてなし、送り出すのみじゃ。それはあさひ坊、おまえさんにしても同じじゃよ。おまえさんが戻りたい――生きたいと強く願えば、わしはすぐにでも切符をあげよう」


 言いながら、湯かき棒で何もない空中をかきまわした。

 棒の軌跡を追うように淡く光る霧の粒が出現し、渦を巻く。その粒が集まって、白い切符が一枚、出現した。

 切符の表面には、『まほろば温泉駅→現世ゆき』と文字が浮かび上がって見える。


「じゃがな、もしおまえさんがすべてをやり直したいというなら、それも可能じゃ」


 切符の表面に浮かび上がる文字は、『まほろば温泉駅→幽世ゆき』へと変化した。光が色を変えて明滅するように、切符の表面を滑る文字は定まらず、揺れている。


「もちろん、すぐにどちらか決めろというのは酷な話じゃな。じゃから、そうじゃな……少し、昔の思い出話をしようか」


 湯守は湯かき棒の上下を返し、先端部分で床をこつり、と突いた。

 先端を中心にぶわりと濃い霧が吹き出し、瞬く間に周囲を包みこんでいく。


「うるっ!」


 霧の波が押し寄せると、オコゼは嬉しそうに鳴いた。

 そんなオコゼを微笑んで見下ろし、湯守はあさひと目を合わせる。


「わしは先代の湯守の跡を継いでここの湯守になったと、前にも話したよな?」

「うん」

「あの日、あさひ坊とお母さん――星子せいこさんがなかなか帰ってこないから心配になったわしは、軽トラに乗っておまえたちを迎えに出たんじゃ。息子は会社があったからの」

「そんなこと、初めて聞いた……」


 あさひは眉を寄せた。


「おじいちゃんはずっと、家で待っていたって聞いたよ」


 霧はどんどん濃く、厚くなってゆく。

 ついに、湯守とオコゼ以外、あさひには何も見えなくなった。


「あのときもこんな霧が、山も町も道路も、すっぽりと包んでいる日じゃったのう……。わしは胸騒ぎを感じながら、ひたすら花巻から釜石へ向かう険しい山道を走った。道路は対向車がすれ違うのがやっとで、カーブもトンネルも多い。ただでさえ霧が濃い上にとっぷりと日は暮れて、見通しはほどんどきかなかった。

軽トラで走りながら、もしやどこかで車が故障していたりしないか、事故を起こしている車はいないか、それこそ目を皿のようにしてわしはハンドルを握っとった」


 湯守はふう、と長いため息を漏らす。

 次の瞬間、あさひはぎくりとして体を引いた。

 あさひたちを包んだ霧の中、湯守の背後に、青白く揺れる炎が出現したのだ。


「驚かんでもいい。この霧は、わしが見たものを投影させる『すくりーん』みたいなもんじゃ」

「投影?」

「そうじゃ。これは、あの日、わしが見とった光景なのじゃ」


 湯守の言葉を裏付けるように、青白い炎の背後に、鼠色のアスファルトの路面がぼんやりと浮かび上がってくる。

 しかし、視界は十メートルあるかないか。カメラを手持ちして撮影した映像を見るように、視界は不規則に揺れる。

 それが突然、停止した。


「青白い炎が見えて、驚いたわしは咄嗟に急ブレーキを踏んだんじゃ。そこでわしが見たのは、一列になって山肌を下ってゆく、狐火じゃった。路肩に軽トラをとめたまま、呆然とわしは車を降りたんじゃ」


 映像がゆっくりと切り替わる。

 うっすらと雪をまとった険しい斜面を、規則正しく並んだ青い炎が下ってゆく。

 視界はあちこちブレながらその炎に近づき、やがて隊列の一部に加わって、斜面を下っていった。


「わしはまるで導かれるようにして、狐火の後について歩いた。昔から、じいさんたちに『山には狐がいるから、狐火についていったらだめじゃ』って言われておったがの。そのときは不思議に、怖いものだとは思わなんだ。もうすっかり周りは暗くなっとったが、狐火が先導してくれたおかげで、足元が見えんようなことはなかった。真っ白な濃い霧に、青い炎が映っておってな。わしの影も、ぼんやり青白く映るんじゃよ。きれいじゃった」


 進む先が、突然ぽっかりとひらける。

 そこには、それまでの夢のような光景には不釣り合いな、鉄の塊が散乱していた。


「いったいどのくらいそうしてふらふらと歩いたのか……行き着いた先で、わしは、大破した星子さんの車を見つけたんじゃ。いきなり頭から冷たい水をかけられたような気分じゃった」


 映像は、潰れてひしゃげた車にぐっと近寄っていく。

 その光景に、遠い記憶が呼び起される。

 いくら呼んでも目を開けなかった母と、だんだん冷たくなっていくその体。

 体のあちこちが痛くて、寒くて、悲しくて、怖くて、泣いて泣いて泣いて――

 それでも誰も助けに来てはくれなかった。

 ここには誰もいない。あるのは、ただ、自分だけが世界から取り残されたような、底なしの孤独だけ。


「我にかえったわしは、車にすがって叫んだ。星子さんとあさひの名を必死に呼んだよ。そこで『おじいちゃん』と、かすかな声が聞こえたんじゃ。つぶれてひしゃげた車体を、わしは渾身の力で押し上げた。岩と車体でできたわずかな隙間に、あさひ坊や、おまえさんがうずくまっとった。

残念ながら、星子さんが息絶えとったのは、すぐにわかったよ。じゃからわしは、何としてでもこの子だけは助けなけりゃならん、と思ったんじゃ。じゃが潰れた車に阻まれて、とてもじゃないがあさひ坊を引っ張り出すこともできない。しかし、携帯電話などもない時代のこと。どうやってここから抜け出したらいいのか、助けを呼べばいいのか。わしは途方に暮れた」


 よみがえってきた恐怖に、知らず、息が詰まる。

 それを察した湯守が、やさしくあさひの背中を擦ってくれた。


「そのときになって、ようやくわしは気づいたんじゃが、まるであさひ坊に寄り添うようにして、金色の目をした、霧のように真っ白できれいな狐が、うずくまっておったんじゃよ。その狐が温めてくれておったおかげで、あさひ坊は山の寒さからも守られておったんじゃな」


 歪んだ車の暗がりの中で、白い何かが動く。

 輝くような瞳の白い狐が体を起こすと、その下から血と土で汚れた小さな女の子が姿を現した。

 あさひは目を見開く。


 ――そうだ。


 たしかにあの寒さと恐怖の中で、ふわりとやわらかい何かが、自分を包むように守ってくれていた。

 映像の中で、白狐はのろのろと立ち上がると、割れたフロントガラスの隙間から、外に出てくる。すると次の瞬間、あちこちを軋ませながら、車体の隙間が広がる。まるで、見えない誰かの手で押し広げられているようだ。


「何が起こったのか、わしはまったくわからんかった。じゃが、おかげでわしはようやくあさひ坊を引っ張り出すことができた。じゃが、それで終わりとはならんかった。おまえは足を車と岩の間に挟まれて、大怪我をしとった。下半身がぐっしょりと血まみれでの。覚えとらんか?」


 あさひは激しく首を横に振る。

 あのときの事故の記憶の中に、自分の怪我のことはない。

 すると、映像の中の白狐は、こちらをじっと見ていたかと思うと、とことこと歩き出した。行ってしまうのかと思えば、少し先で立ち止まり、またこちらをじっと見ている。


「あの白い狐はな、ああして少し歩いてはふりかえり、また少し歩いてはふりかえりするんじゃ。まるでわしに、ついてこいと言っているかのようじゃった。迷ったが、わしは狐についてゆくことにしたんじゃ。どのみちほかに、どうしようもなかったしの」


 あさひを抱えて歩くせいか、道なき道を進む視界はぐらぐらと揺れる。

 しばらくそれが続いた後、何の前触れもなく、道は途切れた。

 眼前に広がっていたのは、一軒の巨大な木造の建物だった。

 見ようによっては平屋にも、二階建てにも三階建てにも、それ以上のようにも見える。建物のあちらこちらからはもうもうと湯気が立ち上っていた。


 その正面玄関の前に、ひとりの小柄な老婆が立っていた。

 湯守が持っているのと同じような白木の棒を肩に担いではいるが、いかんせん背が低いもので、やたらと棒が長く見える。

 その老婆が、こちらに向かってちょいちょいと手招きをしていた。


「あっ……」


 映像が老婆に近づいていくにつれて、その顔もはっきりと見えてくる。

 それが誰か気づいた瞬間、あさひは声を上げていた。


「あれって……駅の売店の、オババ?」


 湯守は答えずに、こくりと一度だけ、頷いた。


「先代の湯守じゃったオババはな、わしの顔を見るなり言ったんじゃよ。『こりゃあ珍しい。生きとる人間がこのまほろば温泉に迷いこんでくるとはのう』とな。このとき、わしは思い出したんじゃ。

若い頃、ベテランの猟師のじいさまから聞いたことがあったんじゃよ。この辺りの山の中には、死んだ者が集まってくる温泉が湧いとる場所があって、その湯を守る番人がいるんじゃと」


 オババは朽木のような顔をくしゃくしゃにして笑う。


「このばあさんがまたとんだくせものでのう。『ここの湯は死んだ人間を癒すためのものじゃが、生きとる人間の体も心も、どんな傷だってたちどころに直す。じゃがあんたらは予約にない客じゃから、宿代は高いぞえ』などと言ってきたんじゃ」

「その宿代って……いくらって、言われたの?」


 湯守は人差し指を一本、立てて見せた。


「いち……ううん、百万円、とか?」


 湯守は首を横に振る。


「人ひとり分の命、と言ったんじゃ」

「そんな……」


 もう遠い昔のことなのに、今まさに選択を迫られているような心持ちであさひは青ざめた。

 祖父だったら、自分はどうなってもいいから孫だけは助けてくれと言いかねない。

 すると湯守は、まるであさひが考えていたことがわかったように、ふっと目元をゆるめた。


「孫は助けたいが、かわいいこの子をここにひとり残していくのは忍びない。じゃから命はすぐにはやれないが、その分、身を粉にして働くからそれで勘弁してもらえないか、とわしは頼み込んだんじゃ」

「それで、どうなったの?」


 あさひの問いを待っていたかのように、映像の中のオババは大笑いする。

 ぎょっとしたあさひに、湯守も苦笑して言った。


「わしみたいに迷いこんでくる生者はそもそも珍しいが、こんなことを言い出すやつはもっと珍しかったみたいでな。どうやらわしは湯守に気に入られたらしい。結局、わしはとある条件と引き換えに、おまえをここの湯に浸からせてもらうことと、現世行きの切符をもらうことを取り付けることができたんじゃ」

「その条件って、もしかして……」


 あさひはごくりと息を飲む。


「ここの、湯守になるってこと?」

「そうじゃ。わしは寿命が尽きた後、ここの湯守になることを引き受けたんじゃよ」

「じゃあ、あたしのせいでおじいちゃんは、こんなところに閉じ込められてるの……?」

「こりゃ、こんなところなんて言うもんじゃないよ」


 困ったように言って、湯守はまた泣きそうに顔をぐしゃぐしゃにしたあさひの頭を、ぽんぽんとやさしくたたいた。


「ここの湯と宿がどれだけのひとびとを癒しているか、今のお前にはわかるじゃろう?」

 涙をこらえて俯いたまま、あさひはこくりと頷く。

「あさひ坊や、おまえさんはわしがいやいや湯守をやっとると思っとるかもしれんが、それは間違いじゃ。わしは湯守になってよかったと心底思っとるよ」

「……本当に?」

「もちろんじゃとも。こうして若くて一番力に満ち溢れていたときの姿で、ずっと働けるのじゃからね。わしはどうにも貧乏性らしくてなあ。じっとしてると落ち着かんのよ」


 細い腕にささやかな力こぶを作ってみせる湯守に、思わずあさひは吹きだす。

 そうだった。

 祖父は祖母と一緒に、いつも朝から晩まで働いていたっけ。夏も冬も、朝から晩まで、常に手と体を動かしていた。


 疲れないのと尋ねると、

「じいちゃんたちは貧乏性じゃからなあ。じっとしとるのは性に合わん」

と、皺だらけの顔にふたりして笑みを浮かべるのだった。


「わしは湯守になって幸せだったと思っとる。わしと同じように山や、山の生き物を愛した者たち、また山の生き物そのものを癒す仕事が出来るんじゃからな。それにこうして、またおまえにも会えたしの」

「おじいちゃん……」

「ひひひっ」


 その声は、何の前触れもなく真横から聞こえた。


「どうやら行先は決まったようじゃの、おじょうさん」

「えっ」


 枯れ木のような、売店のオババが、あさひの隣に立っていた。


「お、オババ!? どうしてオババがここに?」

「ひひひっ」


 あわてふためいて湯守の白作務衣にしがみつくあさひを、オババは面白そうに見下ろしている。やれやれといった表情で湯守は言った。


「姫神さま、おひとが悪いですよ。わしのかわいい孫が心臓発作を起こしたらどうするんです」

「ひめ、かみさま……? オババが!?」


 湯守は頷く。


「姫神さまは山に暮らす者たちがお好きでな。暇を見つけては、売店に座ったり、まほろば電鉄の運転席に座ったり、どこかの湯の湯守に欠員が出たときは、湯守までなさってるらしいんじゃ。わしらがあのときに会った湯守は、姫神さまじゃったんじゃよ」

「じゃあ、さっき言ってた姫神さまから切符をもらった、ただひとりの人って、もしかして、おじいちゃんのこと?」

「そうじゃよ」

「ひひひっ」


 オババが笑うと、その姿がゆっくり霧は晴れてゆく。

 そこに出現したのは、さきほどまでいたはずの厨房ではなく、まほろば温泉駅の待合室だった。


 埃を被ったタバコと缶ジュースの自販機と、ペンキが剥げかけたベンチの置かれた待合室。ロの字に並ぶベンチの中心に鎮座した薪ストーブの上では、鉄瓶がしゅんしゅんと湯気を上げている。

 改札口の斜め向かいには、壁に埋まるようにしてこじんまりとした売店があった。そこには半纏を着たオババが置物のようにちんまりと収まっている。

 思わず握りしめたあさひの手の中に、かさりと乾いた感触があった。

 驚いて手のひらを開くと、そこには白く小さな切符があった。

『まほろば温泉駅→現世ゆき』と文字が濃くはっきり浮き上がっている。


「おじいちゃん……」


 また、涙があふれそうになる。

 くしゃくしゃに顔を歪めるあさひの手を取って、湯守はそっと立たせた。

 いつの間にかあさひは、ここに来たときと同じ、黒のダウンコートとジーンズ、ブーツを身につけていた。足元にはあさひのバッグも置かれている。 


「達者でな、あさひ」

「おじいちゃん、あたし、あたし……」 

「あいつ――おまえの父さんのことなら、心配はいらんよ。あさひ坊にはこれまで苦労をかけたが、これであいつも目が覚めるじゃろ。あいつはわしに似て頑固で不器用じゃが、あさひ坊のことは、本当の娘と同じように思っとるよ。それだけは信じてやってくれんか」

「うん。……うん」


 涙でぐしゃぐしゃのあさひの顔を、湯守は白作務衣の袖で拭ってくれる。

「あたしも、お父さんのことは大好きだよ。もちろん、おじいちゃんもおばあちゃんも、お母さんも、みんな、大好きだよ」


 湯守は心の底から嬉しそうに笑った。


「これから往く先で、また辛いこともあるじゃろう。さみしくなることもあるじゃろう。そのときはここのことを思い出すとええ。わしはずっとここで、また会えるのを待っとるよ。それに、こいつもな」

「くるるる!」


 オコゼが矢のように飛んできて、あさひの肩にとまった。ぐりぐりと頬に頭を擦りつけてくる。

大きな金色の目からぽろぽろ零れる大粒の涙が、透明な水滴になってコートの表面を転がり落ちていく。あさひも涙をこらえて、オコゼの頭を指先で何度も撫でた。


「オコゼも色々ありがとうね。ずっと、大好きだよ」

「くるるぅ……」


 オコゼの鳴き声に重なるように、プワーン、と聞き覚えのある警笛が聞こえた。

 一対の獣の瞳のように、ヘッドランプの明りが浮かび上がる。猛然と霧を蹴散らしながら、列車はホームに滑り込んでくる。

 行き先表示には『現世ゆき』と表示されていた。


『まほろば温泉駅ぃ~、まほろば温泉駅ぃ~』

 

 空気音とともにドアが開く。


「くるるっ」


 もう一度だけ短く鳴いて、オコゼがあさひの額にみずからの額をすり寄せる。そして、ぴゅっと素早く湯守の肩へと飛んでいった。そこでもぼろぼろと流す涙が、湯守の白作務衣に小さな染みを作っている。

 あさひは唇を引き結んで、湯守の方をふりむいた。

 湯守は笑顔のまま、頷く。

 バッグを肩にかけ、あさひは慎重に一歩を踏み出した。一段一段ステップを上がり、車内へと入る。


「……ッ」


 けれど次の瞬間、あさひは車内にバッグを投げ出し、湯守に飛びついていった。

 肩に頭を押しつけてしがみつく孫娘を、湯守は強く抱きしめて、背中をぽんぽんとやさしくたたく。

 そんなあさひの耳元で、湯守が小さく囁いた。


「それ……本当?」


 体を離して目を瞬くあさひのまつげから、透明な涙の雫が落ちる。

 湯守は頷いて、またあさひの頭をわしわしと撫でた。

 あったかかった。

 

「姫神さまにオコゼにそれからおじいちゃん……みんな、元気で。ありがとう」


 手を振る湯守とオコゼを残し、あさひは再び車内に戻る。


『まもなく発車いたします。次は現世~、現世~』


 なつかしい「ふるさと」のメロディに乗せて、発車を告げるアナウンスが流れた。再びプシューと空気音をさせながら、ゆっくりとドアが閉まる。

 ガタンと小さく車体が揺れた後、列車は徐々に動き出した。

 あさひは車内へと走る。湯守は改札前で手を振っていた。

その姿が、どんどん小さくなる。

 列車が加速するにつれ、しだいにその姿も点のようになり、駅舎が霧の彼方に遠く隠れてしまうまで、あさひは窓に顔を押しつけていた。 


     


 

 いったいどのくらいそうしていたのか。リズミカルな車輪の音を響かせながら走る車内で、あさひはのろのろと立ち上がる。

 車内に人影は見当たらなかった。 

 それもそうだろう。そもそも、いったいどのくらいで目的地に着くのだろう。

 あさひはずるずるとシートにもたれかかった。

 車窓を流れてゆく景色は、まだ霧の中だ。

 短い間だったけれど、あの不思議な温泉宿での日々が思い出される。しかしただひとつ、あさひの心にどうしても引っかかっていることがあった。


「やあ」


 その声は、頭の上から降ってきた。

 後ろのシートから身を乗り出して、あさひの顔をのぞきこんでいたのは、まさにあさひが今考えていた、心残りそのものだった。

 驚きのあまり、びたんと音がしそうな勢いで窓辺に後退ったあさひに、いたずらの成功した子どものように、白夜はくっくと笑う。右の耳の金色の鈴が揺れて鳴った。


「びゃ、白夜さんっ!?」

「湯守とはいろいろ話ができたかい?」


 真っ白な狐は、するりとあさひの向かい側のシートに移動してくる。


「はい。たくさん……すごくたくさん、話ができました」

「そりゃあ、よかった」


 白夜は琥珀色の目を満足そうに細める。


「……あの、白夜さん」

「何だい?」

「あたし、帰る前に、どうしても白夜さんに会いたかったんです」

「おや、それは嬉しいねえ。ぼくもだよ」


 訊くのが怖い。

 だけど今訊かなかったら、たぶんもう二度と会えない――彼女には。


「白夜さん、あの……この間の話の続き、していいですか?」


 白夜は答えの代わりに、琥珀色の目を細めた。

 あさひは姿勢を正して、座り直す。


「白夜さん――ううん、それとも小夜子、って呼んだ方がいい?」


 白夜は頷いた。鈴が鳴る。


「いいよ。どっちでも」

「……やっぱり、小夜子だったんだね」

「うん」


 空気が抜けるように、体から力が抜けていくような気がした。

 ずるずるとシートにもたれかかったあさひの前で、白銀の豊かな毛並みを持つ霊狐の体を、ゆるゆると羽衣のように霧が包んでゆく。

 霧が消えた後には、親友が座っていた。


「黙っててごめんね、あさひ」

「小夜子……」


 唇が震えた。

 子どもの頃から、ずっと一緒にいたのに。初めて会ったひとみたいに、うまく話せない。俯いてしまう。

 ここに来るまでの自分でいられたなら。何も知らなかったままの自分でいられたなら、話したいことが、たくさんあった。聞いてほしいことが、たくさんあった。

 きっと小夜子なら、笑って聞いてくれるだろう。うん、うんと頷いて、それは大変だったねと言ってくれるだろう。

 でも、すべてを知ってしまった今では、それはできない。


 小夜子、あのとき言ったよね。人間を観察するのが大好きだったから、人間の親子の車に近づいたって。

 その直後に車は事故を起こして、子どもだけが助かったから、自分は姫神さまの命令に従って、その子どもを見守ることにしたって。


 そうしたのは、姫神さまの命令だったから? 

 それとも、もしかして自分のせいで事故が起こったと思ってて、その罪滅ぼしのつもりだったの? 仕方なく、あたしの傍にいたの?


「あたしが、そうしたかったからだよ」


 ぽんと差し出すような口調で、小夜子は言った。

 呆気に取られて、あさひは小夜子の顔を凝視した。

 長くやわらかい髪を揺らして小さく首を傾げるような仕草で、小夜子は微笑む。その耳には、あの金色の鈴が光っていた。


「あたしがあさひの傍にいたいと思ったから、傍にいたの。姫神さまのせいでも、誰かのせいでもないよ」

「小夜子……」


 ゴトンゴトンと、規則的な振動が伝わってくる。

 小夜子の白い頬を、明るい陽射しがゆっくりと照らしだす。

 いつの間にか、窓の外の分厚い霧には切れ間ができ、そこから陽射しが竪琴のように射しこんできていた。


「あのね……お母さんが事故に遭ったのは、小夜子のせいじゃないよ。だってあのとき、小夜子はあたしのすぐ横を走ってたし、お母さんは前を見て運転してたもん」

「でも――」

「お母さんね、まだ冬タイヤにはきかえてなかったの」


 小夜子の言葉をやんわり遮って、あさひは続けた。

「『雪が降らないといいわねえ。タイヤ交換の予約、来週にしちゃったのよ』って、親戚のおばちゃんとしゃべってたの。だから、カーブに差し掛かったとき、凍った路面でスリップしたんだと思う。だから、あれはいろんな不運が重なった事故だった。誰のせいでもないの」

「あさひ……」

「だからね、小夜子が悪いんじゃないの。自分を責めないで」


 困ったように眉を寄せる小夜子に、あさひは笑いかけた。

 口下手な自分の思いが、せめて伝わればいいなと思いながら。


「駅を出るときね、湯守さん――おじいちゃんが、こっそり色々教えてくれたの。お母さんも昔、この温泉に来たんだって。小夜子、知ってた?」


 小夜子は小さく目を見開く。


「ふふっ、やっぱり知らなかったんだ?」


 いたずらのお返しが成功した子どものように、あさひは笑う。


「小夜子はその頃、あたしの傍にいたから、知らなかったかもしれないよっておじいちゃんも言ってたけど、本当にそうだったんだね」

「……まったく、あの見掛け倒しの古狸は、やってくれるわね」


 長い髪をかき上げながら、少し悔しそうに言う小夜子に、ふたりの仲の良さが垣間見えたような気がした。

 あさひの胸はじんわりと熱くなる。


「そのときね、お母さんも言ってたんだって、タイヤがスリップしたって。だから、小夜子のせいじゃないよ。それにね、おじいちゃん、自分の正体をお母さんに全部打ち明けたんだって。お母さんもすごくびっくりしてたって。だけどね。おじいちゃんや小夜子が見守っててくれるんなら安心だって言って、涙を拭いてすっきりした顔で、旅立っていったんだって」

「……でも」


 言いかける小夜子の言葉をまた遮って、あさひは首を横に振った。


「あたしね、お母さんがいなくなって寂しかったけど、その分小夜子が傍にいてくれたから、寂しくなかったよ。一緒にいてくれて、嬉しかった」


 小夜子の表情が固まる。


「クラスのいじめっ子たちから、かばってくれてありがとう。あたしのこと大好きって言ってくれて、ありがとう。今まで一緒にいてくれて、ありがとう」


 小夜子の切れ長の目から、ぽろりと涙の粒がこぼれ落ちた。


「あー、やっと言えたあ」


 あさひは向かいのシートに移り、小夜子をぎゅっと抱きしめる。


「小夜子のこと、いつまでも大好きだよ」


 小夜子の細い手が、おずおずとあさひの背中にまわされた。初めこそためらいがちだったその手は、あさひが腕に力をこめると、同じ強さで抱きしめ返してくる。


「……あたしも」


 りん――と澄んだ音が響いた。


「あたしも、あさひと一緒にいられて、楽しかったよ」





 目を開けると、視界に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。

 もぞりと身じろぎすると、それに気がついたらしい誰かが近寄ってくる気配がする。


「気分はどうです? 自分の名前が言えますか?」


 あさひはゆっくりと頷いた。

 見下ろしているのは、桜色のナース服に身を包んた看護師だった。


「菊池……あさひです」

「よかった。今、先生を呼びますからね」

「あっ、あの」

「はい?」


 ナースコールに手を伸ばしていた看護師は、手を止める。


「ここ、どこですか……?」


「花巻市内の病院ですよ。救急車でここに運ばれたときのこと、覚えていますか?」


 記憶の深いところから、閉じこめていた光景が、ゆっくりと浮かび上がってくる。

 あさひはゆっくりと、頷いた。

 麗らかな小春日和の陽射しが、窓辺の白いレースのカーテン越しにやわらかく射しこんでくる。それはあの列車の中で見た景色に、少しだけ似ていた。







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