第四話 慈しむひとびと
「うーん、よく寝たあ」
あさひは思いっきり背伸びをする。
温泉と食事のおかげで、翌朝には全快していた。
「くるるぅ」
嬉しそうに顔をすり寄せてくるオコゼにも「おはよう」と挨拶をして、新しい白作務衣に着替え、黒髪をひっつめに結んだあさひは、廊下に出た。
つい癖で窓の外を凝視する。今日もやはり濃い霧が、宿の周囲をすっぽりと包んでいた。あちこちからもうもうと立ち上る湯煙が、霧へと混じってゆくのが見える。
どういう仕組みで暖房されているのかはわからないが、まほろば温泉郷の宿は、どこもかしこもほんのりと温かかった。
「さあて、今日も一日頑張りますかあ」
「くるるっ!」
あさひたちが言いながら赤い毛氈の貼られた階段を下りていこうとしたとき、血相を変えた湯守がちょうど駆け上がってくるところだった。
「おはようございます」
「おお、起きとったか。ちょうどよかった」
「どうしたんですか、そんなに慌てて」
「団体じゃ!」
「は?」
「団体さまご一行のご到着じゃ!」
「はっ、はいっ!」
湯守に急かされるまま、玄関まで一緒に駆けていったあさひは唖然とした。
上がり框にも、休憩処にも、客が溢れている。しかも皆、体のあちこちがいたんでいる。服が真っ赤に染まっている者も少なくない。
半分以上は中高年の男性だった。女性はあさひと同じくらいの若い女性と、初老の女性がひとりずつ。
ふうっと血圧が下がるのを感じつつも、あさひは腹に力をこめた。ここはまほろばの湯だ。山で命を落としたひとびとが心身を癒す湯治場だ。そこの従業員が倒れてはいられない。
「仕方ない。少々頼めるか、オコゼ」
湯守が言うと、それまであさひの肩に止まっていたオコゼが、「くるっ」と鳴いた。
「そうか、引き受けてくれるか。悪いな」
「くるるッ!」
「え、ちょ、ちょっと待ってください」
オコゼと湯守の間にあさひは割って入る。
「今、ふたりで何を話してたんですか?」
「ああ、見たじゃろ。さすがにわしひとりで風呂に誘導するのは骨が折れる。じゃから、オコゼに運んでもらうように頼んだのじゃ」
「オコゼが、運ぶ?」
首を傾げるあさひの足元に影が伸びる。視界が暗くなり、なにごとかと思ってふりむいたあさひが見たのは、最初のときのように大きく膨らんだオコゼだった。
羽衣のようにやわらかく長い尾鰭を、オコゼは床の上に長く広げる。そこへ湯守は客たちを乗せていった。客たちはおとなしく、誘導されている。
「じゃ、行ってくれ」
「くるるッ!」
オコゼはふわりと浮き上がった。そのまま客たちを落とさぬように尾鰭で包み込んだまま、露天風呂のほうへと向かって宙を泳いでいった。
「女性の方々は、内湯へご案内頼むぞ」
息つく間もなく湯守は言いおくと、湯かき棒を担いでオコゼの後を追った。
あまりのことに立ち尽くしていたあさひもさすがに我に返る。
「あっ、こ、こちらにどうぞ。お疲れでしょう、当宿自慢の湯までご案内いたします」
あさひが言うと、若い女性と初老の女性が、そのとき初めてあさひに気づいたように顔を上げた。落ちくぼんだ虚ろな眼窩が、ゆっくりとあさひに焦点を結んでゆくのがわかる。
ふたりとも、見た目はほとんど普通のひとと変わりないが、やはり肌は紙のように白く、乾いていた。
若い女性の後ろに隠れるようにして、小さな手が女性のスカートにしがみついているのにあさひが気づいたのも、このときだった。
「あれっ?」
あさひがそっとまわりこもうとすると、小さな手の主は、さっと反対側に隠れる。今度は反対側をのぞこうとすると、また反対側に隠れてしまうのだ。
「すみません。この子、ちょっと恥ずかしがりやで」
若い女性が困ったように口を開く。
見上げると、いつの間にか女性は生前の肌のつやを取り戻していた。
「ほら、優衣ちゃん。ごあいさつは?」
いつの間にか初老の女性も、そう言いながら小さな手の主に声をかける。
――もしかしてこの女性は、親子かも。するとこの小さな子はお孫さんかな。
あさひがそんなことを考えていると、優衣と呼ばれた子は、おずおずと母のロングスカートの後ろから顔を出した。
大福のようにもちもちとしたほっぺたの、かわいらしい女の子だった。
「かわいい!」
思わずあさひが声を上げると、優衣はまたびくっとしたスカートの陰に隠れてしまう。
「あら」
「おっきな声出して、ごめんね優衣ちゃん。びっくりしたよねえ」
屈んで目線の高さを合わせてあさひは謝る。
「ほらほら、優衣ちゃん。ごあいさつは?」
また母にうながされて、優衣はそろりそろりと顔を出した。
「優衣ちゃんは、いくつかな?」
少女は人差し指、中指、薬指を立てて見せた。
「そっか、みっつかあ。えらいねえ」
言いながら頭を撫でると、おどおどしていた優衣の顔に、やっとほんの少し笑顔が戻ってくる。
頭を撫でていたあさひは、どことなく違和感をおぼえた。
優衣の肌から伝わってくるぬくもりは、あさひがよく知るものだった。
*
「このご一行は、バスの事故で亡くなられた方々じゃな」
食事処に席を用意しながら、湯守は言った。
「あさひ坊も知っとるかもしれんが、去年、姫神さまの治める土地の外れの方で、事故があってなあ。五人も亡くなられたのじゃ」
あさひは思い出した。
そう言えば、ニュースで聞いたかもしれない。
岩手と宮城の県境辺りの山中でバスの事故があった。町内会の温泉旅行に向かう途中だったそうだ。あさひの住んでいる集落でも、年に一度の温泉旅行があり、ひとごとではないと思ったから覚えていた。
事故の原因は運転手の居眠りだった。亡くなった運転手も地元の男性で、前の晩、温泉に行く近所の人たちと宴会で盛り上がったらしい。そのアルコールが抜けていなかったとも、居眠りだったともいわれた。
バスはカーブを曲りきれずにガードレールを乗り越え、立ち木に激しく衝突したのだ。
「あの親子が気になるかね」
あさひはどきりとして、折りたたみのテーブルを拭いていた手を止めた。
若干ためらいながらも首を縦に振ると、湯守は小さく息を吐いた。
「実はな、わしもじゃよ」
「あの子……何だかちょっとほかのひととは感じが違うような気がするんです」
「違う?」
「はい。あのお母さんは今までのお客さんたち――けいくんとか猟師さん、ヒロミさんと似てる感じがするんです。でもあの優衣ちゃんって子、今までのお客さんの誰とも違うような気が……。うまく言えないんですが」
「ほう」
「頭を撫でたとき、あれっと思ったんです」
不思議なものでも見るように、自分の手のひらを見下ろす。
「優衣ちゃん、あったかかったんです。別にそれのどこがおかしいのかわからないけど、触った感じが、これまでここに来たほかのお客さんとは全然違ったんです。まるで、体の中でじんわり燃えているものがあって、それがきらきらしている気がしました」
「なるほど」
「ほかのお客さんは、その火がもう消えてしまっているような感じがしたんです。でも最初からそう思ったわけじゃなく、優衣ちゃんを見ていたら、違いに気づいたってことなんですが」
「ふうむ。あさひ坊も成長したのう」
あごに手を当てて、湯守は感嘆したような声を漏らした。
座布団を並べていた湯守はふいにあさひに近づいて、わしわしと頭を撫でてくる。あさひの方が、若干背が高いので、湯守が背伸びするかっこうだ。
「なっ、何ですか、急に」
顔が熱くなる。
頬を押さえて後ずさりすると、湯守はいたずらが成功した子どものように笑った。
「いや、言ったじゃろ。おまえさんもここに来たときと比べて、ずいぶんと湯守らしくなったと思ってな」
「あたしなんかまだ、全然ですよ……さっきも怖気づいちゃうし」
「いやいや。そんなことないぞ。おまえさんの言うとおりなんじゃ。今日の団体客の中にはひとりだけ、本来はここへ来てはいかんお客が混じっとるな」
「それが、あの子ってことですか?」
「そうじゃ」
「でも、ここに来るべきではないって、どういう……」
首を傾げていたあさひは、はっとした。
「もしかしてあの子、まだ生きてるってことですか?」
湯守は険しい表情で頷く。
「でも、どうして? あたしみたいに迷いこんだってことですか?」
「いや、おそらく違うな」
「じゃあ、姫神さまが呼んだのでしょうか」
「いや、たぶんそれも違う。知っとるじゃろ? ここは湯守の管轄じゃ。ここの湯は山で命を落とした者を癒し、来世へと心安らかに送り出すための湯なのじゃ」
「はい」
「そのことわりから外れた者が来るためには、姫神さまの特別のご配慮により切符をいただくか、湯守のわしが切符を発行するかの二通りの方法しかない。少なくともわしは、あの子へ切符は発行しておらん」
「それじゃ……やっぱり姫神さまが?」
「いや、その可能性も少ないじゃろうな」
湯守は腕組みして、顎に手を当てた。
「そうなんですか?」
「姫神さまは、よほどの理由がなければここと現世を行き来する切符は発行なさらぬ。わしが知る限り、姫神さまが切符を発行されたのは、たった一度きりじゃ」
「ええっ? そんなに厳しいんですか?」
「もちろんじゃ。ここは生者と死者の世界の境にある場所じゃが、ここを経った者が辿る道は一本道なのじゃ。現世から幽世へ続く、ただひとつの道じゃからな」
「それじゃなおさら、どうして?」
「それは――」
「くるるるるるぅ!」
一行の到着を告げるように、オコゼの高らかな鳴き声が響いた。
すっかり湯であたたまり、顔色もよくなった一行が、ぞろぞろと食事処にやってくる。
「おっと、こりゃいかん。食事の用意をしないとな。あさひ坊、みなさんに茶を頼む!」
再びあわただしく湯守は駆けていってしまったのだった。
団体客のために湯守が用意したのは、餅の会席料理だった。
十字の仕切りがある漆塗りの弁当箱に、小鉢に入ったひとくちサイズの餅料理が収まっており、しかも二段になっている。
最初にのどを湿らせ、胃の調子を整えるための大根おろしと、具がたっぷりの雑煮も添えられているところが心憎い。
乗客たちは、岩手と宮城の県境にある小さな町のひとびとだった。このあたりは昔から米どころとして知られ、祝いの席には餅が欠かせない。冠婚葬祭はもちろん、ちょっとしたお祝いごとでも餅をつく。それを、さまざまなたれで味わうのだ。
枝豆をつぶしてペースト状にしたものに砂糖とわずかな塩で味付けをしたものをつけて食べるずんだが東北の餅料理としては有名だが、重箱の中にはほかにもあんこ餅や納豆餅、ゴマ餅やしょうが餅、くるみ餅にエビ餅が勢ぞろいしていた。
こしあんを使ったあんこ餅や練ゴマを使ったゴマ餅は、他の地域でも食べられているが、これとずんだ餅以外は、あさひも初めて目にするものが多かった。
だがくるみ餅のたれはこの地方独特で、鬼グルミの実をペースト状になるまで擂って、砂糖と塩で味付けした濃厚なもので、クルミ豆腐を入れる家もある。
しょうが餅は、醤油ベースでしょうがの辛みをきかせた、さっぱりとした味わいだ。
納豆餅で使うのは、白飯のおともとして愛されているごく普通の納豆。それを、醤油または塩、家庭によっては砂糖と醤油、酒なども使って味つけしたものをかけるのだ。納豆のねばねばが潤滑剤になって、これが意外に食べやすい。
エビ餅で使うエビは、居酒屋でから揚げにされて出てくるようなサイズの沼エビだ。それを茹でるか、カリカリになるまでから煎りして、だし醤油で味つけしたものを餅にからめて食べる。もっともこの地方の特色が出た料理だ。
あさひの住んでいた岩手の花巻や、母の実家があって行き来していた釜石では食べられていないものも多く、あさひは隙を見ては湯守を質問責めにした。
だが客たちにとってはやはり思い出深い味だったらしい。家庭の味であり、地域の味なのだ。
みな、口々に感想を語り合いながら、しみじみと味わっていた。中には涙を流す者もいた。
事故の前、彼らは公民館に集まり、旅行に行く者も行かない者も和気藹々と餅料理を食したのだそうだ。それもあって、記憶の中に強く残っていたのだろうと湯守は小さく教えてくれた。
「ばかなこと言わないでよ!」
ふいに、金切り声と食器の割れる音が響いた。
優衣の母だった。
「みんな、こんなところでおとなしくこんなものなんか食べて、馬鹿みたい!」
「美優さん、落ち着いて。ほら、座って」
さきほどの初老の女性が、おろおろと宥めていた。
美優というのが、若い母親の名前らしい。優衣はもくもくと餅を食べていたが、母の剣幕に、驚いたように手を止めて見上げている。
「みんな、わかってるの? あたしたち、死んだのよ!? よくこんなのんびりしてられるわね」
「とにかく落ち着きなさい。いいから、座って」
座布団に戻そうと袖を引く女性の手を、美優は乱暴にふりはらう。その目の険しさに、女性はびくりと竦む。
「おかあさんはいいじゃない。それだけ長く生きてたら、もう満足でしょ?」
「そ、そんな……」
「でもあたしはまだ二十代なのよ? これからやりたいこともいっぱいあったし、行きたいところもいっぱいあったし、優衣だって……」
美優の目に、みるみるうちに涙の粒が盛り上がった。
「不公平じゃない。だいたい、バスにはもっとたくさん乗ってたのよ。うちの向かいのご夫婦も乗ってたし、家族全員が乗ってるうちもあった。お年寄りだってたくさん乗ってたじゃない。それなのに……どうしてここには全員来てないの? どうしてあたしが死ななきゃならないの?」
美優は両の拳を、白くなるほど握りしめていた。
和やかに談笑していた他の客までもが、口を噤んで俯いてしまう。
「あたしは、お義母さんがひとりじゃ寂しいだろうから、一緒に行ってくれって、義彦に頼まれただけなのに……。義彦は自分だけ仕事で生き残って……ひどい。ひどいよ。こんなのってないよ」
美優の淡いピンク色のダウンコートを着た華奢な肩が、細かく震えていた。声が涙を含んで水っぽく濁る。
「あの……こちらを」
何とか気を落ち着けてもらおうと、あさひは温かいお茶の入った湯飲みを差し出した。
義母は軽く礼を言って受け取ったが、そんなあさひを美優は立ったまま、鬼のような形相で睨みつけていた。
「あんたたちに何がわかるのよ!」
湯呑みを差し出したあさひの手ごと、美優は力いっぱい押しのけた。湯飲みの中身があさひに向かって飛び散ってくる。
「きゃっ……!」
「くるッ!」
オコゼの鋭い鳴き声が響く。
「……大丈夫かね、あさひ坊」
普段は自分よりも低い位置から聞こえるそのやさしい声が、上から降ってきたことに気が付いて、あさひは目を開けた。
湯守の白作務衣の肩のあたりは薄緑色の液体でぐっしょりと濡れ、ほかほかと湯気が立っている。
「ゆっ、湯守さん! それ、火傷っ……」
「わしなら大丈夫じゃ。騒ぎなさんな。お客さまの前じゃぞ」
あさひを庇って抱きとめていた湯守は、客たちからあさひを隠すように背を向けた。
でも、と思わず言いそうになる声を、あさひはぐっと飲みこんで頷く。
見た目はあさひよりもずっと年下なのに、まるで幼い子にするように、湯守は微笑んであさひの頭を撫でた。
「ばっかみたい。かっこつけちゃって」
吐き捨てるように美優は言った。
いつの間にかしがみつく格好になっていたあさひが、あわてて体を起こそうとするのを、湯守は黙って押し留める。
「おじょうさんや、死はいつだって突然で、理不尽なものじゃよ。死ななければならなかった者や、死んで良かった者など、ただのひとりもおらんよ」
「あんたに何がわかるのよ! ただの従業員でしょ!」
「わかるとも」
湯守の声は凪いだ水面のように静かだったが、美優はそれまでの剣幕が嘘のように、びくりと動きを止めた。
「わしも一度、死んでおるからの」
「え……」
「このまほろば温泉郷の湯守はな、客としてやってきた者から代々選ばれとるそうじゃ。じゃからわしも、おじょうさんと同じように、かつて山で命を落とした者なんじゃよ」
湯守の腕の中で、あさひは目を見張る。
そうやって湯守が引き継がれていくのだと、初めて知ったのだった。
「みんな同じなんじゃ。死はどんな者にも等しく訪れる。死は平等なんじゃよ。ほんの少し、遅いか早いかの違いじゃ」
「そんなの、あんたに言われなくたって、わかってる……わかってるけど、優衣を残してなんて行けるわけないじゃない! 優衣はあたしが連れて行くの!」
「そんなことを言ったって、優衣とあたしたちはもう、住む世界が違ってしまったんだよ?」
義母の言葉に、いったん収まりかけたかに見えた美優の中の怒りが、再び燃え上がった。
「いや! いやよ、そんなのいや! だって優衣はここにいるじゃない!」
ぽかんと見上げていた優衣を抱き上げて、部屋の隅へと後退る。
「優衣だってお母さんと一緒に行きたいわよね?」
「うん」
「ほら、優衣もそう言ってるもの! だってあたしが置いていったら、優衣はお母さんのいない子になっちゃうのよ? 家族はお父さんしかいなくて、そのお父さんも家族のことより仕事ばっかりで……だからきっと優衣、ひとりぼっちになっちゃう」
このときになって、ようやくあさひは気が付いた。
生きている優衣を、このまほろば温泉郷に連れてきてしまったのは、あの母親なのだ。もはや執念とも呼べる域に達した、母親の強い愛情なのだ。
母親の気持ちは痛いほどにわかった。あんな小さい子を残し、若くして逝かねばならないのは、どれほど辛いことだろう。自分が母親だったら、またあの子だったらと思っただけで、身を切られるような痛みを感じた。
だけど――――
あさひは唇を噛みしめた。
「そんなの、間違ってます!」
「……は?」
「優衣ちゃんの命は、優衣ちゃんの人生は、優衣ちゃん自身のものです! お母さんが決めていいものじゃありません!」
「何を偉そうに……何もわかってないくせに」
「わかります。少なくとも、お母さんを亡くした子の気持ちはわかります。……あたしも、小さいときに母を事故で亡くしたから」
何かを言いかけたままの表情で、美優は固まった。
「お母さんの運転する車に乗っているときに事故に遭って、潰れた車の中で、お母さんはあたしを庇うようにして亡くなっていました。あたしは実のお父さんを知りません。あたしがまだ赤ちゃんのときに、離婚したそうです。あたしが優衣ちゃんくらいのときに、あたしを連れて、お母さんは再婚しました」
咽喉の奥から、ぐいぐいと熱い塊がせり上がってきて、痛い。
だけどその塊をぐっと飲みこんで、あさひは続けた。
「新しいお父さんは、普通の会社員で、おじいちゃんとおばあちゃんがいました。血は繋がっていませんでしたが、みんなあたしを、本当の家族として迎え入れてくれました。事故が起こったのは、それから数年後のことでした」
「くるる……」
そう弱々しく鳴いて、オコゼがあさひの手の甲にすり寄ってくる。
オコゼの大きな金色の目に映る自分の顔に、あさひは苦笑した。鼻の頭は真っ赤だし、目も充血している。
ごしごしと鼻を擦って、あさひは美優に向き直った。
「あたしは生き残りましたが、お母さんと一緒に連れていってほしかったと思うことが一度もなかったかというと、そんなことはありません。それどころか、どうして置いて行ったのと、心の中で何度もお母さんを責めました」
美優は口を横一文字に引き結び、睨みつけるような強さであさひを見ていた。
「あたしが住んでいたのは、田舎の小さい町でした。だから、連れ子であるあたしは、転校してからずっとクラスでもみんなから何となく遠巻きに見られ、地域でも浮いていました。それでも何とかやって来られたのは、大好きなおじいちゃんたちや、友だちがいてくれたからです」
鼻をすすって、大きく息を吸った。
言葉が、想いが、あふれてきて止まらない。
あさひは美優に呼びかけながらも、心のどこかで自分に言い聞かせているような気分になってきていた。
「大切なひとがある日突然いなくなるってことは、すごく辛いことです。でも、もし、支えてくれるひとがひとりでもいたら、生きていけるんです。それは、血がつながった家族でも、そうじゃなくても、いいんです。誰かが笑いかけてくれたら、大好きだよって言ってくれたら、生きていけるんです」
子猫のように咽喉を鳴らして頭を擦りつけてくるオコゼを、あさひは人差し指の先でやさしく撫でる。
湯守は何も言わず、ただ微笑んで、あさひを見つめていた。
「あたしは今、お母さんが助けてくれてよかったって、思っています。優衣ちゃんも、きっとそうです。優衣ちゃんは、この先、辛い思いも、悲しい思いもするでしょう。周りはやさしいひとばかりじゃないかもしれない。お父さんも時には忙しくて、機嫌が悪くなったりもするでしょう。だけど――」
さっきはうまく飲み下せた熱い塊が、またせり上がってくる。
今度はさっきよりも大きすぎて、飲みこむのを失敗した。
目尻を伝って、あふれ出す。声が震えた。
「だ、だけど、生きていたらたくさんのひとに出会って、いろんなものを味わって、夢を見ることもできます。誰かを好きになることだって……そういうものを、どうか優衣ちゃんから奪わないでください。お願いします」
母親は何も言わず、娘を抱きしめたまま、唇を引き結んでいた。
その白い頬を、ぽつりとひとすじの涙が伝う。
「……わかってるわよ。そんなこと」
「美優さん……」
「そんなの、あんたに言われなくたって、わかってたわよ!」
金切り声で叫ぶ母に驚いて、優衣の顔がみるみるうちに歪む。次の瞬間には、堰を切ったように泣き出していた。
「う、う、うわああああん」
「うえええ……」
ついには親子で泣き出してしまう。
思わず立ち上がりかけたが、さっと動いたのは義母だった。
若い母娘を両手で包みこむように、ぎゅっと抱きしめる。美優はその背中にしがみついて、声を上げて泣いた。
どうなることかと成り行きを見守っていた一同も、ほっとしたように顔を見合わせて笑う。そんなひとびとの前に、湯守は新しい茶を淹れてまわっていた。
ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻したのか、三人が体を離して涙を拭っているところに、オコゼがふわふわと近づいていく。
「くっ、くるるっ?」
おそらくオコゼなりの精いっぱいなのだろうが、小鳥のように可愛らしく鳴いて、尾鰭をひらひらさせた。優衣は目を輝かせる。
「わあ、かわいい!」
「くるるぅ~」
ぎゅっと手加減なしに抱きしめられて、オコゼは目を見開いて暴れた。
ちょっとかわいそうとは思いつつ、あさひはぷっと吹き出してしまう。そこに湯守が近づいていった。
畳の上にぺたんと座る優衣の前に、目線を合わせて屈む。
「さて、小さなおじょうさんにはいいものをあげようかね。手を出してごらん」
「?」
言われるままに差し出された小さな手のひらに、湯守は湯かき棒の先端をかざした。
湯守が棒をくるりと回転させると、空気が渦を巻くのがわかる。ほんの一瞬ののちに、そこにはきらきらと淡く輝く小さな切符が乗せられていた。
「わあ、しゅごーい」
「じゃろう? わしは実は魔法使いなんじゃ。それは特別な切符じゃよ」
湯守はいたずらっぽく片目をつぶってみせる。
そして湯かき棒を垂直に構え、とん、と鋭く床を突いた。
一瞬の間の後、プワーン……と聞き覚えのある警笛の音が響いてくる。食事処の窓の外からだった。
あさひは駆け寄って、ガラス窓を開ける。
濃密な霧の向こうに、一対のまばゆいヘッドランプが見えた。
それはあっという間に近づき、まるで真冬のホームに立っているかのような強い風と雪を伴って、あさひの前を駆け抜ける。
プシュウウ……と空気音をさせて、窓の数メートル先の前庭に、列車は止まった。行き先表示には「現世ゆき」と書かれている。
「うそ……」
あさひが息を飲んだとき、もう一度警笛が響く。
今度はさきほどとは逆方向から、もう一台の列車が霧の上を走って滑りこんでくる。そちらには「幽世ゆき」と表示がされていた。
二台の列車は、食事処の前庭に、わずかな距離を空けて向かい合うようにして止まった。
「ママ! 見て見て、でんしゃだよ!」
窓から身を乗り出してはしゃいでいた優衣は、後ろにいるであろう母に話しかけようとしてふりむく。
だがそのとき、もうそこに母の姿はなかった。もちろん、祖母の姿も。
食事処はがらんとして、湯守とあさひ、オコゼの他には誰もいなくなっていた。
「ママ……?」
せっかく泣きやんでいたその顔が、またくしゃりと涙に歪む。
「ママ、ママ、どこ? ママー?」
泣きじゃくる優衣を抱え上げ、湯守は窓の外を指さした。
「ほら、ママはあそこじゃよ」
指さす先、幽世ゆきの列車の中に、美優はいた。彼女だけではなく、さきほどまでここにいたひとびと、すべてが。
『お待たせいたしました。幽世ゆき列車、発車いたします。どなたさまも、閉まる扉にお気をつけください』
アナウンスとともに、扉が閉じる。
「元気でね、優衣」
「ママ!?」
数メートルも離れていてしかも列車の窓越しだというのに、美優の言葉は、まるですぐ傍で話しているように届いた。
「ママはいつも、あなたを見守っているから。幸せになってね」
「やだ、おいてかないで、ママ、ママー!」
列車はゆっくりと動き出す。
湯守は部屋の角のガラス戸から、優衣を抱いて外に出る。湯守が下ろしてやると、優衣は泣きじゃくりながら、母の元へと駆け寄った。
あふれる涙を拭おうともせず、美優は窓に両手をつけて顔を寄せる。涙で窓が曇った。
「ママ、ママー! ひゃんっ!」
雪で滑って優衣は転ぶ。けれど列車は止まることなく、間もなく霧の彼方へと去っていった。一度だけ、警笛の音を響かせて。
冷たい雪の中に座りこんだまま、えぐえぐとしゃくりあげる幼い少女を湯守はまたそっと抱き上げる。幸い、雪のおかげで怪我はしていないようだ。
膝や服についた雪を払い落としてやりながら、湯守は穏やかな声で語りかける。
「その切符はな、実はどこまででも行ける特別な切符なんじゃ」
さきほどの切符は、優衣の手の中でくしゃくしゃに握りしめられていた。
「……どこまで、も?」
真っ赤な目で見上げる少女に、湯守はにこりと笑って頷く。
「そうじゃよ。覚えておいで。これから先、おまえさんは行きたいと思ったどんなところにだって行ける。どんなことだってできる。おまえさんが本気で願ったら、どんな夢だって叶えられる、魔法の切符なんじゃ。それが生きてるってことなんじゃよ」
そんなふたりの後ろ姿を、あさひは黙って見つめていた。
「さ、次はおまえさんの晩じゃな」
優衣は涙でぐしょぐしょの顔のまま、意味がわからないというように小さく首を傾げる。そこに、若い男性の声が飛び込んできた。
「優衣!」
雪の上に停車していたもう一台の列車のドアから、ひとりの若い男性が身を乗り出していた。優衣の顔が、ぱっと明るくなる。
「あっ、パパだ!」
「優衣!」
優衣は父親に向かって手を伸ばす。湯守が下ろすと、優衣は父に向かってまっすぐに駆けていった。
父もドアから飛び出し、飛びこんできた娘を抱きとめた。
「優衣、優衣、優衣!」
「くるしいよう、パパぁ」
「おっ、ごめんな。あははは。ごめんなあ」
男性の頬をあたたかな涙が伝う。
「えっ?」
そんなふたりに、あさひは目を丸くしていた。
「あれ、優衣ちゃんの、お父さん?」
「そうじゃ」
「えっ、え? ちょっと待ってください。頭が混乱中で」
頭を抱えるあさひを、湯守はこともなげに笑う。
「何じゃ、別に不思議はなかろう? あの電車に乗る切符があればいいだけの話じゃ」
「……もしかして」
頭を抱えていた手をそろそろと離しながら、あさひは隣の少年を見下ろした。
「お父さんにも、切符を発行したんですか?」
プワーン、と警笛が鳴る。
『お待たせいたしました。現世ゆき列車、発車いたします。どなたさまも――』
プシューという空気音とともに、ドアが閉まる。
娘を抱きしめた若い父親は、湯守に気づいて、軽く頭を下げる。
湯守は応えて、小さく手を振った。
父娘を乗せた列車は、さきほど母たちを運び去った列車とは逆の方へ向かい、やはり霧の中へ去ってゆくのだった。
*
――どうしてあのとき、自分は強引にでもあの列車に飛び乗らなかったのだろう。
厨房の流し場で、食器の泡を洗い流す水の音を聞きながら、あさひはぼんやりとを考えていた。
体が動かなかった。
もちろん、『切符がないのに無理やりあの電車に乗ろうとしたら、世にも恐ろしいことになる』と言って笑っていた売店のオババの言葉が頭にあったのは事実だ。
それに、この温泉宿での生活が長くなるにつれて、すっかり従業員としての自分に違和感がなくなってきていたというせいもある。
けれど、それだけではなかった。
切符を手にして、父の元へと駆け寄る少女。愛娘を迎えに来た父親。
そんなふたりを前に、足が動かなかったのだ。
あさひは家でも地域でも、居場所がなかった。いつもどこか緊張し、周囲に気を遣って過ごしていた。
この温泉郷にやって来た当初もそれは同じだったが、いつしか、ここでの生活を心地よく感じ始めていたことは否めない。ここでは、とても自然に息ができる。
そのことに、否応なしに気づかされたのが、さきほどの優衣たちの姿だった。
あれほど偉そうに美優に語っておきながら、肝心の自分自身は現実から逃げている。いつまでも、この霧に包まれた宿に留まりたいと思い始めてしまっていた。
オコゼは湯飲み茶碗の湯船で、気持ちよさそうに入浴している。茹だってしまわないかと心配したが、熱めの湯の方が好みらしい。
湯守は洗い終わった食器をきれいな手ぬぐいで拭いては、棚へきちんと収めている。すっと伸びた細身の体の動きには無駄がなく、まったくいつもと変わらない。
その背中を見つめていると、いっそ憎らしくなってくる。
今は忙しいから切符は発行できないと言って、あさひをここで働かせたくせに。お客さまにはあれほど易々と発行してあげるなんて、ちょっとおかしいのではないか。
どうしてお客さまにはできて、あさひにはできないのか。
もしかしたら、何か理由があるのか。
だったらそれを言ってくれてもいいのではないか。
言えない事情があるのならともかく。あさひがもやもやしていることには気づいているだろうに。
――まるで、あさひが自ら答えにたどり着くのを、待っているかのように。
「ふう、これで終わりじゃな」
やがてすべての片づけも終わり、湯守はうーんと腰をそらせて息を吐いた。
「あさひ坊、わしらもちょっと休憩に入……」
言いながらふりむいた湯守の目の前に、両手を構えたあさひがにじり寄っていた。
「ど、どうしたんじゃ? 怖い顔をして」
「湯守さん、ちょっとそれ、脱いでください」
「は?」
面食らったように湯守は目を瞬く。
「いいから、それ、脱いでくださいって言ってるんです」
あさひは湯守の白作務衣に手をかける。言葉どおり脱がしにかかるあさひの迫力に気圧されて、湯守はたじろぐ。
「あさひ坊? いったいどうしたんじゃ?」
「いいから、言うとおりにしてください!」
「うわあああ!」
あさひに作務衣を引き剥がされて、それまで聞いたことがないような情けない悲鳴が湯守の口から漏れるのだった。
「まったく、赤くなってるじゃないですか」
踏み台に座らせた湯守の肩を見て、あさひは顔をしかめた。困ったように湯守は鼻を鳴らす。
「これくらい、明日には治っとるよ」
「いいから、ほら、薬塗りますよ」
冷たい水で食器洗いをしていた手でぴしゃりと肩を叩かれて、少年はひっと短く悲鳴を上げる。
そこは、美優があさひの湯飲みを持った手をはらいのけたとき、彼女をかばって熱い茶がかかった場所だった。湯守は平気だと言い、実際気にするそぶりも見せなかったのだが、作務衣の下の肌は赤く熱をはらんでいる。
蛤の貝殻に入った軟膏を塗るあさひの横で、オコゼは薬箱の中身をふんふんと興味深そうに探っている。
ふだん、この薬箱は厨房の棚の隅に置いてある。中には、あさひが見たことも聞いたこともない、また嗅いだこともない匂いを発する怪しい薬の瓶やら箱やらが、包帯や油紙に混じって詰め込まれていた。
貝殻からもうひとすくい、軟膏を指先に取り、赤くなった箇所にまんべんなく塗り広げる。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
「湯守の切符のことかね」
ぐ、とあさひは言葉に詰まる。
「さすがですね。何でもわかっちゃうんですね」
「そんなことはなかろ。いくら湯守とて、手に取るようにわかるのは湯の調子くらいのものじゃよ」
湯守はふっと、笑うように息を吐いた。
「もし、ひとの心も簡単にわかったなら、楽なんじゃがな」
立ったままのあさひを、湯守は肩越しに見上げる。そのまなざしがどこか悲しそうで、あさひは唇をわずかに噛んだ。
「……それは、自分のことを言ってますか?」
「うん?」
「湯守さんは、姫神さまからこの温泉郷を預かっているんですよね」
軟膏を塗るためにはだけていた白作務衣を直してやりながら、あさひはひとりごとのような口調で呟く。
そのまま、湯守の首の付け根あたりをぐいぐいと親指で指圧した。
思ったよりも硬い。あさひがこのくらいの歳のときには、この世に肩こりなるものが存在することなんで信じられないくらいだったのに。
「そうじゃよ。おお、こりゃ気持ちええわい」
年寄りくさい口調でしみじみと目を閉じる少年に、ついぷっと吹きだしてしまう。
「湯守さん、おじいちゃんみたい」
「こう見えて、わしは結構年を食っとるんじゃよ。おお、そこそこ。そこがええのう」
湯守は心底気持ちよさそうに言いながら、凝ったところが指に当たるように首を回してくる。撫でてほしい箇所を自ら調節して差し出してくる猫のよう。ごろごろと咽喉を鳴らしそうな勢いだ。
「湯守さん、さっき言ってましたよね。湯守は、山で亡くなってこの温泉に来たひとの中から選ばれる、って」
「そうじゃな」
「実は、あたしのおじいちゃんも、山で亡くなったんです」
「おお、そうじゃったのか」
「とはいっても、おじいちゃんが亡くなったのは、うちの敷地の中なんですけどね」
「ほう」
湯守の体が、わずかにこわばったのがわかる。
「あたしのうちは、山の斜面を切り拓いてできた集落の中にあるんです。だから、ある意味では山の中ですよね」
あさひは湯守が好きな場所をぎゅっぎゅっと揉みながら続けた。
「その日は、おじいちゃん、風邪引いて体調崩してるのに無理して雪かきしてたらしいんです。夕方近く、庭の雪の中に倒れてるところを、回覧板を持ってきた近所のひとが見つけて救急車を呼んでくれたんですが、もう手遅れで……」
あさひはぐす、と小さく洟をすすった。
「その日、あたしとお父さんは仕事、おばあちゃんはデイサービスに出かけてて、家には誰もいなかったんです。せめて誰かがいたら、もっと早くにおじいちゃんは見つかったかもしれないのに」
「……それは、大変じゃったな」
気持ちよさそうに目を閉じていたオコゼが瞼を開ける。金色の目をぱちぱち瞬くと、ふわりと浮いた。尾鰭についた水滴をふるると身を振って払い落とし、あさひの肩に小鳥のように乗る。
「誰も口には出さなかったけど、家族みんながみんな、心の中で自分のことを責めてたと思います。家族が本格的におかしくなってきたのは、それからです」
「不幸な事故じゃったんじゃ。誰も自分を責めることはなかろう?」
肩越しに湯守が見上げてくる。
手を湯守の両肩に乗せたまま、あさひは首を横に振った。ひっつめに結んだ毛先が揺れて、乾いた感触が頬を打つ。
「少なくともあたしは、おじいちゃんがすごく体調悪そうなことに気づいてました。おじいちゃんは頑固なところがあるから、家族が言ったって病院に行きそうもないことも知っていましたし。だからその日一日くらい、仕事を休んだってかまわなかったんです」
「そんなふうに言うでないよ。人間なぞ、いなくなってしまう時は、実に呆気なくいなくなってしまうもんじゃ。ここの客たちを見て、わかったじゃろ?」
あさひは思い出す。
まだ小さかったけいくん、猟師の男性、登山が趣味のヒロミに、地元の慰安旅行で事故にあった美優……みんな、自分がこうなるなんて、露ほども思っていなかったに違いない。もしこうなるとわかっていたら皆、違った生き方を選べたのだろうか。こうならない生き方を、探せたのだろうか。
それは誰にも――もちろんあさひにもわからない。
湯守の言うとおりだ。
だからこそ、あさひは後悔しない生き方がしたいと思ったのだ。なにも大げさなことじゃなく、毎日毎日を、ただ一瞬一瞬を精いっぱい生きる。自分の心の中の声を無視せずに生きようと思ったのだ。だから……。
湯守は肩に乗せられたあさひの手に、自らの手を重ねた。
少年の見た目にはどこかそぐわない、乾いていてやわらかく、あたたかい手。
「あさひ坊のじいさまがそうなったのは、誰のせいでもない。しいていうなら、そのじいさまの不注意だったのさ。ましてやあさひ坊、おまえさんが気に病むことはなんにもないんじゃよ?」
あさひはこみあげてきたものをぐっと飲み下した。
「本当にそう思う? ……おじいちゃん」
重ねた手から、隠しきれない動揺が伝わってくる。
そんな湯守を、あさひは涙のにじんだ目で見下ろしていた。
「やっぱり、おじいちゃんだったんだね」