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第三話 登るひとびと


 なつかしい曲が聞こえたような気がして、あさひは目を覚ました。


 けれど空耳だったのか、オコゼのかすかな風のような寝息以外には、何も聞こえない。

 この宿には湯守と自分のほかは、誰もいないはずだ。あさひが膳を下げに行ったときには、あの猟師と老人の姿は煙のように消えていた。

 障子を通して射しこむ光はまだ弱い。

 起床の鐘が打ち鳴らされるまでには、まだ少し猶予がありそうだった。


 枕元では、オコゼが自らの尾鰭にくるまって、猫のように丸くなっている。

 乱れた髪を直しながら、あさひは布団から抜け出した。

 そっと障子を開けてみる。ガラス窓の向こうはやはり、濃厚な霧に包まれていた。今日は風がないのか、霧の幕に切れ間は見えない。

 霧は薄い藍色に染まっていた。

 青みを帯びたその霧に、記憶の中の風景が呼び起こされる。

 あの日もこんな霧に、山も街もがすっぽりと包まれていた。


 母はあさひを助手席に乗せ、実家のある釜石から自宅のある花巻へと抜ける山道を走っていた。実家で魚介類をもらった後、家に帰る途中だった。

 本格的な冬を目前に控えた時期で、まだそれほど遅い時間ではなかったが、陽は西へ傾き始めており、霧に包まれた山道は青っぽく沈んでいた。

 あさひはぼんやり外を眺めていた。霧で見通しがきかないせいもあり、山道の景色はゆけどもゆけども単調でつまらなかった。

 だがそんな霧の中を、何か白いものがちらりと駆け抜けたように見えた。

 霧と同じ色をしていたせいでよくわからなかったため、あさひはおでこを窓ガラスにくっつけるようにして目をこらす。


「どうかしたの?」


 目線は前方に向けたまま、ちらちらとあさひの方を気にして母が尋ねる。


「今ね、何か、見え――」


 あさひが言いかけたときだった。

 身が竦むようなブレーキの音が響く。


 振り回される車の中で、白く大きな生き物が、アスファルトの路面を横切っていくのが、あさひには見えた――ような気がした。

 次に気がついたとき、あさひは母の腕にきつく抱かれていた。

 フロントガラスは粉々に砕け、車は腹側を上にするような形でひっくり返っている。すっかり葉を落とした太い木の枝が、窓を突き破って車の中にまで侵入してきていた。かびくさいような、湿った土のにおいがしていた。


 助手席側は奇跡的にあさひひとり分の空間は残っていた。

 しかし、ぎし……ぎし……と絶え間なく、車体のそこかしこから軋むような音が聞こえてくる。

 体のあちこちが痛んだが、動かせないほどではなかった。ただ、どんどん冷たくなっていく母の体温が、ひどく恐ろしかった。


 あさひが吐く息だけが白く、頼りない雲のように薄く浮かんでは、消える。

 かすんでいた視界がゆっくりと明瞭さを取り戻していくにつれて、あさひは気がついた。破れた窓の外、青みを帯びた霧の中を、ゆらりゆらりと揺れながら、青い炎が一列になって進んでゆくのだ。


 もしかして、誰かが助けに来てくれたのかも。

 咄嗟に、あさひはそんな希望を抱いた。

 しかし、その後の記憶は、ふっつりと、何かに断ち切られたように途切れている。 

 冷たくなっていく母の体温とは逆に、何かあったかいものがふわりと頬を撫でたような気もしたが、次に目が覚めたのは病院のベッドだった。



     *



「きゃっ」


 宿の玄関先を掃き清めていたあさひはつい反射的に悲鳴を上げてしまった後、我にかえって青ざめた。


「あっ、も、申し訳ございません!」

「……」 


 客は女性だった。

 うろたえるあさひの顔を見ても、顔色ひとつ変えず――いや、その女性の顔に浮かんでいたのは、既に顔色と呼べるようなものではなかった。

 肌は紙のように白く、乾いて、ひびわれている。

 ショートカットの茶色の髪からのぞく額は、白い骨が見えるほどぱっくりと裂けていた。そこから流れる血が顔の半分以上を覆っており、着衣の肩口まで染めている。

 オコゼは「くぅ!」と短く悲鳴を上げると、さっとあさひの背中に隠れた。


「こちらへどうぞ。当宿自慢の露天風呂へご案内いたします」


 帳場で帳簿の整理をしていたはずの湯守が、いつの間にか上がり框の上に立っていた。肩には、いつもと同じく白木の湯かき棒を肩にかけている。

 女性は緩慢な動きで、上がり框に足をかける。


 その足元は、裸足だった。

 傷つき、ひび割れて、朽木のようになり果てていたその肌が、一歩、また一歩と進むにつれて、徐々に潤いを取り戻していく。

 磨き抜かれた板張りの廊下を、湯守に続いてゆっくりと歩いていくその後ろ姿は、徐々に若い女性のものとなった。




「あーっ、さっぱりしたあ」


 スリッパをつっかけ、タオルを頭に巻いて飛び出してきた女性は、浴衣ではなく、来るときに来ていた着衣そのままのスポーツブランドのトレーナーにパンツという出で立ちだった。上着は小脇に抱えている。


「あっ、さっきのお姉さん! さっきはびっくりさせちゃってごめんね」


 お詫びをしようと廊下で待っていたあさひを見るなり、女性は大股に近寄ってくる。

 それまでふわふわとあさひの肩の周りを泳いでいたオコゼは、ささっとあさひの髪の中に隠れた。


「いっ、いえ、こちらこそ、お客さまに失礼を……」

「そりゃあびっくりもするよねえ。だーってあたし自身もびっくりしてるもん。ミイラってこういうことなんだなあ、って自分でもしみじみするくらいにカッピカピだったもんね。カビすら生えそうにないっていうか」


 女性はタオルを外して髪を手串で直しながら、からからと豪快に笑った。


「は、はあ……」

「あたしね、ヒロミっていうんだ。お客さまなんて呼ばれるの、何だかかしこまっててくすぐったいから、ヒロミって呼んでよ」

「えっ? あっ、じゃあ、あたしも、名前でいいです。あたし、あさひっていいます」

「ねえねえ、あさひちゃんは歳いくつ? あたし、二十七」

「二十二です」

「きゃー、若いなあ!」


 これまでの湯治客に比べて、あまりのテンションの違いに、つい頬が引きつる。

 さきほどまでの凄まじい形相からはうって変わって、まさに生まれ変わりでもしたかのように別人だ。

いくらここの湯が山で命を落としたひとを癒すものとはいえ、ちょっと効力あり過ぎではないだろうか。


「あたし、大学のとき、ワンダーフォーゲル部でね。仲間とあっちこっちの山に登ってたんだ」

「わあ、すごいですね」

「でも就職してからは、あたしもその頃の友達も忙しくなっちゃって、すっかり山とはご無沙汰してたの。でもさ、ふと思い立って、高尾山に行ったんだ。そしたらすごく気持ちがよくってさあ」

「高尾山ですか、わたしも行ってみたいです」


 板張りの長い廊下を歩きながらも、ヒロミのおしゃべりは止まらない。あさひは先立って歩きながら、時折ふりかえっては相槌を打つ。

 湯守は彼女を食事処ではなく、休憩処に案内するように申し付けていた。宿の玄関脇から少し奥に入ったところには、こたつが備え付けられた休憩処があるのだ。

 その湯守は言うなり、厨房へと引っこんでいった。


「でね、また山に登りたいなあ、って思ったらいてもたってもいられなくなって、新しく装備そろえて、ひとりで登山始めたんだ。そうしたらもう、気分爽快で。朝早く出て、しかもわざと平日に休みをとってね。前にも後ろにもだあれもいない山道を、ぼんやり歩いてると、ほんとに頭ん中、からっぽになんのよ。なあんにも気にしないでいいの」

「それは、気持ちよさそうですね」

「うん、気持ちいいよ。あさひちゃんは登山とかアウトドア、するの?」

「いえ、わたしはインドア派なので……あっでもわたしの祖父は猟師だったので、いつも秋から冬の時期には山の中を駆け回ってましたよ」

「へえ、ハンターかあ。かっこいいね」


 そんな話をしていると、板壁に留められた白い陶板の注意書きが見えてきた。


  こちらはご休憩処です

  どなたさまもどうぞ おくつろぎください



 廊下の一角が一段高くなっており、畳が敷かれた上に、さらに赤い毛氈が敷かれていた。

 そこに、赤い格子柄の布団を掛けられたこたつが据え付けられている。こたつの傍には火鉢も置かれ、五徳に掛けられた鉄瓶からは、しゅんしゅんと湯気が上がっていた。


「着いた着いたー」


 ヒロミは子どものような足取りで、ぴょんと毛氈の上に飛び乗った。布団をめくって中に下半身を滑りこませる。


「あー、あったかーい」

「寒くはありませんか」


 毛氈の端にあさひが膝をつくと、膝を抱えて布団に顔を沈め、幸せそうにヒロミは言った。


「ぜーんぜん。外の方がずっと寒かったから。あっ、みかんだ」

 

  ご自由に お召し上がりください


 そう書かれた小さな白い短冊が、つやつやとして張りのあるみかんが山と盛られた籠に挿してある。ヒロミは言いながら、早くもひとつめを剥いて、一房を口に放り込んでいた。


「おこたでみかんなんて、久しぶりだなあ。うん、甘い」

「そうですか。それはよかったです」

「あさひちゃんもどお?」

「いえわたしは。仕事中ですし」

「もう、マジメだなあ。いいから付き合ってよ。あんまりお客いないんでしょ?」


 ヒロミは無邪気にあさひの着ている白作務衣の袖を引っ張ってくる。

 仕方なしにあさひもこたつの端に正座した。

 そんなあさひの手に、ヒロミはひときわ大きなみかんをひとつ、のせた。


「はい。あさひちゃんのぶん」


 ひんやりとしたみかんの、思いのほかの重みに、あさひは小さく目を見開く。

 みかんって、こんなずっしりしてたかな。

 そう言えば、もうずっと、みかんなんて食べてない。昔はうちでも毎年箱でみかんを買ってたけど、家族がひとりずつ減ってって……いつから箱みかんを買わなくなったんだろう。

 そもそも、誰が買ってたのかな。おじいちゃんか、お母さんか。お母さんがいなくなってから、箱みかんってうちにあったっけ。

 そんなことを思い出しながら、あさひはみかんのおしりの方から親指をぐっと挿し入れた。


「じゃあ、いただきます」


 半分に割って、皮を剥く。オコゼが興味深そうに近寄ってきて、皮のにおいをすんすんと嗅いでいた。

それを見ていたヒロミが、頬杖をついて感慨深そうに呟く。


「あさひちゃんって、半分にする派なんだ。みかんの剥き方とか食べ方って、結構個性が出るよね。白い筋を全部取らないと食べれない人とか」

「そうですね。うちでは祖父母がみかんを焼いて食べてましたよ」

「えーっ? みかんを焼くの?」

「はい。石油ストーブの上に乗せて、皮だけ黒くなるまで焼いてました。甘くなるんだとか」

「ふうん。でも、そうするとみかんが温まっちゃわない?」

「温まりますねえ」

「普通に食べるより甘かった?」


 あさひは肩を竦める。


「あんまり違いがわかりませんでした」

「なあに、それー」


 ヒロミはきゃははっと声を上げて笑った。


「あたしね、出世とかどうでもいいし、寿退社にも専業主婦にも興味ないし、気楽に一生平社員するつもりで選んだ会社に就職したんだけどさ……」


 天板の上のみかんの皮の山がうず高くなる頃、こたつ布団に顔を埋めて、ヒロミはもぐもぐと語り始めた。

 なぜかオコゼはみかんの実よりも皮が気に入ったらしく、積まれた皮の端をさっきからガジガジと齧っている。


「あたし、なんだか妙に偉い人やクライアントに好かれるみたいでさ。で、また同僚の男がさ、普段はしれっとしてるくせに、言ってくんのよ、飲み会とかで。『おまえ、世渡り上手いよな。おれにもそのコツ、教えてくれよ』なあんてさ」

「ホントですか? いやな言い方ですね」

「まったくもってそうなのよ。でもその偉い人もさ、毎週のように飲みに行こう行こうってうるさくって。さすがに多いから最近は断ってたら、あたしの直属の上司に頼んだらしくて、『ヒロミくん、専務が飲みに行こうって言ってるぞ』ときたよ。もう、男ってほんとうざい」

「そういうのって、断りにくくて困りますよね」

「でしょー? めんどくさいよね。でも、うざいのが男連中だけならまだしもなんだけどさあ。お母さんも孫のことを考えたら三十前には結婚しろってうるさいし。あさひちゃんのとこはどう?」


 あさひは口ごもった。

 ヒロミは怪訝そうな目線を向ける。


「うちの母は、もうだいぶ前に亡くなったので……」

「あっ、あー、そっか」


 ヒロミはぼりぼりと頭を掻いた。


「あたしってホントがさつで大ざっぱだから、ごめんね。あーあ、こんなんばっかりだから、友だちまでなくすんだよねえ」

「いえそんなこと、気にしないでください。小学生のときのことですし」

「でもね、去年、大学時代の女友だちと飲んでたときに言われたんだ。『ヒロミってデリカシーないよねえ』って。何それって思ったけど、お酒が入ってる席でのことだし、実際そうだと思ったから、反論しなかった」


 ヒロミはまたひとつ、みかんを手に取る。


「でもさ、その子、自分で選んで専業主婦になったのに、『ヒロミはバリキャリでかっこいいなあ。あたしなんて一日中育児に追われて、時間もお金もないよ』なんて言うから、あたし言ったの。『別に今からだって働いたらいいじゃん』って。そしたら、そう言われたんだ。で、気まずくなって別れて、それっきり」


 皮を剥き、白い筋もひとつずつ丁寧に取る。

 そこから外した一房をしばらく眺めた後、口に放り込んだ。


「そのときはわかんなかった。でも今だったら、何となくわかるんだ。小さい子がいたら、それだけで大変だよね。睡眠不足にもなるし、目を離せないし」


 また房を外し、眺めては、口に入れる。


「後で別の友だちに聞いたんだけど、その子ね、あたしと会うために、わざわざ電車で一時間くらいかかる実家のお母さんに子どもを預けてから、来てくれてたんだって。そういうことまで、あの頃のあたしは想像できなかったから」


 あさひは相槌も打てなかった。


 あさひが花巻で勤めていた温泉旅館の同僚も、子どもが出来て仕事を辞めていった者はたくさんいた。逆に、子どもが大きくなって復帰してきた同僚もたくさんいた。

 あさひ自身はまだ独身だから、本当の意味での彼女たちの気持ちはわからない。ときどきは彼女たちを羨ましく感じ、ときどきは同情した。

 そんなとき、思い出すのはいつも母のことだった。

 幼いあさひを抱えて父と再婚した母。どうしてシングルマザーになったのか、その理由をあさひは知らない。

 知る前に母はあさひを置いて逝ってしまった。残された父にも、訊けなかった。それは、あさひの実の父のことを訊ねることになるから。


 母にとって、自分の存在は重荷ではなかったか。

 父にとって、自分はいらない存在だったのではないか。

 この子さえいなければ、と思ったことはなかったか。

 

 そのもやもやした気持ちは幼い頃から――母を亡くし、大人になっても――常にあさひの心に引っかかっていた。

 そんなあさひの気持ちに、おそらくはもっとも寄り添ってくれたのが、祖父だった。

 祖父は自宅の一角に小屋を建てて、狩猟用の道具をしまっておいた。そこはまた祖父の別荘でもあり、あさひはこの小屋に入り浸っていた。


「あたしも、ハーモニカ吹いてみたい」


 祖父の首に抱きついてそう言ったことに、深い意味はなかった。子どもによくある、単なる思いつきの範疇だった。


「おお、そうか? どうれ、どの曲がいいかのう」


 作業服のポケットからハーモニカを取り出す祖父に、あさひははしゃいで足をじたばたさせながら言った。


「あれがいい! あれ!」

「あれじゃわからんよ」

「いつも、最初に吹くやつ!」

「じゃあ、これかな?」


 祖父がハーモニカを唇に当てる。

 そこから風のように流れ出てきた旋律は、「ふるさと」の曲だった。


「うん! それ!」


 あさひは嬉しくてぴょんぴょん跳ねる。

 祖父は目を細めて、あさひにハーモニカの演奏を教えてくれた。

 もちろん一度で習得はできなかったが、折に触れ根気よく指導してくれた。だけど才能がなかったのか、どんなに頑張ってもあさひが吹けるようになったのは、結局「ふるさと」だけだった。

 そのハーモニカも、祖父が亡くなったとき、棺に一緒に入れて荼毘に付したのだ。


「なんだかもう、そういうのに疲れちゃってさあ」


 腕を伸ばしてストレッチしながらそう言ったヒロミの声で、あさひは物思いの淵から引き戻された。


「かといって通勤電車に飛び込みたいわけでもないし」


 物騒なことを口にしつつ、きゃははっと無邪気に笑う。


「ひとりでもくもくと山に登るのが、ちょうど頭からっぽになってよかったわけ。だれとも話さないで済むしね。あ、そうだ。さっき湯守のお兄さんに聞いたんだけど、ここってさ、山で死んだ人が癒されに来るところなんだって?」

「はい」


 あさひが即答すると、それまで明るかったヒロミの表情が固まった。


「……そっか、そうだよね。やっぱりそうなんだ」


 みるみるうちに、頬の血色が引いてゆく。


「あたし、ホントに死んだんだね」

「……はい。そう、だと思います」

「あっ、気にしないで。ただちょっと、びっくりしただけだから」


 ふう、とヒロミは息を吐いた。

 彼女が風呂から上がってからずっと休みなく喋り続けていたのは、単に誰かに話を聞いてほしいからだとあさひは思っていた。

 だけど、それだけではなかったのかもしれない。もしかして彼女は、この問いをすることで真実を確かめるのを、少しでも先延ばしにしたかったのかもしれなかった。


「ここの宿に来る前、あたし、ずっとずっと寒かったんだ。ひとりぼっちで、寒かった」


 こたつふとんを肩まで引き上げ、顔を埋めてヒロミはもぐもぐと言った。目線はみかんの皮に落としたままだ。


「あの日もあたし、ひとりで登山してた。あたし、自分は大丈夫だって思ってたんだよね。自分だけは遭難したりしないなんて、何の根拠もないくせに。ガレ場で足を滑らせて、そのままずるずる谷に落ちて……」


 声が、わずかに震える。


「きっと、誰かが助けに来てくれると思ってた。でも、半日経っても一日経っても、誰も来なかった。そのうち雪が降ってきて、寒くて、痛くて、眠くて……目が覚めたらあたし、ここの玄関先に立ってたの」

「遅くなって、すまんのう」


 少年の声が響く。

 湯守は盆に土鍋を乗せていた。白木の湯かき棒は、器用に脇に挟んでいる。


「さあさあ、当宿特製、炊き込みご飯じゃよ」


 こたつの横に盆を置いて、土鍋の蓋を取ると、ふわりと温かい湯気と、醤油の香ばしいにおいが立ち昇った。

 土鍋の中身は炊き込みご飯だった。具は一口大に切られた鶏肉と、細切りにされたニンジンとシイタケで、ざく切りにされた三つ葉が散らされている。


「うわあ、おいしそう!」


 それまでの様子がうそのように、ヒロミは目を輝かせて歓声を上げた。


「あたし、おこげ大好き」

「それじゃあ、たくさん入れてあげようかね」


 湯守は木のしゃもじで手際よく土鍋の底から返すようにして混ぜ、茶碗に取り分けると朱塗りの箸を添えてヒロミの前に置いた。


「どうぞ」

「いただきまーす!」


 あれだけみかんを食べた直後にも関わらず、ヒロミはもりもりとご飯を口に運んだ。

 湯守は別の茶碗にも飯をよそい、あさひの前に置く。

 不思議そうに見上げる湯守に、湯守はしゃもじを持ったままにっこり笑いかけた。


「せっかくじゃから、ご相伴にあずかりなされ」

「え、で、でも……」


 みかんに続いてさすがに食事まではと思ったが、ご飯を頬張ったままのヒロミの、


「いいのいいの! 土鍋いっぱいあるんだから! みんなで食べた方がおいしいよ」

という声に押されて、おずおずと茶碗を受け取った。


 器から伝わってくるぬくもりが、じんわりと手のひらにしみてくる。


「厨房で鍋をかけとるから、わしはいったん戻る。すぐ帰ってくるから、お客さまにお代わりをよそってあげなされ」

「お代わり!」

「えっ? あっ、はい」


 空になった茶碗を差し出すヒロミと立ち上がる湯守を、交互に見やるあさひにくすくす笑いながら、湯守は尻尾のような毛先を揺らして廊下を歩き去った。


「うーん、おいしい」

 ヒロミの食欲はまったく衰えないと見えて、実に美味そうに二杯目も口に運ぶ。

「……それは、ここの湯守さんが作ってるんです。お客さまが一番食べたい料理がわかるそうなんですよ」

「お客が……一番食べたい、料理?」

「はい。お客さまの心に、最後に心に浮かんだ料理をご提供させていただいております」


 ヒロミは箸を止めた。

 茶碗の中身に、じっと目を落とす。


「そっか。最後に心に浮かんだ料理か……なるほどね。どうりでしっくりくるわけだなあ」

「しっくり?」

「うん。これね、お母さんがよく作ってくれた、炊き込みご飯なんだ」


 ヒロミは再び箸を動かす。

 けれど先ほどのように勢いよくかきこむのではなく、今度は少しずつ、ゆっくり味わうように噛み締めた。


「最初は、よく似た味だなあって思ったの。でも、あさひちゃんの話を聞いてわかった。これ、お母さんの炊き込みご飯と同じ味なんだね。うちはね、何かっていうとこれだったなあ。運動会も、遠足も、お正月も、お祝いの席でも、これが出た」


 ヒロミは鼻をすする。


「今頃、みんなあたしがいなくなって、きっとせいせいしてるよね。それよりも、あたしのことなんか忘れちゃってるかなあ。あはは……」

「そんなことはなかろう」


 ことり、と天板に汁物の椀が置かれた。


「おまえさんの親御さんは、月命日には決まって炊き込みご飯を炊いて、仏前に供えておったよ」


 湯守は湯気の立つ椀を、ヒロミの前にそっと差し出す。

 ヒロミはまたずずっと鼻を鳴らした。


「そんな、見てきたみたいに……」

「見てきたわけではないが、湯守には見えるんじゃよ。さあさあ、冷めないうちに召し上がれ。これはあつあつが美味しいからの」


 湯守が差し出したのは、豆腐と玉葱の味噌汁だった。豆腐はさいの目、玉葱は一口大の乱切りにしてある。玉葱はとろけるように煮えて、透き通っていた。

 そっと箸を差し入れ、ヒロミは小さく目を見開く。


「これ……底に卵が沈んでる」


 湯守は頷いた。


「火を止める直前に卵を落として、余熱で半熟にしたんじゃ」


 それ以上言葉もなく、ヒロミは卵を箸先で少しだけ崩した。

 とろりとした半熟の黄身がぷりぷりの白身の隙間からにじみでてきて、汁に溶けこみ白濁する。そこを静かにすすった。


「……ああ、あったまるなあ」


 湯守は目を細めて、そんなヒロミを見守っている。


「小さい頃に風邪ひいたり、大人になっても疲れて帰ってきたりするとね。お母さん、この卵入り味噌汁作ってくれたの。あたし、こんなふうに少し崩して、おつゆと一緒に飲むのが好きだった。

体調が悪いときでもね、ここに白いご飯を入れると、さらさら食べられたんだ。煮えて甘くなった玉葱がまた合ってね。元気なときは、一味唐辛子を振って食べたりもしたよ」

「そうじゃな。それも合うじゃろうな」

「お母さんもさ、いろいろ口やかましかったけど、あたしのことを思って言ってくれてるんだって、ホントはわかってたんだ。お母さん、あたしの愚痴も黙って聞いてくれた。会社の人たちや友だちの言うことなんか、あんまり気にするもんじゃないよって言ってくれたのに。あたし、お母さんの話はあんまり聞いてあげなかった」


 また、声が震える。

 ヒロミの目は潤んでいたが、泣いてはいなかった。ごしごしと鼻を擦りながら、具を口に運ぶ。


「お母さんも、友だちも、もしかしたらこんなふうにご飯でも食べながら、ただ話を聞いてあげるだけでよかったのかもしれないね。だってあさひさんに吐き出して、うんうんって聞いてもらえて、あたし、すごく気分が軽くなったんだ」


 あさひは何も言えなかった。

 手の中の茶碗の炊き込みご飯が冷えていく。


「ただ聞いてもらえるだけでいいことってあるんだね。あたし……こんなになるまで、ずっと、わからなかったよ。ほんと、バカだなあ」

「……バカなんかじゃないと、思います」

「え?」

「ヒロミさんのお母さんは、ヒロミさんにいろいろ言えて、嬉しかったと思います。それにお友だちも、ヒロミさんがほんとは羨ましかったんじゃないのかな、って思うんです」

「……どうして?」


 ヒロミはそう尋ねたが、表情は穏やかだった。


「あたしの母は小さい頃に亡くなったから、ヒロミさんと同じ経験はしてません。だから、もしあたしだったら、っていうだけの話なんですけど……もしあたしがヒロミさんのお母さんだったら、娘にいろいろ言えるだけで、救われてるって思うんです」

「こんな、話半分に聞くような娘なのに?」


 あさひは頷いた。


「さっき、ヒロミさんは言ったじゃないですか。ただ聞いてもらえるだけでよかった、って。あたし、実は最近、父とあんまりうまくいってなくて……前だったら、しっかりしてよ、お酒ばっかり飲んでちゃダメだよ、って軽口叩くみたいに言えてたんです。でも今はとても言えなくて」


 気をつけていたのに、声が震えた。

 オコゼがみかんの皮を齧るのを止めて、心配そうにあさひの顔を見上げる。あさひはそんなオコゼの背中を指先で軽く撫でてやりながら、続けた。


「だけど最近は……母が亡くならなければ生まれてくるはずだったあたしの弟のことを、父が今でも悲しんでるって知ったら、余計にもう何も言えなくなって……酔って、叩かれても、怒鳴られても、何も言えなくて」

「あさひちゃん……」

「だから、文句でも何でも、言い合えるだけでいいって思います。それに、ヒロミさんのお友だちのことも……。あたしも友だちのことで、同じようなことを思ったことがあるんです」

「同じようなこと?」

「はい。あたしには、小夜子っていう親友がいます。小夜子はあたしが小学生のときに、ご両親の仕事の都合で引っ越してきて、あたしのクラスに転校してきた子です。小夜子はちょっと変わった子で、いつも周りから何となく浮いてました。

あたしも、家族でひとりだけ血がつながってない上に、母の再婚のときに連れてこられて転校したので、町でもクラスでも何となく浮いたままでした。だからあたしたち、自然と仲良くなったんです」

「あはは。奇遇だね。あたしもよく、変わった子だねって言われたよ」

「ヒロミさんもですか?」


 あさひが目を見開くと、ヒロミは頬をゆるめた。

「うん。ほらあたしってばこんなふうに、やりたいと思ったらすぐに準備してやっちゃうし、行きたいって思ったらひとりでどこへでも行っちゃうじゃん。別に群れてなくてもぜんぜん平気だった。だけどそういう子って、学校……特に女の子のグループだと浮くでしょ?」


 あさひは頷いた。

 その気持ちはよくわかる。

 小さな町の社会と、狭い校舎に閉じ込められた学校生活とは、どこか似ている。

 その場限りのルールから逸脱しないように、みんな必死だ。ちょっとでもルールから外れた者、毛色の違う者は、制裁のターゲットになる。

 制裁を受ける犠牲者――早い話が共通の敵が存在しているうちは、みな一致団結していられる。しかし、何らかの理由で犠牲者が集団から抜けてしまうと、躍起になって新たな対象探しが始まる点も同じだ。


「ねえ、その子はどんな子だったの?」

「小夜子のことですか?」

「うん」

「小夜子は……あたしとは違って、美人で、気が強くて、頭もいいし、運動もできました。転校してしばらく経った頃だったと思います。あたしと小夜子が仲良くしているのを見て、ほかの子たちは羨ましくなったんでしょう。

リーダー的存在の女の子が、あたしの席の前に立って、あたしとおしゃべりしていた小夜子の袖を引っ張ったんです。そして『あさひちゃんより、あたしたちと遊ぼうよ。こっちの方が楽しいよ』って言ってきたんです。そうしたら小夜子、なんて言ったと思いますか?」


 あさひは苦笑いした。

 今でもはっきりと覚えている。あの日の教室でのこと。


『えー? ゆきちゃんたちとぉ?』


 小夜子はちょっと困ったように、首を傾げる。ふわふわとやわらかそうに波打つ長い髪が揺れた。真っ黒でごわごわのあたしの髪とは大違いだ。


『うん。おいでよ。先生にはヒミツだけどね、あたしたち、うちからお菓子も持ってきてるんだ。こっちのグループに入ったら、小夜子ちゃんにもあげるよ』


 あさひはうつむいて唇を噛み、机の下でぎゅっと両手を握りしめていた。

 きっと小夜子ちゃんは、ゆきちゃんたちのグループに行っちゃう。

 そうしたらまた、あたしはひとりぼっちになるんだ。

 だけど、前もひとりぼっちだったじゃないの。また前に戻るだけでしょ。

 ――ひとりぼっちだって、平気だもん。


『うーん、べつにいいや』


 小夜子は笑って言った。

 思いっきり笑うと、小夜子の目は糸のように細くなる。


『は?』


 小夜子の言葉の意味がわからなかったクラスメイトは、間抜けに口を開けた。


『えっ、ど、どういう意味? 今日じゃなくって、明日だったらいいやってこと?』

『今日も明日もあさっても、なしだよ。あたしはあさひちゃんといっしょにいるよ』


 ――うそっ。


 意地悪なクラスメイトに負けず劣らず、あさひもぽかんと口を開けて、小夜子を見上げた。

 しかし小夜子はあさひの隣にまわってぎゅっと抱きつくと、言ったのだ。


『だってあたし、あさひちゃんとずっと一緒にいるって決めたんだもん』

『え、え、え? 小夜子ちゃん、ほんとにいいの?』


 うろたえつつも訊くと、小夜子は満面の笑みで答えた。


『うん! だってあたし、あさひちゃんのことだいすきだもん!』


 かあっと頬が火照る。

 面と向かって好意を向けられることに慣れていなかったあさひは、すっかり気が動転してしまってそれ以上ろくなことは言えなかったが、その間に呆れてクラスメイトたちは引いていった。


 このとき以来、卒業まであさひと小夜子はずっと一緒に過ごした。

 しかも中学高校とも同じ学校に進学したため、いつもあさひの傍には小夜子がいた。小夜子がいたからひとりぼっちでもさみしくなかったし、小夜子には何でも話せるような気がしていた。


 そんなあさひが、小夜子と初めて距離を置いたのは、高校卒業がきっかけだった。

 あさひは高校卒業と同時に、地元花巻市内の温泉旅館への就職が決まっていた。

 だが小夜子はあさひと同じ旅館に就職したいなどと言いだして、あさひを仰天させ、学校の進路指導の先生を唖然とさせた。

 小夜子は学年でも成績が良かったから、先生は彼女を大学へ進学させたかったのだ。

 けれど小夜子自身は、大学に行く目的も特にないから、それよりはあさひと同じところに就職して、楽しく過ごしたいと言い出す始末だった。だから先生たちは小夜子を説得する役を、あさひに頼んできた。


 小夜子が自分のことを大切にしてくれるのは嬉しい。だけど、それと進路は別だとあさひも思っていた。

 小夜子のうちは、両親がそろっていて、家計も安定している。自分とは違うのだ。自分なんかが小夜子の人生をめちゃめちゃにしていいはずがない。

 だからあさひは、あえて小夜子に冷たく接するようになった。


 最初こそ戸惑っていた小夜子だったが、しだいにあさひから離れていった。

 この頃にはあさひも小夜子も、お互い以外の友だちがクラスにできていたから、事情を知らないクラスメイトたちが見たら、それでも別に違和感は覚えなかったかもしれない。せいぜいが、ちょっと喧嘩でもしているのかな、と思った程度だっただろう。

 だがこの断絶は、思ったよりも長く続いた。

 卒業式間近になっても、小夜子はあさひから離れたままだった。あさひもまた、小夜子に話しかけることができなかった。

 しかも卒業式からろくに日を開けずに働き始めたあさひには、考えごとをしている暇などなかった。覚えることが山のようにあり、毎日は目まぐるしく過ぎてゆく。

 そうしているうちに、父が職を失って荒れ始め、祖母が体調を崩し、大好きだった祖父も他界した。


 小夜子が進学先も就職先も決めないまま卒業したきり、クラスの誰とも連絡を取っていないとあさひがかつての同級生経由で知ったのは、高校を卒業してから数年も経った頃のことだった。

 

 あさひの話を、ヒロミは黙ってじっと聞いていた。


「小夜子が今は盛岡にいるらしいって聞いたのも、そのときでした。あたしはスマホを見つめてすごく迷いました。メッセージのひとつでも送ってみようか。でも、もし電話番号を変えられてたらどうしよう。もし冷たい言葉なんて返ってきたら耐えられないかも――そりゃあもう、ぐるぐる迷いましたよ」

「で、結局は連絡取ってみたんだ?」


 あさひはゆっくり頷いた。


「それでそれで、反応はどうだったの? ……ん、ちょっと待って。ああ、もう何となく予想できたわ」


 わくわく顔であさひの顔をのぞきこんだかと思ったら、ぶんぶんと手を横に振ったり、天を仰いだりとヒロミはせわしない。


「いい返事だったんでしょ?」


 あさひはまたしても頷いた。ちょっとはにかんだような笑顔で。


「小夜子は、まるでついきのう別れた友だち同士みたいに、気さくに話してくれました。それであたしの緊張の糸は、そこで完全に切れてなくなりました」

「うん」

「それからは定期的に連絡を取り合うようになって――彼女が今は盛岡で働いていることも知りました。地元のタウン誌の記者の仕事をしているそうです。仕事のことを話す彼女はすごく楽しそうで、うらやましいなって思いました」


 こぽぽ、と音がした。

 火鉢で沸かしたお湯で、湯守が茶を淹れてくれていた。

 目の前に置かれた湯飲みから立ち上る湯気がやさしく舞うのを見つめながら、あさひは続ける。


「そのとき、あたしはやっと気づいたんです。あたしはずっと、羨ましかったんだなあ、って」

「その友だちのことが?」

「はい。容姿も家庭環境も、才能も人あたりのよさも、あたしとは何もかも違う小夜子のことが、あたしは羨ましかったんです。きっと小夜子には小夜子なりの苦労や努力もあったし、辛い思いなんかもしたはずなのに、あたしはそのことに気づいていなかったんですね。ただ、自分にはないものを持ってるってことが羨ましくて仕方がなかった」

「うん」

「今だったら、単なるないものねだりなんだって、わかるんですけど」


 あさひはじっとヒロミの目を見つめた。


「だからきっと、ヒロミさんのお友だちは、ヒロミさんのことが羨ましかったんだと思います。もし、お気を悪くさせたらごめんなさい。……もしかしたらヒロミさんも、お友だちのことが羨ましかったりするんじゃないですか?」


 それまでうんうんと相槌を打って聞いていたヒロミは、びくっとした表情になる。


「あたしが?」


 ヒロミはぽかんと口を開けた。

 言ってしまってからヒロミが気を悪くするかもしれない――いつもあたしは一言多い、と思ったが、あさひは意を決して続けた。


「ヒロミさんも仰っていたように、人間ってたぶん、ないものねだりな生き物なんだと思います。隣の芝生はどこも青いところばっかりなんです。それが普通なんだって思えば、ちょっと気が楽になったりしませんか?」


 ヒロミはまだ、呆けたようにあさひを見つめている。

 さすがに気恥ずかしくなって顔が火照り、あさひは下を向いた。


「……なんて。あたし、勝手なことばっかり言ってますね。すみません、単にあたしがそう思って、自分を慰めてただけなんですが……」

「そうじゃな」


 ずずーと音を立てて茶を啜り、そう言ったのは、それまでヒロミたちの会話に口を挟むことがなかった湯守だった。


「人間はないものねだりじゃ。じゃがだからこそ、前に進もうとするし、自分の行いを省みることもできる。それでいいんじゃよ」

「そうだね……ふたりの言うとおりだよ」


 ヒロミは湯飲みに目線を移し、口を湿らす程度にそっと啜った。


「さて、おなかもふくれたし、そろそろ行こうかな」


 腹のあたりを両手でぽんぽんとたたくと、こたつから抜け出す。


「えっ?」


 戸惑ったような声を上げたのは、あさひだけだった。


「行くって、どこに?」

「だってあたし、まだ登山の途中だもん」


 ヒロミは脇によけておいた上着を羽織り、ジップを上げる。

 毛氈の上をひたひた歩いて、玄関へ向かった。そこにはいつの間にか、一足の登山靴が揃えて置かれている。


「登山は、無事に最終目的地に着くまでが登山っていうでしょ」

「最終って――」


 湯守は僅かに手を上げて、あさひがそれ以上言うのを制した。


「道中、達者でな」

「うん。ありがとう。ふたりのおかげで、あったまったよ。それに体が軽くなった気がする」

「……ヒロミさん」

「あっそうだ、あさひちゃん」

「はい」

「次にみかん食べるときには、あたしも焼いてみるね」


 満面の笑みを浮かべて大きく手を振るヒロミの手の中には、いつの間にかみかんが一個、握られていた。

 霧に飲まれて消えてゆくヒロミの背中を、あさひはただ黙って見送ることしかできなかったのだった。



     *



「ふう……」


 適温の湯に肩まで浸かって、あさひは息を吐いた。

 自分で思う以上にたまっていた疲れが、ゆっくりとほぐれて溶けてゆくような心持になる。やはり、このまほろば温泉の湯は格別だ。 

 ヒロミが去ってから、珍しく立て続けに湯治客が来て、宿はしばらくの間てんてこまいだった。

 しかしやっとその忙しさも落ち着き、湯守からお湯に浸かっていいと許可が出たのだ。


 露天は少し前のクマ遭遇事件があって以来、ちょっと近寄りがたかったので、内湯を使わせてもらった。

 内湯は湯船も壁もヒノキでできており、足を踏み入れた瞬間から森の中にいるようないい香りがした。

 大きなガラス窓は、ほぼ前面が湯気で曇っているが、通気のために上部だけが開け放たれており、そこから外の景色が見えた。やはり窓の向こうは霧に包まれたままだ。

 むしろ、あさひがやってきてから晴れるどころか濃くなったような気さえする。


「あたし、本当に帰れるのかなあ……」


 つい悲観的な呟きが漏れる。


「くるるぅ」


 大丈夫だよとばかりに、オコゼが鳴いた。

 オコゼはお湯の上を気持ちよさそうにすいすいと泳いでいた。煮えてしまったりはしないか、見ていてヒヤヒヤする。

 洗い桶に水を張ってあげようとしたそばで、自らお湯に飛び込んだときにはあさひも仰天したが、どうやら杞憂だったらしい。そもそも、最初のときもお湯に浸かって干物状態から復活したのだった。

 あたたまってぷりぷりの頬を指先で突くと、オコゼは幸せそうに「るるるっ」と咽喉を鳴らす。


 そこに、りん――と鈴の音が響いた。


「やあ、気持ちよさそうだねえ」

「へっ!?」


 自分とオコゼしかいないはずの空間で、不意に聞こえたその声に、あさひはおじさんのような悲鳴を上げてしまう。


「なっ、な、な?」


 胸を隠してあわあわと湯船の中で身を竦めるあさひを見下ろしていたのは、真っ白な狐だった。右の耳に付けられた金の鈴が涼やかに鳴る。

 開け放たれていた窓の縁に前足をそろえて器用にちょこんと乗り、白夜は目を細めた。


「もうすっかりここに馴染んだみたいだねえ。よかったよかった」

「あっ、あ、あの」


 あさひは濡れた髪をまとめていたタオルを外し、湯船に沈めて何とか体を隠す。


「うん? どうした。のぼせたかい? 顔が赤いよ」

「のぼせたんじゃありません! ここは女湯ですよ!」

「そんな今さら、ぼくときみとの仲じゃないか。別に恥ずかしがることはないよ」


 白夜はどこ吹く風という様子で、ゆったり尻尾を揺らす。

 ついにあさひの忍耐は沸点に達した。


「出てってくださあああああああい!」

「くるるるううううう!」


 あさひが叫んだのとほぼ同時に、まるで合点だとばかりにオコゼは高く鳴いた。

 オコゼは湯船のお湯を腹の中いっぱいに吸いこみ、巨大なハリセンボンのように丸くなる。


「えっ、え、ええ!?」


 戸惑う白夜に向かって、オコゼは窄めた口から湯を吹き出した。高圧水流は窓辺の白夜に見事命中し、外の真っ白な霧の中へと吹き飛ばしたのだった。


「うわああああああ!」




「ぶっ、くすくすくす」

「もう、笑いすぎですよ、湯守さん」

「そうだ。笑いすぎだぞ」


 白夜とあさひのふたりにじっとりと睨まれて、湯守はいっときはこらえたのだが、すぐに限界に達してまた「ぶふっ」と吹き出した。


「い、いやすまんすまん。じゃが、オコゼが、オコゼになあ。あっはっはっは」

「くるるッ」


 オコゼも怒って湯守の頭の上でぷうっと膨れている。

 あさひの叫びとオコゼの咆哮、きわめつけに白夜の悲鳴を聞きつけて、なにごとかと帳場から降りてきた湯守が見たのは――お湯がすっからかんになった内湯と、巨大化したオコゼ、そんなオコゼの尾鰭にくるまって体を隠した真っ赤な顔のあさひだった。


「笑いごとじゃないよ。せっかくの美人がすり傷だらけさ」

「……ほんとに、ごめんなさい。だってびっくりしたんです」

「いやいや、あさひちゃんを責めているわけじゃないよ。でりかしぃというやつがなかったぼくが悪いのさ」

「っくしっ」

「おや、風邪をひいてしまったかな」


 こたつに入った白夜が、向かいに座るあさひを心配そうにのぞきこむ。こたつでくつろぐ狐というのも、なかなかシュールな図だ。


「あさひ坊、大丈夫か。少し顔が赤いな」

「だ、だいじょうぶです。ちょっと鼻がむずむずしただけで……はくしっ」

「ちょうどいい。あさひ坊は今日はもう休みにしよう。ここに来てからずっと働きづめで疲れもたまっているじゃろ」


 綿入れを肩にかけながら言われて、あさひはぶんぶん首を横に振った。


「えっ? あたし、大丈夫です。湯守さんだけ働かせられません」

「いいからいいから。湯守もそう言ってくれてることだし。ここは甘えたらいいよ。それにもともと、湯守はここをひとりで切り盛りしてたんだからさ」

「でも……」

「だーいじょうぶだって。湯守なら、全然寝なくても平気なくらいなんだから」

「またあ、そんな冗談……」

「本当じゃよ」

「……え?」


 笑った顔のまま、あさひは固まる。


「わしはあさひ坊と違って、ふつうの人間じゃないからの。まったく眠る必要はないんじゃ」

「そうなんですか?」

「そういうこと。こいつも昔は、あさひちゃんと同じ、ふつうの人間だったんだけどね」

「白夜さま、わしのぷらいべーとのことを、ぺらぺらと喋らないでくだされ」

「何だよ、ケチ。別に姫神さまにそこまで口止めされてるわけじゃないだろ」


 あさひは目をしばたいた。

 そう言えば、あさひはこの少年のような見た目で、ひどく老成した物言いの湯守について、何一つ知らないことに今さらながらに気がついた。

 どんな名前で、歳はいくつなのか。白夜が言うように、以前はふつうの人間だったとしたら――今は、いったい何なのか。


「湯守さんがここにいることと、姫神さまって、何か関係があるんですか?」

「おっ、なかなか鋭いねえ、あさひちゃん」

 湯守はため息を漏らした。顔は笑顔のままだが、その目は笑っていない。

「白夜さま」

「おお、怖い怖い。わかったよ、ぼくが勝手に喋らなきゃいいんだろ」

「そういうことです」


 湯守はあさひに多くを尋ねない。

 けれどそれはここを訪れる誰に対してもそうだった。

 湯守は客の抱える事情をいちいち詮索しない。

 もしかしたら湯守には、客が心に思い描く料理以外にも、客が背負う辛さや悲しみが、全て見えているのかもしれない。

 だとしたら湯守自身も相当苦しいはずなのに、彼はそれをおくびにも出さないのだ。


 あさひは何も知らない。

 ここに来てそれなりに経つのに、この白夜のことも、湯守のことも、まだ何も知らなかった。


「食べたいものはあるかね? 今日はもうお客もいないし、何か作ってあげよう」


 居室に移動したあさひは、湯守と白夜に強制的に布団に入れられた。

 ちょっと過保護すぎやしないかと思ったが、そう言ってやわらかく微笑む湯守の顔を見たら、なぜかそれ以上抵抗できなくなってしまう。


「で、でも……そこまで甘えるわけには」

「遠慮しないでご馳走になりなよ」

 掛布団の上で尻尾を揺らしながら、白夜が言った。

「よく働いてくれたからな。ご褒美じゃ。お給金は出せんからのう」

「じゃあ……ひっつみが食べたいです」


 布団に半分顔を埋めたままでぽつりと漏らすと、湯守と白夜は同時に呟いた。


「「ひっつみ?」」

「あっ、や、やっぱり別のにします」

「そいつはいいねえ」

「それならすぐにできるが、そんなのでいいのかね?」


 白夜はにこにこと目を細め、湯守には不思議そうに見下ろされ、あさひは頷く。


「……昔、おばあちゃんがよく作ってくれたんです」


 湯守の表情がわずかに固まった。


「この宿に来て、みんなが湯守さんの作った思い出の料理を食べてるのを見て、あたしだったら何かなあって思ったら、うちのひっつみのことを思い出したんです。おじいちゃんが作ってくれた味噌焼きおにぎりとか、ずんだ餅とか、いろんなものが浮かんだんですが、一番はおばあちゃんのひっつみでした」

「そうか……」


 こころなしか、湯守の声も震えているように聞こえた。

 けれどその理由をあさひが尋ねる前に、ぱんと膝を打って湯守は立ち上がる。

「よし、じゃあとびっきりのやつを作ってくるから、あさひ坊は休んでおれ。白夜さま、すみませんがそいつを見張っとってくだされ」


 勢い込んで厨房へ向かった湯守だったが、鴨居に湯かき棒をぶつけてよろめきながら出ていった。がつんという音に驚いて、「くるッ」とオコゼが鳴く。

 見慣れないその様子に、白夜とあさひは呆気に取られていたが、ぷっと小さく吹き出したのは白夜だった。


「あさひちゃんが来てからいろいろと良いものが見られて、退屈しないよ」

「どうしたんでしょう、湯守さん……」

「あさひちゃんは何も気にすることはないさ」

「そう……ですか?」


 首を傾げるあさひの頬に顔をすり寄せて、白夜は丸くなる。その背中にオコゼも降りてきて丸くなった。まるで真っ白な鏡餅だ。

 つい吹き出すと、怪訝そうに白夜は目を開ける。


「どうした?」

「い、いえ、何でも……」

「こら、気になるだろ」

「じゃあ、あの……言っても怒らないでくださいね」

「このぼくがいつ怒ったことがあったかね。白夜さまは慈悲深いことで有名なんだ」


 白夜は白くたっぷりとした毛並みの胸を張る。そのはずみで背中のオコゼがころころと転がり落ちた。


「くるるっ」


 白夜に抗議するオコゼを宥めて撫でてやりながら、あさひはおずおずと切り出す。


「あの、白夜さんの上にオコゼが乗ってるのを見てたら、何だか鏡餅みたいだなって、思って」


 その瞬間、白夜は琥珀色の目をまん丸に見開いた。

 かと思ったら、右耳の金色の鈴を揺らして、大笑いする。


「あっはっは。こりゃあいい。ぼくもたいそう長く生きているが、鏡餅だなんて言われたのは初めてだよ」

「すみません……」

「いやいや、怒ってるんじゃないってば。愉快だなあって思っただけさ。な、オコゼ。おまえもそうだろ」

「くるるぅ」

「ほら、オコゼもそう言ってる」

「はあ……」


 まだ多少困惑しているあさひをよそに、白夜はよほど鏡餅がツボに入ったのか、まだ体を揺らして笑っていた。そのたびに鈴がリン、リンと鳴る。


「うん? どうしたね」


 あさひの視線に気づいた白夜が、笑いを引っ込める。


「いえ、ただ何となく、その鈴が気になって」

「鈴? ああ、これかい?」


 白夜は右の耳をぴこぴこと動かす。軽やかに鈴が鳴った。


「きれいだろ? いい音がするし」

「あ、はい」

「これはね。ぼくのお守りであると同時に、戒めでもあるんだ」


 ――お守りと、戒め?


 どういうこと、って訊いてもいいのだろうか。

 そんなあさひのためらいを感じたのか、白夜は語りだす。


「これはね、ぼくのだいじな子どもがくれたんだ」

「白夜さんの、お子さん?」

「ああ、いや。ぼくの子どもじゃないよ。人間の子だ」

「人間?」


 白夜は頷く。


「ぼくはね、人間が大好きなんだ。もちろんこれだけ長いこと生きてると、人間の嫌な面もたくさん見たし、辛い思いもしてきたよ。だけど、その何倍も人間の傍にいて素敵な思いもしてきたし、いい面も見てきた。ぼくはもしかしたら、人間に憧れていたのかもしれないね」


 あさひは目を瞬く。

 とてつもない長い時間を生きて、姫神の眷属の筆頭を務めるとまで言われたこの霊狐が人間に憧れるだなんて、とても不思議な感じがした。


「ぼくは昔から人間に化けたり霧に紛れたりして、人間の傍に近づく癖があったんだ。姫神さまからほどほどにしておかないと、いつか痛い目を見るよと言われていたけれど、これまで大丈夫だったのだから、これからも大丈夫って思っていたんだね。自分のことを過信していたんだ。だから、姫神さまから罰を下されたんだ」

「罰? 白夜さんが?」

「ああ、そうだよ」

「そんな……だって白夜さん、とっても優しいし、いいひとなのに」


 琥珀色の瞳を、また白夜は見開く。

 その瞳がわずかに揺れているように見えた。

 すり、と一度軽くあさひの頬に顔を寄せてから、白夜は続けた。


「ぼくは人間を観察するのが大好きだった。だからその日も、山を走っていた車を見つけて、近づいていったんだ。ただの興味本位だった。その車に乗っていたのは、親子だった。子どもの方がぼくに気づいたみたいで、じっと見つめてきた。

昔はその子みたいに、ぼくが見える子があちらこちらにいたもんさ。でも最近ではとんと見なくなってしまった。だからぼくは嬉しくなって、その車に沿って走ったんだ」


 とくん、と胸の中で心臓が鳴った。

 遠い記憶が、胸の奥によみがえってくる。

 霧の中を駆け抜けていったもの。


 ――そうだ。あれは、霧と同じ色をした獣だった。


「その直後だった。車は事故を起こし、その子は助かったが、親を喪った。車内で何があったのか、ぼくにはわからない。もしかしたら親もぼくたちが見える体質で、ぼくを見たせいで驚きハンドル操作を誤ったのか。それとも霧で視界が悪かったせいか……」


 手のひらに冷たい汗がにじんでくるのがわかる。心臓の鼓動は徐々に激しくなり、胸の中から体を揺さぶってくるようだ。

 オコゼもそれを感じ取ったのか、不安そうにあさひの枕元に寄ってきた。


「姫神さまは激しくお怒りになった。ぼくは眷属の座を失い、ただの狐に戻ることも覚悟した。けれど、そうはならなかった。姫神さまは代わりに、その子の傍に寄り添って、喪った親の代わりに成長を見守ることを命じられたんだ」


 白く美しい毛並みの霊狐の琥珀色の瞳は、じっとあさひの目を見つめている。


「ぼくは山を下り、人間のふりをして里に棲んだ。その子どもに近づき、友だちのふりをした。これはね、その子がぼくにくれたものなんだ。お守りだよって」

「それって……」


 あさひは布団から抜け出して体を起こした。慌てたようにオコゼが避けたが、またすぐに寄って来る。

あさひは白作務衣の腰ポケットを探り、スマホを取り出した。電波が通じないのは知っていたが、何となくいつもそこに入れていたのだ。


 鈴が鳴る。

 白夜の耳で揺れる金の鈴とよく似た鈴が、赤い飾り紐のストラップの先で揺れていた。このストラップは、あさひが旅行先で買ったものだった。おそろいで買ったものを、小夜子にもあげたのだ。


「もしかして――」

「待たせたの、あさひ坊」


 ガラリと襖が開く。

 土鍋を乗せた盆を持った湯守が笑いながら入ってきた。


「せっかくじゃから、ひっつみの他に味噌おにぎりも作ってみたぞ」


 湯守があさひの枕元に盆を下ろしたところを狙っていたように、白夜がさっと立ち上がる。通り過ぎざまに、まだほかほかと湯気を上げる味噌にぎりをひとつ失敬した。


「ちょっと、白夜さま。お行儀が悪いですよ」

「駄賃だよ、駄賃」


 おにぎりを咥えたまましゃべる声は、もう廊下の向こうへと消えている。


「まったくもう、神出鬼没というか、せわしないお方じゃ」


 湯守とあさひは同時にため息を漏らす。


「……行っちゃった」

「何じゃ、どうかしたか?」


 あさひはゆるゆると首を横に振った。


「いえ。ただもっと、話したいことがあったなあ、って」

「白夜さまなら、いつでも会えるじゃろ。何といっても、ここを治められる姫神さまの眷属なのじゃからな」


 土鍋の蓋を開けながら、湯守は言う。


「それに、またそのうちあちらからひょっこりいらっしゃるさ。これまでもそうじゃったじゃろ?」

「そっか。……そうですよね。きっとまた、会えますよね」


 スマホを元通りポケットにしまいながら、あさひは笑った。


「そうじゃそうじゃ。まずは食って、寝ることじゃ。働いた後は、ひっつみだけじゃ足りんじゃろ?」


 朱塗りの大ぶりな椀に、木の杓子でひっつみを取り分けながら言う湯守に、あさひは眉根を寄せた。


「もう、あたしそんなに食いしん坊じゃないですよ」


 けれどすぐに、ふっと力を抜く。


「……だけど、嬉しい。ありがとうございます。おにぎりも捨てがたいなって思ってたんです」


 嬉しそうに湯守も笑った。


「じゃろ? 実はわしもそう思ってたんじゃよ。東北でおにぎりといったら、味噌をつけた焼いた丸いおにぎりじゃからのう。わしの小さい頃なんかは、おやつといったらこれじゃったよ。農作業の合間にもこれじゃったな」

「あたしの小さい頃も、おやつはこれでしたよ」


 ひっつみは、小麦粉を耳たぶくらいの硬さになるまでこねて作った生地を、醤油ベースの汁の中に手で千切り落として煮込んだ郷土料理だ。

 具は長葱や大根に白菜など、地元で採れる野菜に鶏肉がポピュラー。だが生地を千切るときの大きさや厚さ、煮こむ時間や具材などで、それこそ家庭の数だけ味わいが違うといっても過言ではない。

 あさひの祖母は、生地を薄く大きく千切る名人だった。祖母の手にかかると、団子のようにぼてっとしていた小麦粉の塊が、あっという間に、ひらひらした蝶の羽のように変わるのだ。

 次から次へと汁の中へ舞い降りてゆく白い蝶たちを、子どもの頃のあさひはまるで魔法を見ているような気分で飽くことなく眺めたものだった。


「いただきます」


 ふうふうと吹いて冷ましながら、汁を啜る。

 鶏肉の澄んだ脂が浮いた醤油ベースの汁は、体のすみずみにまでじんわりと沁みわたるようにうまかった。ほう、と体中の力が抜ける。


「……おいしい。本当に、おいしいです」

「そりゃあよかった。じゃあたまにはわしも、ご相伴にあずかろうかのう」


 湯守は自分の分も椀に取り分ける。

 あさひは汁を吸って薄く染まったひっつみも箸で口に運んだ。どことなくきしめんに近い、つるつるぷりんとした舌触りの生地は、口の中で噛みしめると、もちもちとした弾力が心地よい。

 汁の塩辛さと甘さのバランスも絶妙で、まさに祖母の味だった。


 ここの湯で体を癒し、湯守の料理で心を癒して幽世へと旅立って行ったひとびとも、こんな思いを味わっていたのだろうか。

 ふと、あさひはそんなことを思った。

 だとしたらきっと、さぞかし満ち足りた思いに包まれていたことだっただろう。


「おにぎりもいっとくかね?」

「いただきます」


 白い皿の上には、あさひがイメージしたとおりの丸く大ぶりなおにぎりがふたつ乗せられていた。両面にやや厚めに仙台味噌が塗られていて、直火で軽く炙られた表面から漂う香ばしい香りが、鼻孔をくすぐる。

 噛みしめると味噌の香りが口いっぱいに広がった。

 あさひのうちでは、味噌にぎりに熱い茶や味噌汁をかけて、茶漬けのように啜ることもあった。ちょっと行儀が悪いかと思いつつ、湯守に頼むと、空になった椀に乗せたおにぎりの上から、熱い汁をたっぷり注いでくれた。 

 箸でおにぎりをざくざくと少し崩してから、静かに口の中にかきこむ。

途端、もう戻ってはこない懐かしい日々の思い出がどっと胸に押し寄せてきて、涙が零れそうになった。

 歯を食いしばって椀の中身をもくもくと味わうあさひを、湯守はやさしいまなざしで見守っていた。その横で、オコゼは湯守に分けてもらったおにぎりのかけらに夢中だった。



「さて、後はしばらく眠りなされ」


 食器を片付けながら立ち上がろうとする湯守に、オコゼがふわふわと近づいていく。


「おや、おまえさんどうしたね? 足りないのかい?」


 だがオコゼは、湯守の白作務衣の腰のあたりをつんつんと口でつついている。


「何じゃね、そこにごちそうは入っとらんよ」


 湯守が困ったように言ってもまるで聞かずに、オコゼは布地に噛みついて、力いっぱい引っ張った。そのはずみで、ポケットに入っていた何かが、ごとんと重い音をさせて畳の上に落ちる。

 そこに、あさひの目は釘づけになった。


「これ……」


 湯守は表情を崩さずに、落ちていたものを拾い上げる。


「どうした? ハーモニカが珍しいかね?」

「……そういうわけじゃ、ない、ですが」


 無意識のうちに、ごくりと、と咽喉が鳴った。


「あのっ……」

「うん?」

「もしかして、仕事が終わった後に、それ吹いてたり……しますか?」

「何じゃ、聞こえてしまっとったのか。うるさくなかったかね?」


 あさひは首を横に振る。


「あの、じゃあ……『ふるさと』って曲、吹けますか」

「もちろんじゃ。名曲じゃしな」

「……」

「何じゃね?」

「いえ、やっぱりいいです」


 あさひは言いかけた言葉を、迷ったあげくに引っ込めた。

 これまでの様々な出来事が、頭の中をぐるぐると回る。

 もしかして――そんなふうに胸に浮かんだ考えを口にしてしまったら、この奇跡のように穏やかな時間は、終わりになってしまうような気がした。


「こら、言いかけてやめられたら気になるじゃろ」

「……あの……あたしが眠るまで、『ふるさと』を聴かせてもらってもいいですか? 亡くなったおじいちゃんが、よく聴かせてくれた曲なんです。あたし、おじいちゃんのハーモニカを炉端で聴くのが、とても好きでした」

「構わんよ。吹いてあげよう。だからおまえさんは、ゆっくりおやすみ」


 湯守はそっとあさひの瞼を手のひらで覆う。

 少年のような見た目に反して、その手は老人のように乾いていて、温かかった。






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