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第二話 狩るひとびと


「じゃあ、仕事に行ってくるね」


 大きなバッグを肩に提げ、玄関先でそう言ったあさひに、家の中から返事はなかった。

 居間の炬燵からは、父の大いびきが聞こえている。

 そろそろと戸を閉めて鍵をかけ、あさひはもよりのJR釜石線の土沢駅へと向かった。


 岩手、花巻の春は遅い。この二月はまだまだ真冬だ。陽が落ちれば、吐く息も凍りつくように冷えこむ。

 除雪の後の雪がうずたかく積もっている路肩を、行き交う車に注意しながらあさひは歩いた。

 銀色の盆のように明るい月と、辺り一面に積もった雪のおかげで、周囲に民家は少ないが、駅前の道のりを歩くのにはさほど難儀しなかった。


 あさひは普段から、通勤にこの道を使っている。山の中腹の集落にある家から土沢駅まで自転車で行き、そこから電車に乗って花巻市内の温泉旅館へ通っていた。

 契約社員だったが、仕事は楽しかったし、やりがいも感じていた。

 けれどその職場を、あさひは昨日で退社していた。

 契約期間が切れるタイミングで、延長をしないことにしたのだ。

 そのことを、居間の炬燵で夢の中の、彼女の父は知る由もない。いつも仕事が深夜シフトのとき、あさひは父のためにおにぎりを握って、台所に置いておくようにしていた。

 今夜も置いておいたから、父が起きてそれを見たら、きっとあさひは仕事に行ったと思うに違いなかった。


 でも今、あさひが駅に向かっているのは、仕事に行くためではない。

 いつもなら土沢で乗り、花巻で降りる。しかし今日はさらに花巻から終点の盛岡まで行くつもりだ。

 盛岡には、親友の小夜子が住んでいた。しばらくは小夜子のアパートでお世話になるつもりだった。小学校から高校まで一緒だったおかげで、あさひの家の事情をよく知っている小夜子は折に触れ、何かがあったら自分を頼ってくれるよう、言ってくれていたのだ。


 昨年、祖父が自宅で倒れて亡くなるまで、あさひは父と祖父母の四人で暮らしていた。

 あさひは母親の連れ子だった。

 母は、岩手の沿岸部、釜石の生まれだった。釣り好きだった父が海釣りに行ったときに出会ったそうだ。

 しかしあさひが小学生のとき、彼女を車に乗せて実家に行った帰りに事故に遭い、あさひを残して亡くなってしまったのだった。

 まだ、再婚してから一年ほどしか経っていなかった。

 父はひどく嘆き悲しんだ。

 しばらくは仕事が手につかず、ひどく痩せたほどだ。

 しかも母のおなかには、あさひの弟になるはずだった子が宿っていたのだ。


 だが父はそれまでと変わらず、あさひに実の子のようにやさしくしてくれた。

 祖父母もあさひをとてもかわいがってくれたから、あさひは学校を卒業し、仕事を得て働くようになってからも、家の中では血のつながりなど気にせずに過ごしてこれたのだ。


 そんな毎日が変わり始めたのは、同じく昨年のことだった。

 父がリストラされたのだ。

 なかなか再就職先も見つからない中、少しずつ酒の量が増えていき、祖父が亡くなってからは箍が外れたように酒を飲んでは、祖母やあさひにも暴力をふるうようにもなったのだった。


「おれはなあ! こんな人生になんか、なるはずじゃなかったんだよ!」


 酔って、父は怒鳴った。


「おれは、息子と釣りに行くのがなあ、夢だったんだよお!」


 この言葉を初めて聞いたとき、これが偽らざる父の心だったのだと――父の心の傷はまったく癒えてはいなかったのだと、あさひは知った。

 以降も、壊れたゼンマイのように同じ言葉を父がくりかえすたび、祖母は小さな背をさらに小さく丸めて、皺だらけの柔らかくあったかい手で、あさひの手を擦った。


「ごめんな、ごめんなあ」

「おばあちゃん、あたし、気にしてないよ。大丈夫だよ」


 もちろん、そんなのは嘘だった。

 あさひが辛かったのはもちろんだ。しかし、あさひが仕事に行って家を留守にしている間、荒れる息子にひとりで対応しなければならないことが、祖母にとってもかなりの負担だったはずだ。

 また、祖母が体のあちこちに痣をこしらえているのを見るのは、あさひにとっても、自分が痣をつくるよりも痛かった。


 転機はふいにやって来た。

 祖母が腰と膝を痛めて車椅子での生活を余儀なくされ、ついに介護つきの老人ホームに入居することになったのだ。それは祖母が、あさひのために選んでくれた道でもあった。


「あさちゃんは、よくがんばってる。がんばってるよ」


 台所で茶を淹れていたあさひの手を、いつものように祖母が握ってくる。

 だけどその日は、握られた手の中に、ごわごわした感触があった。


「えっ」


 つい声を上げそうになると、首を振って祖母はそれを制した。

 ゆっくりと広げた手の上に置かれていたのは、畳まれた紙幣だった。


「これで何か、おいしいものでも食べなあ。ばあちゃんは、もう老人ホームに行ってしまうから、あんまりおこづかいもあげられなくなるからねえ」

「そんなの、気にしないでいいのに、ばあちゃん」


 祖母はまた、首を横に振った。


「あさちゃんなあ、ばあちゃんのことも、もう気にしないでいいんだよ。あさちゃんの好きにしたら、いいんだからねえ」


 台所の隣の居間では、父がテレビで大相撲を見ながら、ペットボトル入りの焼酎をコップであおってい

る。

 朝から飲んでいるため、このときの父がどの程度正気を保っていたかは不明だが、よしんば聞こえていたとしても、いつもの祖母と孫の会話だと思っただろう。


 だけど、あさひにはわかった。

 これは、祖母なりのメッセージなのだ。

 祖母があさひにくれることができる、最初で最後のチャンスなのだった。


 祖母は深い皺の刻まれた目尻に涙をためて、ちらっと隣の部屋を見る。けれどまた頭をゆっくりと横に振ってあさひへ視線を戻すと、やわらかくあたたかい、皺の寄った手であさひの手を紙幣の束ごと包んで撫でてくれた。

 その翌日、祖母は迎えにきた施設の車で、家から車で一時間近くもかかる老人ホームへと旅立っていった。

 同じ日の夜、あさひは荷造りをして、家を出たのだ。

 向かった先は、盛岡だった。



     *



「いいかね。あそこの渡り廊下の途中に、朱塗りの細い一対の柱が見えるじゃろ」


 たすきがけをして、白木の棒を肩に掛けた湯守が指す先を見て、あさひはこくこくと頷く。

 あさひも同じ白い作務衣を着ていた。


「あの柱を越えて、向こうの棟には行ってはいかん。あっちは白夜さまのような物の怪の方々専用の湯じゃからの。それ以外の方たち用の湯もある。わしはいずれの湯にも、手出しも口出しもできん。別の湯守がおるからの。

湯守の管轄の境界には、必ずあのような柱があるからすぐにわかる。ここで働く上で、一番大切な注意事項はこれじゃな。わかったかね?」

「はい」


 あさひはここ、まほろば温泉郷で働くことにしたのだ。

 労働を強制されたわけではなかったが、「人手が足りないから電車まで手が回らない」と強調されたのは確かだ。

 だから、もしここで彼の仕事を手伝っていれば、帰る道がひらけるかもしれない。あの白夜が言っていたことは正しかったのだ。


「じゃあ、早速お願いしするとしようかの。あっちの湯に、夜の間に落ち葉がたくさん沈んでしまっとる。今、湯を抜いとるから、掻き出しておいてくれんかね。『清掃中』の札が下がっているところじゃよ」


 湯守から指定されたのは、きのうあさひと男の子が入ったあの露天風呂だった。

 きのうは夜で、しかも湯気が多かった。だが風呂の湯が止められていることで湯気の量は減っており、外の様子がよく見えた。

 湯殿の周りの雪を抱いた木々の枝が、きらきらと輝いている。霧はまだ晴れてはいなかったが、時折風で霧がわずかに途切れるたび、白く雪化粧した遠くの山並みがかすかに見えた。

 こうしてぼんやりしている限りは、あさひが働いていた花巻の温泉街とそう変わらない、山中の温泉郷のようにも思えた。


「何だかうまそうな匂いがするねえ」


 熊手で枯葉を掻き集めていたあさひの耳に、そんな野太い男性のような声が聞こえたのは、そのときだった。


「おまえさん、ここじゃあつまみ食いは禁止だよ」

「わかってるって。でも、この匂いは腹がへっていかんねえ」

「ああ、いい匂いだなあ」

「今年の秋は、ブナの実が不作だったから腹がすいてねえ」

「あたしもさ、背中とおなかがひっつきそうだよ」


 熊手を動かす手を止めて耳をすませば、声はどうやら露天風呂の隣、木製の衝立の向こうからしているらしい。

 混浴なのかどうかあさひは知らないが、聞こえてくる声は男女の声のもののようだ。

そこにも赤い朱塗りの細い柱が立っている。声の主たちがいるのは、湯守の言っていた境界の向こうのようだ。

 湯守が言っていた『物の怪』だったり、『物の怪以外』の湯治客があそこにいるのだろうか。

 怖いもの見たさで気になったが、さすがにのぞき見はいけないことだ。


 仕事に専念しようと、あさひが熊手の動きを再開したときだった。

 がりっと、板を硬いもので引っ掻くような音がした。


「えっ」


 つられてふりむいたあさひが見たのは、木製の衝立の上に掛かった、黒く鋭い爪だった。

 爪は硬そうな黒い毛がびっしりと生えた手から伸びている。

 たった今までお湯に浸かっていたせいか、手からはもうもうと湯気が上がっていた。


「あら、おまえさん、見ない顔だねえ」


 衝立に爪をかけて、あさひのいる露天風呂をのぞいた湯治客は言った。

 あさひは呆気にとられてあんぐりと口を開けたまま、身動きできない。

 からからんと乾いた音を立てて、足元に熊手が転がった。


「いいにおいがすると思ったら、人間のおじょうさんとは」

「ああ、うまそうだねえ」


 口々に言いながら、湯治客は衝立の向こうから身を乗り出す。

 どうやら、あちらの露天風呂の岩場によじ登って、こちらをのぞいているらしい。

 客たちの体重を支えきれず、衝立が倒れてガランガランと大きな音を立てる。朱塗りの柱を越えて、のっそりとやって来た客たちは、あさひの周りを取り囲むように歩いた。


「あ……あ……」


 あさひは顔面蒼白になったまま、言葉も出ない。

 ふー、ふー、と音を立てて吐き出す生臭い息が顔にかかり、ぞくっと鳥肌が立った。

 全身から湯気を立ち上らせながら、真っ黒な鼻をひくひくと動かして、ずぶ濡れのままの客たちはあさひのにおいを嗅ぐ。


「ひっ」


 そう言ったきり、あさひは硬直した。


「ああ、うまそうなにおいだなあ」 


 恐怖で気を失いそうになりながらも、あさひはさっき取り落とした熊手をなんとか拾い上げた。それをふたりの――いや、二頭のツキノワグマに向けて、気丈に振りかざす。

 だがその先端は、ぶるぶると震えていた。


「おやおや。このおじょうさん、やる気だよ」


 雌らしい方のクマが、面白そうに、くつくつと笑った。

 次の瞬間、さっと風があさひの前を横切った――ように感じた。

 あさひが握りしめていた熊手は、クマの鋭い一撃で弾き飛ばされて、竹とんぼのようにくるくるまわり、かん高い音を立てて岩の床に落ちる。

 痺れる手を握りしめていたあさひは、そのクマの爪に、なにやら紐のようなものが絡まっていることに気づいた。


 それはあの、駅売店のオババから、ボタンと引き換えにもらったお守りのオコゼだった。念のため、首にかけていたのだ。


「なんだあ、これ」


 雄のクマはすんすんとオコゼの入ったお守り袋のにおいを嗅ぐ。


「食べものかしら?」


 もう一頭のクマが興味を持って、顔を近づける。

 それで取られると思ったのか、オコゼを爪に掛けた方のクマは、急に牙をむいて唸り出した。


 ガウウウ……

 ガウッ!


 こうなったらクマたちはあさひのことなど、もはや眼中にないようだ。

 この隙に逃げられないか――そうは思ったものの、脱衣所へと続く扉へは、運悪く、クマの横を通り過ぎないとたどり着けない。

 では逆に、露天風呂の外はどうか――とも思ったが、生憎、岩場の向こうはどうなっているのか、あさひは事前に確認しておかなかったことを後悔した。迂闊に飛び出して、もし急な崖や川にでもなっていたら、それこそ命がない。


 興奮したクマの片方が、袋を取られまいとして腕を振り上げた。

 そのはずみで爪から外れた袋は宙を舞い、放物線を描いて衝立の向こうへと消えた。

 クマたちもあさひも、呆気に取られたようにその軌跡を目で追った数秒後――ぼこっぼこっと、水が激しく沸騰するような音が聞こえてくる。


 今度はなにごとかとあさひが身構えたとき、衝立の向こうでざばあと巨大な水柱が上がった。

 硬直したように動けないあさひやクマの頭上に、湯が豪雨のように降ってくる。


 ずぶ濡れになったあさひたちの前に現れたのは、奇怪な姿のモノだった。

 クマたちの何倍も大きい。ぎょろりと大きな一対の目は、内側から光を発しているかのようにらんらんと輝き、まっすぐあさひたちを見据えている。

 金色に光り輝く体の鰓や鰭からは、鋭く尖った角のような突起がいくつも突き出していた。それとは対照的に、長く伸びた尾鰭の先は羽衣のように薄くやわらかく、ふわふわと宙を漂っている。


「オコゼだ」

「姫神さまの眷属だ」


 肩を寄せ合って震えながらそう言ったのは、クマたちだった。


「オコゼ? これが?」


 あさひはあらためて奇怪なモノを見上げる。

 売店のオババからもらったときは、小さな魚の干物に見えたけど……まさかあれが、お湯を吸って膨らんだってこと?


 キシャアアアアアアアア!


 オコゼは耳をつんざくような鳴き声を上げた。

 扉という扉ががたがた鳴り、窓は割れそうにびりびり震える。


「ひいっ」

「お、お許しくだされぇ!」


 クマたちはすっかり竦み上がった。


「お忘れかね。ここでは殺生は禁止じゃよ」


 そこに、聞き覚えのある少年の声がした。

 いったいいつからそこにいたのか。湯守がにっこり笑って肩に白木の棒を乗せて、あさひの後ろに立っていた。

 その棒をすっと構えてクマたちに向ける。

 するとなぜか、クマたちはオコゼの声に震えあがったときよりもさらに怯えたように小さくなった。

 クマたちに狙いを定めるような湯守の仕草に、あさひはあれっと思った。

 その姿が、猟銃を構えているように見えたのだ。


「彼女はうちの大切な従業員じゃ。あまり無体をするなら容赦なく追い出すぞ。そうしたら二度とここで傷を癒すことはできなくなるが、いいんじゃな?」


 クマたちはぶるぶると首を横に振る。


「ここの湯は、深い傷でもたちどころに治す効能がある。おまえさんたちも猟師にやられたときに、ここの湯のおかげで命拾いしたことがあったよな?」


 こくこくと頷き、クマたちはあわててまた衝立を乗り越え、向こう側へと去っていった。

 それを見届けてから、湯守はへたりこんでいたあさひに目線を合わせて屈む。

 ここに来てからまだ日が浅いというのに、こうされるのはもう二度目だ。


「オコゼを持ってるなんて、おまえさんついとるのう」


 どこかいたずらっぽくも見える少年の顔で、湯守は笑った。


「……駅の売店で、オババにもらったんです。お守りだからって」

「おまえさん、もしかして姫神に気に入られたのかもしれんな」


 湯守はおかしそうにくすくすと声を上げて笑う。

 それまでもサービス業の鑑とでもいうように笑みを絶やさない彼ではあったが、このときは本心から面白がっているように見えた。


 そんな湯守の顔の横を、不意にふわふわしたものが過ぎる。

 あさひはぎょっとした。

 金魚のような大きさの魚が、長い尾鰭をなびかせながら、ふよふよと空中を泳いでいる。


「……そうかね。わしは別に構わんが。え? はいはい。わかっとるよ」

「ちょ、ちょっと」

「うん?」

「あの、もしかして、会話が成立……してます?」

「ああ、忘れとった。人間にはこの子の声が聞こえないんじゃったな。久しぶりに水を得て、とても喜んどるよ。おまえさんに感謝しとるから、お礼に守ってあげるそうじゃ。よかったのう」

「は、はあ……」


 おそらくは喜ぶべき事態なのだろうが、思考が追いつかない。混乱するあさひに向かって、オコゼはふわりと泳いで近づいてくる。

 一瞬ぎょっとしたが、間近でよくよく観察すると、金魚サイズに縮んだせいか、大きな目がくりくりとしていて、可愛らしく見えないこともない。

 あさひの反応の変化を察したのか、オコゼは尾鰭を嬉しそうに振って、あさひの頬に体をすり寄せてくる。

 そっと手を差し出すと、まるで手乗りの小鳥のように、オコゼはあさひの指先に止まった。そのまま「くるるっ」「くるるっ」とご機嫌で咽喉を鳴らしているところも、小鳥のようだ。


 安心したようにふっと息を吐いて、湯守は立ち上がる。


「さて、わしは獣の湯の湯守にちょっと謝ってくるとしよう。衝立を壊してしまったし、湯を荒らしてしまったからの」

「あっ、だったらあたしも一緒に――」

「大丈夫じゃよ。これも湯守の仕事じゃ。それよりわしの留守を頼んだぞ」


 ひらひらと手を振ってあさひを制すると、湯守は脱衣所の向こうへと消えていった。



     *

 


 まさかこんなに早く、ひとりで留守を任されることになるなんて想像していなかったあさひは、早速途方に暮れていた。

 一応、任されていた露天風呂の掃除の続きをやってみた。

 仕組みはまったくわからないが、湯船の底に沈んでいた落ち葉を完全に掻き出し終えると、勝手に湯張りが開始される。


 もうもうと湯気の上がる風呂場を後にすると、やることがなくなった。

 ここの温泉内部の間取りもまったく頭に入っていないから、せっかくだしこの機に多少でも覚えようと、館内をぐるぐる歩いてみたりもした。

 しかしなぜか、歩けば歩くほど、微妙に扉の配置や注意書きが変わっているようにも見えるのだ。

 あげくの果てには、予想通りあさひ自身が迷ってしまう有様だった。

 それでオコゼとふたり、客室の窓から顔をのぞかせて、ぼんやりしているというわけだった。


 せめて白夜が一緒にいてくれたら心強かったのだが、ゆうべから姿を見ていない。

 白夜自身も高位の物の怪だと言っていたから、本来の湯の方に戻ったのかもしれない。もともと物の怪や動物、人など、それぞれ湯は分かれてるって言ってたし。

 窓の外は、やはり今日も深い霧に包まれていた。

 まじまじと見ていれば、霧はひとつところに留まっているわけではなく、ごくゆっくりと移動しているのがわかる。そのとき、わずかに切れ間から森の木々が見えることもあったが、晴れる様子はなさそうだ。 


「くるるッ」


 耳元でオコゼが鳴く。

 つられて顔を上げると、オコゼはふいっと体の向きを変え、どこかへと泳ぎ去ってしまう。


「あっ、ちょっと、待ってよ。ひとりにしないで」


 オコゼの後を追って廊下に出たあさひは、ぎくりとして立ち止まる。

 そこに、疲れた表情をしたひとりの男性が佇んでいたのだ。


 帽子を被り、チェックのシャツにチノパン姿で、派手なオレンジ色のベストを身につけている。細長い黒のケースを肩に掛けていた。

 男性の姿に――正確にはその着衣に、あさひは見覚えがあった。

 彼が着ている、目を引く色のベストは、猟友会のメンバーが着ているものだ。あさひの祖父も狩猟をしていたから知っていたのだ。


「あっ、あの……」


 おずおずと声をかけると、廊下の窓から外を見ていた男性は、ゆっくりとした動作であさひの方を見た。

 年齢は六十歳になるかどうかといったあたりだろうか。髪にはだいぶ白いものが混じっていたが、まだ肌には張りがある。

 けれど血色は悪く、青白かった。


「あの、大丈夫ですか?」


 自分でも、かなり間抜けな物言いだなと思いながら、もう一度声をかける。

 せめて湯守について何度か接客の様子を見ていたなら、もう少しまともな声の掛け方もできただろうが、あさひにはこれが精いっぱいだった。


「ここは……?」

「温泉です。まほろば温泉郷というそうです」

「まほろば……」


 男性は呟くように言って、窓の外に視線を戻す。

 ここに初めて来たときのあさひのように、自分が置かれた状況を尋ねるでもなく、自分の身の上を語るでもない。ただ、静かに窓の外を見ている。

 間がもたなくなって、あさひは続けた。


「あたしもまだここに来たばかりで、あまり詳しくないんですが。ここは山の姫神さまが開いてくださった、特別な温泉郷だと聞いています」

「特別な、温泉……?」


 男性が、あさひの顔をまっすぐに見た。

 あさひの目を見ているようで見ていない、どこか虚ろな黒い目だった。

 背筋が冷える。

 だけど今は、湯守に代わって自分がここを預かっているのだ。あさひは自分で自分を鼓舞した。


「はい。ここは山で命を落とした方々が現世への思い残しを洗い流して癒し、来世へ出発するための力をつけていただく場所なのだそうです」


 完全に湯守の受け売りだが、この際仕方がない。冷や汗のにじむような思いで言葉を紡ぐ。


「山で……命を……」


 男性はまた、口の中で呟くように言って、そっと胸のあたりを押さえた。


「そうか、おれはやっぱり、死んだんだな」

「……覚えて、いらっしゃるのですか?」


 男性はゆっくりと頷いた。


「あの日、おれは、相棒とふたりで山に入ったんだ。鹿を撃つためだった。秋にたっぷり餌を食べた鹿は、脂がのってうまいから」

「……はい」

「だけど猟果なんてやつは結局、山の神さまからの授かりものだからねえ」


 オコゼがふわふわと漂ってきて、あさひの肩に乗る。


「そのときは神さまに見放されていたんだろうな。朝から全然獲物の気配はないわ、天気も崩れてくるわで、おれは諦めて帰ろうって提案したんだ」


 男性は、深く息を吐いた。


「だけど、相棒はもう少し粘ろうってきかなかった。おれは気楽な道楽の猟師だったが、相棒はビジネスとしてやっていく方向に力を入れ始めたみたいでね。

街に新しくできたフレンチレストランに、鹿肉をおろす契約を取り付けたとはりきっていたよ。だから、しばらく獲物に恵まれなくて焦っていたのかもねえ……」


 あさひも祖父の言葉やテレビなどで、たびたび耳にしたことがあった。

 最近はジビエ――つまり野生動物の肉を使った料理がブームで、安全で新鮮な鹿や猪の肉を欲しがる飲食店は増えているらしい。町おこしのために、積極的にジビエを活用するところもあるという。

 猟師の減少と高齢化で、野生動物たちが以前は来なかったような人里にまで下りてきて、野菜や庭先の果物などを食い荒らす被害が増加しているとも聞く。

 そうしたこともあいまって、狩猟に対する視線は熱くなっているらしい。

 だが、それゆえに不幸な事故も多く起こっているのだと、祖父は心配していたものだった。


「おれたちはそれぞれ離れたところで、もうひとふんばりすることにした。だけどやっぱり、だめなものはだめでさ。あきらめて、帰ろうと声をかけようとしたときだった。一発の銃声が聞こえたよ――」


 窓枠を掴んだ手は、青白いままだ。

 ふうー、と息を吐きながら、男性は言った。


「倒れながらおれが見たのは、真っ青な顔をした相棒だった」


 あさひの肩に止まっていたオコゼが、ふわふわと浮いて、男性の手の傍に降りる。

 奇妙な金魚のような生き物が宙を浮いているのに、男性はまったく動じていなかった。それどころか、その親指大の頭を指先で撫でる。


「たぶん、おれは誤射されたんだろうな。鹿と間違って、撃たれたんだ。相棒に」


 あさひは、男性にかける言葉が見つからなかった。 

 男性のような事故は、後をたたない。

 それはあさひにとってもひとごとではなかった。もちろん、亡くなった祖父が猟師だったからだ。


 祖父が狙うのは主に鹿だったが、まれに仲間がしとめた熊肉をわけてもらうこともあった。そんなとき、祖父はよくベテラン猟師仲間と鍋を囲んで酒をくみかわすのだった。

 祖母や猟師たちの妻は、あまり彼らの輪には加わらなかったが、彼らが捕らえてきた肉で鍋料理や唐揚げなどをこしらえてくれた。

 不思議とあさひは、この無骨な猟師たちが苦手ではなかった。

 それよりはむしろ、近所や親戚のご婦人たちに囲まれている方がもっとずっと苦手だった。彼女たちは悪気なく、あさひをじろじろと観察し、露骨にあわれみのまなざしを贈って寄越した。

 あさひの家では彼女が母の連れ子だと隠してはいなかったから、特に母が亡くなってからは父や祖父母へしきりに同情の言葉をかける者が多かった。

 なかにはあさひが席を外している隙に、父へ再婚をしきりに勧める者もいた。

 あさひには聞こえていないと思って、いざとなったらあさひは施設へ預けたらいい、などと言ってのける、自称世話焼きおばさんまでいた。


 だから、そんな世界から切り離された猟師たちとの空間は、あさひはとても気楽だったのかもしれない。

 孫娘を囲んで、ベテラン猟師たちは山の不思議な話に花を咲かせたり、興が乗ってくると祖父は得意のハーモニカを披露したりするのだった。


「あさひ坊や、こっちにおいで」

「はーい」


 呼ばれて祖父の膝に座る。

 祖父が演奏する曲を、揺れる囲炉裏の炎を眺めながら聞くのがあさひは好きだった。

 祖父は猟に出るようになってから、ハーモニカを覚えたらしい。

 はじめは狩りで山にひとりで野宿するとき、さみしさを紛らわせるために練習したらしいが、なかなかの腕前と仲間内では評判だった。「ふるさと」はそんな祖父がもっとも得意とする曲だった。


     *

 


「こちらが内湯で、あちらが露天風呂になっています」

「ありがとう」

「どうぞごゆっくりなさってください」


 自分が白夜に案内してもらったときの記憶をなぞって、あさひはひとまず猟師を風呂へと案内した。内湯の暖簾の奥へと男性が去ってから、どっと疲れが出た。

 本来なら部屋へ通してゆっくりしてもらってから風呂か食事にすべきだろうが、いかんせん元の職場ならともかく、ここはまだ、何から何までわからないことばかりだ。


「湯守さんってば、早く戻ってきてよー」


 つい弱音を吐いてしまう。


「はいはい、ただいま」

「ひゃっ!」


 ただのぼやきのつもりだったのに、背中から声をかけられて、あさひは飛び上がった。 

 白木の棒を肩に乗せた白作務衣の少年が、笑みを浮かべて立っていた。


「わしの留守を、ちゃんと守ってくれてたみたいじゃな」

「え、ええ……ちゃんとやれてたかどうかは、わからないけど」

「大丈夫じゃよ」


 湯守は笑顔のまま、踵を返す。


「さ、新しい仕事じゃ」

「えっ、え? なにが?」

「お客さんのお食事をご用意しなければならん。厨房に行こうかの」

「でも、あたしたちがいなくなったら、あのお客さん、迷っちゃうんじゃ」

「それなら心配は不要じゃ、ほら」


 湯守が指差す先には、いつの間にか白い陶板の注意書きが掲げられていた。


  お食事処はこちらです 

  お風呂上りにいらしてください  湯守


「あれ?」


 こんなの、さっきはあっただろうか。

 またしてもあさひは首を捻るが、深く考えるのはやめにした。

 いちいち真剣に考えていては、きっとここでは身がもたない。切り替えが早いというか、諦めがいいのがあさひの長所だ。


 どんなことが起こっても、投げ出しさえしなければそれなりになんとかなるものだ。それがあさひの信条だった。

 それに、この温泉宿の厨房には初めて入る。きのうのカレーはとても家庭的で美味しかったし、誰がどんなふうに作っているのか見るのも楽しみだった。


「うん? なんだか楽しそうじゃな」

「えっ? ああ、ここの料理長さんってどんなひとなのかなあ、って思って」

「ここの?」


 先を歩いていた湯守が、肩越しに不思議そうな目でふりかえる。

 板張りの階段の途中で足を止めたせいで、湯守があさひを見下ろすかっこうになる。あさひの方の背が高いので、見下ろされるのは新鮮だった。


「はい」


 あさひは幾分たじろぎながらも頷く。


「あたし、前に勤めてた旅館でも料理長のおじいさんに気に入られて、なにかとかわいがってもらってたんです。そこ、まかないがすごく美味しかったんです」

「ほう」

「それに、きのう、けいくんと食べたここのカレーも、すごく美味しかったんです。じんわりしみるみたいな、あったかい味でした。どんなひとがあれを作ってるのかなあ、って気になって。白夜さんはそこまで教えてくれなかったし。あっ、でも、お客さんのことを一番に考えた料理が出るとかなんとか、言ってたかも」


 湯守は何ごとかを言いかけてか、薄く唇を開いた。

 けれどはっとしたように、その表情が引きしまる。


「申し訳ないが、厨房は後でわしが行く。今は接客を優先するとしよう」

「え?」

「新しいお客さんが、おいでになったようじゃ」


 湯守は後ろ髪を揺らして階段を下り、今来た道を引き返していった。


     *



「おや、やっと来たかい。列車が到着してから、いくら待たせるんだい。そこのお客さんが待ちくたびれとるよ」


 まほろば温泉駅の待合室までやって来た湯守とあさひを見て、開口一番そう言い放ったのは売店のオババだ。狭い売店の中に相変わらず置物のように収まっている。


「すみません」


 頭を下げる湯守に、あたしのことはいいというようにオババは枯れ枝のような手を振った。

あさひも会釈をすると、オババはくいっと片方の眉を上げて、油紙のように乾いた薄い瞼の奥の目を瞬く。


「どうやらちゃんと湯守に会えたようだね」

「はい。ありがとうございました」


 それまであさひの肩に乗っていたオコゼがふわりと浮いて、オババに近寄っていく。

 嬉しそうにオババの周りを泳ぐオコゼは、差し出されたオババの指先に、小鳥のようにちょこんと止まった。


「おや、おまえもちゃっかり戻ったのかい」

「くるるッ!」

「そうかいそうかい。えらかったねえ」


 オババは褒めるようにオコゼの頭を撫でてやる。オコゼは嬉しそうに尾鰭をぷるぷる震わせて、目を細めた。そうしていると、なかなかかわいらしい。


「あの……オコゼは何て?」

「ん? ご主人さまをクマから守ったと言っとるよ」

「あっ、そうなんです。危なかったところを、助けてくれたんです」

「この子は役に立つんだよ。かわいがっておくれ」

「はい」

「おーい、あさひ坊」


 そこに湯守の声が飛んでくる。

 ついオババとの話に夢中になって、肝心の湯守たちをほったらかしにしてしまったせいか、その声は普段よりやや硬い。


「はっ、はい!」


 あさひは焦って湯守の元へと駆け寄った。

 湯守はペンキの剥げかかったベンチに座る老人の前に、片膝をついていた。

 老人はかなりの高齢のようだ。深い皺の刻まれた唇からは、ひゅうひゅうと頼りない呼吸の音が聞こえる。


「お客さんを宿にお連れする。その間、ちょっとこれを持っていてくれんか」

 そう言って湯守が差し出したのは、いつも肩にかけていたあの木製の棒だった。

「これ、なんですか?」

「湯かき棒じゃよ」

「湯かき棒? って、あの、お風呂のお湯をかきまわす棒ですか?」


 言いながら、あさひはまじまじと棒を見る。

 あさひの記憶にある湯かき棒より、湯守のこれは先端部の湯の抵抗が大きくなるように出っ張った部分が随分と小さい。

 ためつすがめつしているあさひに、湯守は小さく笑った。


「これはまあ、ここの湯守の象徴みたいなもんじゃな。魔法使いの杖と一緒じゃよ」


 あさひの脳裏に、白いひげの老人が杖を振りかざすシーンが浮かぶ。だが魔法使いというなら、この少年のような湯守より、ベンチに身を沈めた老人の方がよほど近い。

 湯守はまるでその脳内の光景を読んだかのように、また笑って、老人へと視線を戻した。


「さ、行きましょうか。どうぞ遠慮なく乗ってくだされ」

「あ、ああ……」


 湯守は老人の前に屈み、老人の両腕をその首に回すように言った。そのまま、よいしょと小さく勢いをつけて、彼を背負おうとする。


「えっ、ちょ、ちょっと」


 思わず声を上げたのはあさひだった。


「なんじゃね?」

「あの、その……湯守さん、つぶれちゃうんじゃないかと思って」


 湯守は目を丸くした。

 そういう顔をすると、歳相応に幼く見える。

 近くでまじまじ見ると老人は、老いたとはいえ、若い頃は肉体労働に従事していたことをうかがわせる、がっしりとした体つきだった。

 次の瞬間、湯守はぷっと大きく吹き出した。


「大丈夫じゃよ。言ったじゃろ。温泉郷はわしたち湯守の管轄する領域なんじゃ。湯守に不可能はないんじゃよ」


 言いながら、まさに風のような軽さで湯守は立ち上がる。

 力をなくした老人の手から、小さな切符がはらりと落ちた。

 若木のように華奢な少年など、老人の体の陰にすっぽり隠れてしまうほどなのに、それを全く感じさせない軽やかな足取りで、湯守は宿の方へと歩いていった。


     *



「おや、おじょうさん」


 湯かき棒を持ったまま、バタバタと廊下を走ってきたあさひにそう声をかけたのは、先ほど内湯に案内したあの猟師だった。


「いやあ、いいお湯だった。体の芯まであったまったよ」


 言葉どおり、青白かった肌には赤みが戻っていた。

 浴衣に丹前を羽織り、それまで着ていた服は小脇に抱えている。ちょうど暖簾をくぐったところだった。


「よ、よかった。お客さまを捕まえに――じゃなかった、ご案内しに来たんです」

「おれを?」


 きょとんと首を傾げる猟師に、あさひは頷く。


「はい。あちらにお食事の用意をしています」

「おお、これはありがたい。実はおなかがぺこぺこだったんだよ」


 目尻に細かな皺を寄せて、猟師は嬉しそうに笑う。

 あさひは彼の先に立って、さっき湯守に教えてもらったばかりの食事処へ案内していった。


 食事処は、数十畳あまりの広さの宴会場を、幾つかの衝立で仕切ったものだった。その一角、部屋の隅のテーブルにだけ、料理が運ばれている。既にそこには先客がいた。


「大変申し訳ございませんが、あちらのお客さまと、相席でお願いできませんか」


 あさひがおずおずと尋ねると、猟師は不思議そうな顔をした。

 それもそうだろう。通常、相席をお願いするのは、混み合っていて席に余裕がないときだ。

 だが、猟師とあの先客の他には、客はいない。

 相席の理由を尋ねられたときに備えて身構えていたあさひだったが、意外にも猟師は快く応じた。


「ああ、ああいいよ。こんな広いところでぽつんと食っても、飯はうまくないからねえ」


 首にかけたタオルで頭を拭きながら、猟師は笑う。

 内心では胸を撫で下ろしながら、あさひは空いていた座布団へと、猟師を誘導する。


「もうひとりのお客さまが到着されました。申し訳ありませんが、ご一緒させてください」


 膝をついてあさひが声をかける。


「やあやあ、冷えますなあ。ここの風呂には入られましたか。いいお湯でしたよ」


 愛想よく言いながら、猟師はどっかと腰を下ろした。

 それまで俯いていた先客の老人が、のろのろと顔を上げる。

 老人と猟師の視線が合ったとき、言いようのない緊張がその場に走った。

 猟師はぽかんと口を開け、老人は泣きそうな顔で猟師の顔を見つめている。 

 あさひは何が起こったのかわからず、おろおろとふたりの顔を交互に見やるばかりだ。肩に乗ったオコゼが、振り落とされまいと鰭で懸命にしがみついている。


「お……」


 先に口を開いたのは、猟師の方だった。


「おまえ……どうしてこんなところに」


 その声は、静かに震えていた。動揺を隠そうとしているようにも、怒りを抑えているようにも、ただ素朴に、驚いているようにも聞こえる声だった。

 老人は問いには答えずに、ただ肩を落として、こうべを垂れた。

 浴衣の膝の上に、ぱたぱたと染みができる。


「すまん……ほんとうにすまなかった」


 老人の声は水っぽくにじみ、語尾はかすれて宙に溶けた。


「ずっとおまえに謝りたかった。おれは、おれは……おまえに……」


 老人は畳に擦りつけんばかりに頭を下げる。猟師は拳を握りしめ、唇も横に引き結んで、その小さくな

った背中を見下ろしていた。


「おれはあのとき、焦っていた。おれが獲った鹿肉を買ってくれるところが見つかったはいいが、なかなか安定して納めることができなくて……信用をなくすんじゃないかって、怖くて……だから……だから、あのとき、とっさに黒いものが動いたとき、撃ってしまったんだ!」


 血を吐くようなその言葉を聞いて、ようやくあさひはあっと思った。


「……知ってたよ」


 意外にも、猟師の声は穏やかだった。

 老人は雷に打たれたように目を見開く。


「おれは、知ってたよ、おまえが大変なこと。おまえは黙ってたけど、お孫さん、小さな子どものガンだったんだってな。その治療費に息子さん夫婦の稼ぎだけでは大変だからって、おまえ、少しでも力になりたかったんだろう。

余計な心配かけまいとしてか、おまえは教えてくれなかったけど、おれは知ってたよ。母さんたちは話好きだからなあ。だからおれも鹿をたくさん獲って、おまえの力になりたいって思ってたんだよ」


 猟師は短いひげの生えた顎を撫でる。


「それにさ、おれ、死んでからもおまえたちの傍にいて、見てたんだぜ。おまえ、あんなことになってから、猟銃使うのやめちまったもんな。でも投げ出さずに罠猟に切り替えて、猪たくさん獲っただろ。

それでジビエレストランの人も喜んでくれたし、猪に野菜を食べられて困ってた地元の人にも喜ばれてたよな。それに何より、お前が資金援助してくれたおかげで、お孫さんの手術もうまくいったもんな」


 老人は酸欠になったように、苦しげな表情で口を動かした。

 その皺だらけの頬が、ひくひくとけいれんしている。


「おれ、おまえには感謝してるんだぜ。おれはおまえと違って、猟やったり釣りやったりして、いつまで経っても独身でふらふら気楽に生きてたからさ。おれがいなくなって、ひとりぼっちになったおふくろの面倒、最期まで見てくれただろ」


 老人はたるんだ瞼の下の目を瞬いた。

 驚きに満ちたそのまなざしに、猟師は頷く。


「おまえは気づかなかったがな。おれ、ずっと傍で見てたんだぜ。おれはさ、生きてても、きっといつまでも好き勝手ばかりして、おふくろには世話ばっかりかけたと思うんだ。だからおれにできなかったことをおまえがやってくれて、おれ、おまえにはすごく感謝してる。おふくろもきっとそうだと思う」

「お、お……」

「ありがとうな。やっぱりおれの相棒は、おまえしかいないよ」

「う、ううう……」


 老人はあちこち抜けた歯を食いしばって、ぼろぼろと涙を流す。

 そこに、場の緊張を一気に崩すような、元気のよい声が響いた。


「お待たせいたしました」


 立っていたのは、ほかほかと湯気の立つ盆を持った湯守だった。


「当宿名物、鹿鍋でございます」


 畳に膝をついて盆を置いた湯守が、客ふたりの前に差し出したのは、平べったいすき焼き用の鉄鍋に入った料理だった。

 赤身の肉と長葱、細長いネマガリダケのタケノコ、白菜に人参など、たっぷりの野菜にはほどよく火が通り、くつくつと音を立てていた。肉の甘さと醤油が混じった、芳醇な香りが漂う。


「おお、こりゃあいい。懐かしいにおいだなあ」


 目を細める猟師に、湯守は朱塗りの椀に木の杓子で鍋の中身を取り分けて渡した。

 続けて老人にも渡す。老人は涙で濡れた目で、手の中のあたたかな一品を見下ろしていた。

 息を吹きかけていくらか覚ました後、ずずっと音を立てて、猟師は汁をすする。


「ああ、うまい……」


 長い長い、溜息が漏れた。


「おまえとよく食った鹿鍋の味がするよ。ほら、おまえも食ってみろよ」


 促され、老人はごくゆっくりとした動きで、椀を口元へ運ぶ。

 少しずつ冷ましながら、それでも手を止めずに汁を咽喉の奥へと流しこんだ。


「……うまい」

「だろう?」

「ああ、うまい。確かに昔の味だ。うまいなあ……」


 涙をにじませながら、老人はやわらかそうに煮えた肉と野菜に箸をつけた。

 猟師は細長いタケノコを箸でつまんで、しみじみと眺めた。


「春になるとさ、おまえとおれで、このネマガリダケも採りに行ったよなあ」

「……そうだなあ」

「都会から来た業者が買ってくれるんで、いい小遣い稼ぎになるもんだからさ。おまえ、調子に乗って山の奥まで入っちまって、遭難しかけたことがあったよな」

「おいおい。あれはもうだいぶ昔の話だろう」

「うちのおじいちゃんも、そうでしたね」

「うん?」


 つい勢いで会話に混じってしまったあさひを、猟師と老人は不思議そうに見る。

 その視線にあっと気づいて、あさひは焦った。


「す、すみません。おふたりのお話を邪魔して」

「いいや、全然邪魔なんかじゃないよ」


 老人が、深い皺の刻まれた目を細める。


「おじょうさんのところのおじいさんも、タケノコ採りをしてたのかね」

「はい……あたしのおじい――祖父も秋から冬にかけては猟師をやってました。だけど春になると待ちかねたみたいに鉄砲を放り出して、山菜採りに夢中になってました」

「おお、そうかい。おじょうさんのおじいさんは、どこのお人かね」


 猟師が目を細めた。


「うちは、花巻です。祖父は花巻から遠野あたりの山に行っていたようです」

「おや、じゃあもしかして、わしらとどこかで行き会っていたかもしれんねえ」

「そうかもしれませんね……祖父は毎年、タラの芽からワラビからネマガリダケから、それこそ山のように採ってきてましたよ。祖母の膝の調子が悪くて、あまり山には行けなくなってしまったので、『おばあちゃんの分も採るんだ』って言って、八十近いのに、張り切ってました」


 うんうんというように、猟師と老人は頷く。


「さっき仰ってたように、ネマガリダケってちょっとしたお金になるんですよね。うちの近所にも、東京の業者が買い付けに来てました。キロ幾らで買ってくんですよね。水煮にして瓶に詰めて、スーパーで売るんだって」

「そうそう。だからこいつさ、孫のために少しでも稼ごうって調子に乗ってさ」


 猟師は笑いながら老人を指さす。


「夕方になっても帰ってこないって、大騒ぎになったんだよ。クマにでも襲われてるんじゃないかってね。タケノコはクマにとっても大好物だからね」


 先ほどの風呂場での事態を思い出して、あさひは苦笑いだ。


「警察まで呼んで、近所の衆が総出で探しに行こうってなったらさ。こいつ、タケノコ詰め込み過ぎて重い袋担いで、よろよろ山から下りてきやがった」

「ああ、あんときはまいったなあ。お巡りさんにもこってり絞られたよ」


 老人はぺちんとおでこを叩く。


「でもこいつ、三日もしたらけろっとしてまた山に入ってたけどな」


 すかさず猟師が囁いたので、あさひは笑った。


「田舎で、ましておれたちみたいな年寄りには、現金が稼げる機会なんか滅多にないからなあ。そのくせ、何をするにも金がかかる。まさに目の色変えて採ってたな」

「そうだなあ。今にして思えば、あんなにも夢中になるほどのことでもなかったような気もするけどな」

「まあでも、楽しかったな」

「そうだな。楽しかったなあ」

 老人と猟師はまた椀の汁をしみじみと啜る。


 そんな三人の様子を、湯守はやさしい表情で見守っていた。その膝の上では、オコゼが丸くなっていた。


     *



「ここの料理長さんって、すごいですね」


 湯かき棒を肩に乗せて廊下を歩く湯守に、あさひは勢いこんで語る。


「だって、けいくんのカレーといい、さっきの鹿鍋といい、お客さまが一番食べたいって思ってるものがわかるみたいなんだもの」

「実際、わかるんじゃよ」


 あっけらかんとした様子で肩越しに言われ、あさひは立ち止まる。


「え?」

「まほろば温泉の湯守たるもの、お客さんの好みくらいはきちんと把握できなきゃ務まらんからのう。亡くなる間際、心に浮かんだ料理をお出しするのがコツじゃな」

「え、えっ? それってつまり、湯守さんが料理長も兼ねてるってことですか?」

「もちろんそうじゃ。前にも言ったじゃろ。ここの宿の従業員は、わししかおらんからの」


 呆気に取られているあさひを、湯守はどこか意地悪くも見える、満面の笑みをたたえてふりむく。


「さ、そういうわけなんで、あさひ坊の仕事はまだまだ溜まっとるぞ」

 






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