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第一話 まほろばの温泉郷


 ガタンという列車の振動で、菊池あさひは目が覚めた。

 ぼんやりと目をしばたきながら、ダウンコートのポケットからスマホを取り出す。ストラップに付けた鈴が鳴った。

 まだ二十時前だった。最寄りのJR土沢駅から釜石線に乗ってから、二十分も経っていない。

 乗客はあさひのほかにはふたりだけ。これから夜勤なのか、それとも盛岡方面に帰るのか、中年の男性と女性がひとりずつ、離れて座っている。

 土沢駅は宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」の始発駅のモデルとなった場所だと言われているため、夏は観光客も訪れるが、真冬のこの時期にはほとんど見かけない。

 車窓を流れ去る空には、薄く霧がかかり始めていた。


『予定どおり八時半くらいに盛岡に到着するよー♪』

SNSのメッセージで、親友の小夜子に報告を入れる。


 返事はすぐに返ってきた。


『了解!』 

『仕事が終わったら駅まで迎えに行くから、お茶でも飲んで待ってて』

『なんか美味しいものでも食べようね』


 ありがとうと返信して再び車窓に目を向けた。

 列車の窓に映るのは、疲れた顔の女性だ。このところの乾燥で、頬と口元が粉を吹いている。しばらく伸ばしっぱなしの、ひっつめの黒髪には、まだ二十代だというのに、生え際のあたりにちらりと白いものが見えた。

 銀の盆のように明るい月が、雪をまとった山の稜線と田圃を照らす。薄絹のような霧にやさしく包まれて、月もゆっくりとその貌を隠しつつあった。

 そんな風景を眺めながら、あさひはまたうとうとと眠りに落ちていったのだった。




 次にあさひが目を覚ましたのは、列車がどこかの駅に停車したときだった。


『えー、次は終点。まほろば温泉駅ぃ~、まほろば温泉駅ぃ~』


 童謡「ふるさと」のメロディに乗せて、車内にアナウンスが流れる。

 冷水を頭から浴びせかけられたように、あさひはがばりと体を起こした。俯いて寝ていたせいで首が痛んだが、それどころではない。


『このたびは、まほろば電鉄をご利用いただき、まことにありがとうございました。どなたさまも、お忘れものにご注意ください』


 いつの間にか、乗客はあさひひとりだけになっていた。


(もしかして乗り過ごした?)


 あわてふためいてバッグを肩にかけ、ホームに飛び出す。

 直後、プシューという空気音とともに、無情にもドアは閉まった。

 行先表示が「回送」に変わった列車は、呆然と見送るあさひを残し、車輪の音を響かせて霧の中を走り去ってしまう。


 軽いパニックになっていたあさひは、このときになってようやく気付いたのだ。

 毎日のように通勤でも使って、なじみがあったはずの釜石線。その路線に、「まほろば温泉駅」なんて名前の駅なんてない、ということに。


 改札口はがらんとしていて無人だった。

 途方に暮れたまま、とぼとぼと改札を通り抜ける。

 振り仰ぐと、改札の真上には時刻表が掲示されていた。


 けれどそこには、

 まほろば温泉駅 時刻表

 下り 現世うつしよ行き 随時 

 上り 幽世かくりよ行き 随時

 とあるだけだ。


 列車の到着予定時刻もなければ、発車予定時刻もない。 


(……ここ、どこ?)


 改札口の先は、待合室になっていた。

 壁は埃で汚れ、黄ばんで破れかけた飲み物や薬のポスターが画鋲で貼られている。

 ペンキの剥げかけた木製のベンチが四基、鼠色のコンクリートの床に、ロの字の形に並べられていた。

 その真ん中にでんと鎮座しているのは、薪ストーブだった。小窓の中には、ちらちらと踊る橙色の炎が見える。そのおかげで、ほのかな温かさが室内を満たしていた。

 

 ストーブの上には大きなやかんが置かれ、湯気がしゅんしゅんと吐き出されている。

 片隅に置かれたタバコと缶ジュースの自動販売機は、時が止まったように白く埃をかぶっていた。

 改札口の斜め向かいには、壁に埋まるようにしてこじんまりとした売店があった。


「おやまあ、こりゃあ珍しい」


 北風のようにしゃがれた声がした。

 あさひはびくっとしてすくみ上がる。

 狭いスペースにうずたかく積まれた新聞や菓子などの間に埋もれるようにして、小柄な老婆が座っていた。売り物と同化していて、まったく気づかなかった。


 真っ白な蓬髪には、木の葉のかけらのようなものが絡みついている。身につけているのはだいぶ着古した印象の半纏。眉毛はほぼないといってよいほどに薄く、頬はたるみ、刻まれた皺は深い。

 目だけがどんぐりのようにぎょろりとして黒く大きく、たるんだ瞼の間からあさひを見すえていた。

 驚きで声も出ないあさひに、老婆は「ひひひっ」と楽しげに笑う。


「ここは無人駅だからね。切符はそこの箱に入れな」


 そう言って老婆は、改札口にちょこんと置かれた、賽銭箱のような形の木箱を指さした。

 そうだった、切符切符。

 あさひはコートのポケットを探る。手に触れた切符の感触に安堵して引っ張り出して、どきりとした。


 そこには「土沢→まほろば温泉」と印刷されていたのだ。

 あさひは絶句した。こんな切符、買った記憶はない。

それに、ちゃんと盛岡行きの電車に乗ったはず。親友が――小夜子が待ってるから、行かなきゃいけないのに。


『仕事が終わったら駅まで迎えに行くから』


 そうメッセージを送ってきてくれた小夜子。雪のように真っ白な肌に、切れ長の目をした彼女の笑顔が目に浮かぶ。

 会えるのは久しぶりなのに。彼女が待っててくれるはずなのに。

 混乱がおさまらないまま、あさひは呆然と木箱に切符を入れた。そんなあさひを、老婆はちょいちょいと手招く。


「おじょうさん、おひとつどうだい。このあたりじゃ有名なお守りだよ。このオババの手作りさ」


 そう言ってオババがどこからか取り出したものをつられてのぞきこんで、あさひは「ひゃっ」と情けない悲鳴を上げた。

 ミイラのようにカラカラになった、干物のような奇怪なもの。トゲだか爪だか鰭だかわからないものも見える。やたらに大きい眼窩がぽっかりと空いて、うらめしそうにあさひを見上げているように感じた。

 それが、同じように干からびたオババの手のひらに乗せられていた。


「なっ、なんですか、これ」


 その反応に満足そうにまた「ひひひっ」とオババは笑う。


「オコゼさ」

「オ、オコゼ?」

「大きい声じゃあ言えないがね」


 オババは声をひそめる。


「このあたりの土地をおさめる姫神さまは、そりゃあ器量が悪くてねえ。こいつみたいに、自分より不細工なものを見ると、安心するのさ。ここじゃ、何より役立つお守りだよ」

「は、はあ……」


 あらためてあさひはオババの手の中に目を落とした。

 神さまだお守りだと、観光でもしているときならともなく、こんなときに言われても困るだけだ。

 どうやって断り、さっさと盛岡に戻ろうかということばかり逡巡していたあさひだったが、ふと頭の片隅から聞こえてきた声があった。


「このあたりの山にはね、女の神さまがいるんだよ。だから昔は、女のひとは山に入っちゃいけないって言われてたんだ」


 あれはまだ幼稚園に通っていた頃のこと。

手を繋いであぜ道を歩きながら、そう言ったのは亡き祖父だった。

 冬がすぐそこまで迫っていた。紅葉の盛りを過ぎた木々は、はらはらと葉を落とし、空は灰色に染まっていた。

 東北地方の晩秋の空――とりわけ黄昏どきの空は、わけもなくさみしさを胸にしみこませてくる。

 それは幼い子どもにとっても例外ではなかった。

 あさひは祖父のあたたかくて大きな手を、ぎゅうっと両手でにぎりしめた。


「どうして? じゃああさひも、お山に入っちゃいけないの?」

「姫神さまは、ちょっとだけ焼きもちやきなんだ。だから、あさひみたいなかわいい子がお山に入ると、焼きもちをやいてしまうんだよ」

「えー、そんなのやだよう。あさひもおじいちゃんといっしょにお山に行きたい」

「だからね、昔のひとは『オコゼ』の干物を持って山に入ったんだ」

「おこぜ?」

「そうだよ。オコゼっていうのは、見た目がとってもこわいお魚でね。それを持っていると、姫神さまは『ああ、自分よりも器量が悪いものがいた』と思って安心しなさるんだよ」

「おじいちゃんはおこぜ、持ってるの?」


 すると祖父は、たっぷりと白いひげをたくわえた顔を横に振って、からからと笑った。


「いいや。実をいうとね、おじいちゃんもまだオコゼって見たことがないんだ」

「なあんだ、そうなんだあ」

「実は今の話も猟師仲間から聞いたのさ。一度でいいから、おじいちゃんも見てみたいと思ってるんだよ」


 祖父は普段は農業に従事していたが、農閑期には地元の花巻市や近隣の遠野市の奥山にわけいり、鹿や猪を撃つ猟師だった。


 なつかしさで胸がいっぱいになる。

 あのとき祖父が言っていたのは、この枯れ木のようなオババのオコゼみたいなものだったのだろうか。

 そう思ったら、つい代金を尋ねていた。


 ばかみたい。こんなの持ってたって、どうにかなるものじゃないのに。それより、あんた今日から無職でしょ。少しでも節約しないといけないんじゃなかったの、あさひ。

 自分自身の罵倒に耐えていたあさひに、オババは「あんたの持ってるものと交換でいいよ。ひひひ」と笑いかける。


「交換?」

「そうともさ。ここの売店では、銭はいらないよ。ほしいものがあれば、代わりに何かを置いていくんだ。それがここでのならわしさ」


 わけがわからないことばかりだ。

 だけど言い出してしまった手前、この奇妙な取引を終わらせるには、オコゼのお代になりそうなものを渡すしかない。

 困ったあさひはバッグの中に手を突っこんだ。その指先に、ひんやりとした小さなものが触れる。取り出してみると、キラキラしたボタンだった。


 それを見て思い出した。

 カーディガンのボタンが腕時計のベルトに引っかかって取れたのを、後で直そうと思ってバッグに入れてそのままだったのだ。


「ああいいね、それでいいよ」

「えっ、これですか?」

「さっきからそう言ってるだろ。ほれ。さっさとお寄越し」


 オババに急かされて、あさひはボタンを渡す。

 引き換えに、オババはオコゼを小さな巾着袋に入れて渡してくれた。輪になった長い紐がついている。


「そいつを首からかけときな。お守りだからね」

「は、はあ……ありがとうございます」


 こわばった声で礼を言い、あさひはぎこちなく紐を頭から通した。

 袋の中でカサリと乾いた音が鳴ってぞわりと肌が粟立ったが、お年寄りの言うことには無条件に従ってしまうのは、もうあさひの性分のようなものだった。


 そこに、かすかにプアーンと警笛のような音が聞こえた。

 つられて改札口の方をふりむく。

 音はもう一度、聞こえた。さきほどよりもはっきりと。

 間違いない。列車が来たのだ。


 あさひは改札口から飛び出す。

 オババは止めなかった。

 霧の中に、ぼんやりと一対のヘッドランプが浮かび上がる。

 あさひが乗ってきたのとは逆の方向から、二両編成の列車がホームへと滑りこんできた。

 線路は一本しかなく、おまけにここは終点だ。

 うまくあれに乗れれば、戻れるかも。


 期待をこめて見つめるあさひの目の前で、プシューと音を立ててドアが開く。

 だが、開いたドアから一斉に降りてきたのは――まるでヒトダマのような、青白い炎の一団だった。

 ぞろぞろと列をなして、青い炎の群れは改札を抜けてゆく。みな、律儀にあの木箱へ切符を入れて。

 

 ――なっ、ななな、なに、これ!?


 今度こそあさひは凍りついたように動けなくなった。

 売店の奥で、「ひひひっ」とオババは笑っている。


「そいつはただの狐火さ。ここじゃあ悪さしないから、怖がりなさんな」

「えっ、き、きつね?」


 そんなあさひに向かって、青白い炎のひとつがふわりと近づいてきた。

 炎はあさひの鼻先でくるりと一回転すると、雪のように真っ白な狐の姿になった。

 ススキの穂のようにふわふわの豊かな尻尾を左右に揺らして宙に浮いたまま、あさひの顔をのぞきこむ。

 反射的にあさひはのけぞった。


「おやおやこれは珍しい。人の子がまほろばの温泉郷にいるなんて。うっかり迷いこんだかな?」

「それがねえ白夜びゃくやや。そこのおじょうさんは、ちゃあんと切符を持っておいでなのさ」

「おや」


 白狐は面白そうに、琥珀を思わせる色の目を細めた。

 ぴんと尖って形のいい右の耳につけられた金色の鈴が、りんと涼やかな音を立てる。


「それはますます珍しいね。もしや姫神がお呼びになったのかなあ?」

「いいや、ここは湯守が姫神から預かっている領域さ。いかな姫神とて、湯守のすることにそうそう口出しはすまいよ」

「ふうむ。それはそうだ。となると湯守が呼んだのかなあ。いずれにしても、湯守に訊いてみないとね。面白い。実に面白いよ」


 枯れ木のようなオババと白夜(というのがこの白狐の名らしい)、奇妙なふたりは、あさひを置いてどんどん話を進めていく。

 もうこうなっては、どこからどう驚いたらいいのかわからない。

 そんなあさひの様子に気づいたらしい白夜が、小首を傾げた。


「うん? どうかした? そんな、酸欠の魚みたいにぱくぱくしちゃって」

「えっ、あっ、その……」


 口ごもるあさひに、オババが北風のような声で笑う。


「さっきの放送を聞いとらんかったのかい? ここはまほろば温泉さ。ひとならざるものたちのための温泉郷だよ」


 言われてみれば、アナウンスで流れた駅の名前がそんなだったような。

 ん、ちょっと待って。

 今、ひとならざるものの温泉って、聞こえた気がしたんだけど……


「そうだよ。ここは、人間じゃないモノたちを癒すための温泉郷なんだ」


 まるであさひが考えていることを読んだように、白夜は白くたっぷりした毛並みの胸を、誇らしげにそらした。


「この地一帯をおさめる姫神は、そりゃあ慈悲深いお方でね。地上の温泉は人間たちが独占しちゃってるから、人間以外のモノの心と体を癒すための温泉を、与えてくださったんだ。それが、ここってわけ。ちなみに、霧みたいに見えるのは、普通の霧じゃないよ。温泉の湯気なんだ。ここは湯気の結界で守られた聖域なんだ」


 そうしている間にも、無数の狐火がゆうらりゆらりと揺れながら、あさひたちの横を通り過ぎていく。

 やがて車内が空になると、ドアはまたひとりでにプシューと閉まり、ゴトンゴトンと車輪の音を響かせながら、何処かへと去っていくのだった。


「こと人間の場合、山で命を落とした者以外がここに来るための手段は姫神に切符をいただくか、温泉の番人たる湯守に切符を発行してもらうかの二通りしかない。どうやらきみは何らかの理由があって、湯守の切符を渡されたのかな」


 白い狐の言葉を、あさひはまるで異国の言語を耳にするような心持ちで聞いていた。

 白夜は何かいいことを思いついたように、琥珀色の目をきらりと輝かせた。


「そうだ! ぼくが湯守のところまで連れていってあげようか! 湯守なら帰りの切符をくれるかもしれないよ」

「えっ」

「それはいいねえ。あんたがついててくれるなら、安心だよ」


 オババはまるでこれで一件落着だとでもいうように目を細める。

 が、身の振り方を勝手に決められてしまったあさひはそれどころではない。


「で、でも……」

「ここでただ待ってても帰れやしないよ。あんたは帰りの切符を持ってないだろ?」

「たしかに、持ってない、ですけど……」


 どうせここ、無人駅みたいだし。

 電車が来たらとりあえず乗ってしまえば、こっちのものでは……。

 そんな考えがあさひの脳内を過ぎったことに気づいたかのように、オババは「ひひひっ」とひとしきり笑った後で言った。


「あの電車は湯守の忠実なしもべでね。切符がない者は絶対に乗せないのさ。もし、切符がないのに無理やり乗ろうとしたら――」

「の、乗ろうとしたら?」

「そりゃあ、世にも恐ろしいことになるねえ。ひっひっひ」


 いったい、何が起こるんですかとは、とてもではないが怖くて訊けない。

 あさひは白夜に手を引かれるままに、待合室を後にしたのだった。


     *


 温泉駅というだけあって――いや、温泉駅とはよくいったものだというべきか。

駅の待合室の向こうには、板張りの廊下が伸びており、そのまま温泉宿に通じているらしかった。駅直通の宿というわけだ。


 さきほどわらわらと電車から降りて姿を消した狐火たちも、この宿のどこかでくつろいでいるらしい。

 古びた木造の校舎を思わせる板壁に沿って、白く豊かな尻尾を揺らしながら白夜は進んでいく。おどおどしながら、あさひはその後に続いた。


「あ、あの……まだ行くんですか?」

「あとちょっとだよ」

「あたしたち、湯守……ってひとに、会いに行くんです、よね?」

「うん♪」


 白夜の足取りには、相変わらず迷いがない。

 廊下に響くのは、白夜の耳の鈴の澄んだチリンチリンという音と、あさひが足を踏み出すたびにギイギイと鳴る板の音だけだ。

 もしここが本当に白夜やオババの言うように温泉宿なら、従業員やほかの温泉客の姿くらい見かけそうなものだが、さきほどからその手の者には全く出会っていない。


 そのうち、無限に続くかに思われた板壁の一部に、ぽつんと白くて四角いものが見えてきた。

 近づいて見ると、どうやら注意書きのようだ。

 白く細長い陶板のような素材でできた注意書きが、板壁に釘でとめられている。


  当宿自慢の露天風呂は右へおゆきください

  豊富な種類が自慢の内湯は左へおゆきください


「そうそう。ここの宿の露天風呂はすごく広くて気持ちいいんだよー。せっかくだし、入ってく?」


 前足でちょんちょんと行く先を指し示し、白夜は目を細めた。

 廊下はここでYの字に分かれている。


「あたし、別に温泉に入りに来たわけじゃないんで……」

「なーんだー」


 白夜はがっくりと肩を落とした。


「そうだよね。きみは湯守に会いに来たんだったよね」

「はい……」


 あまりの白狐の落ち込みように、あさひはどこか申しわけない気分になってくる。

 それはそうだ。

 白夜は温泉に入ることがそもそもの目的で、あくまであさひには親切で付き合ってくれているのだから――たぶん。


 もしここに祖父がいたら、何と思うだろう。ぽつりとあさひは思い出す。

 深い山に分け入り、鹿を撃つ猟師だった祖父は、山で見聞きする不思議な出来事について、寝物語にあさひに語ってきかせてくれたものだ。


 あさひたちの住んでいた遠野や花巻のあたりでは、昔から狸や狐に化かされる話が多かったそうだ。

 だが祖父いわく、それはけっして昔話の中だけのものではなくて、祖父や祖父の知り合いも、不思議な体験をしたことがあるらしい。


 祖父は夜、狩りの途中で日が暮れて、火を熾して野宿しているとき、幾度も青白い狐火を見たという。

 祖父の知り合いで普段は林業を営む猟師は、自分と猟犬以外はだれもいないはずの深山で、ギーコギーコと木の幹を鋸で引く音を聞いたそうだ。しかも、ザザザザと周囲の木々をかきわけ、ドーンと地響きを立てて倒れる音まで。当然、そんな音をさせている者の姿はどこにも見えないし、倒れた木もなかったそうだ。

 山仕事をする人々の間では、こういうものはたいてい、狸か狐のしわざだということになっているらしい。


「そうだ。そういえばまだ君の名前、きいてなかったね」


 白夜はたっぷりとした尻尾を揺らしながらふりむく。

 もし祖父が生きていて、ここにいたなら、きっと大切な孫娘が狐に化かされていると思っただろう。

いやもしかして、とうに化かされているのかもしれないが……


「あさひっていいます」

「へえ、あさひちゃんか。きれいな名前だね」

「ありがとうございます。母がつけてくれたんです。……あの、ところで、どっちに行くんですか?」

「そうだねえ。じゃあ右に行こうかな」

「湯守さんは、露天風呂のほうにいるんですか?」

「わかんない♪」


 へへっ、と白夜は笑うと、Y字の廊下を右に向かって歩き出す。

 ため息をひとつ落として、あさひはその後に続いた。

 

  ここから先では殺生は厳禁です

  どなたさまも こころおだやかに お過ごしください


「えっ」


 またもや見えてきた注意書きに、あさひは思わず声を上げた。


「どうしたの?」


 先ゆく白夜が足を止める。


「だ、だって。殺生って……」

「ああ、生き物を殺しちゃダメ、って意味だよ」

「いえ、意味は知ってるんですけど……」


 あさひはぞっとした。

 わざわざこんな注意書きをもうけるということは、少なくともそうしなければいけないだけの理由があるということだろう。

 肩からずり落ちてきたバッグを掛け直し、周囲を見回す。


「どうしたのさ、急にきょろきょろして」

「ここって……殺生禁止にするような怖いこと、起きるんですか?」


 真剣なあさひの表情を見て、白夜はプッと吹き出した。


「なあんだ。さっきからそれを心配してたのか」

「だ、だって何だか物騒じゃないですか。ふつうの温泉には、こんなのありませんよ」

「そりゃあ、ここはふつうの温泉じゃないからねえ」


 けらけらと白夜は笑う。

 もっともな話だが、あさひにとっては笑いごとじゃない。


「だーいじょうぶ。湯守の目が届くところで、悪さするやつはいないから」


 その湯守さんになかなか会えないんですけどね……

 あさひは引きつった顔のまま、白夜についてゆくしかなかったのだった。


 それからまたしばらく歩くと、ふんわりと温かい空気の流れを肌に感じた。

 目の前に初めて現れたのは、ガラスのはまった二枚の木製の引き戸。それぞれに男湯と女湯と染め抜かれた、藍と朱の暖簾が掛かっている。


  ここでお履物の泥は落としてください

  遠いところ おつかれさまでした

  どうぞ こころゆくまで ごゆっくりなさってください


 みたび登場した陶板に、あさひはそれまでよりも幾分落ち着いて対峙することができた。


(うーん。何だっけ、こういうの。どっかで読んだことがあるような……)


 首を傾げて腕組みしているうち、思い出した。


(宮沢賢治の「注文の多い料理店」だったかな) 


 小さい頃、図書館で借りて何度も繰り返し読んだ物語だ。

 狩人たちが迷いこんだ不思議な料理店には人影がなく、扉をひとつひとつ潜り抜けていくたびに、やれ壺の中の塩を体にすりこめだの、やれ服を脱いで金属製のものは外せだのという奇妙な注意書きがあるのだ。

 物語のクライマックス、最後の一枚の扉のむこうにいたのは、ぎらぎらと光る怪しいふたつの目で――


 そのとき、あさひのダウンコートの裾が、何の前触れもなくぐいっと引かれた。


「ひゃっ」


 自分でも聞いたことがないくらいに情けない声を出して飛び退く。

 そこにいたのは、四、五歳くらいの男の子だった。


「えっ……?」


 混乱したまま、自分で自分の体を抱きしめるあさひを、男の子は大きな黒い目でじっと見上げる。どう見ても、ふつうの人間の男の子のようだ。


「ぼ、ぼく……どうしたの? お姉さんに、なにか用?」


 あさひがおそるおそる尋ねると、男の子の顔が、くしゃりとゆがむ。

 その大きな目に、みるみる涙の粒が盛り上がり、あふれた。


「うわああああああん!」


 廊下に響き渡る大音量に、おろおろとあさひは白夜の方をふりかえった。

 当の白狐はあさひたちから少し離れた場所で、ゆったりと尻尾を揺らしている。

ふざけた口調とは裏腹に、どこか表情の読み取りにくい狐面は、それまで以上に何を考えているのかわからない。


「ちょ、ちょっとぼく、泣かないで。どうしたの?」


 目線を合わせて屈みこんだあさひに、男の子は両手で涙をぬぐいながら答えた。


「ママと……パパがいないの」

「ぼく、迷子になったの?」


 ひっくひっくとしゃくり上げながら、男の子は何度も頷く。


「ぼく、どこから来たの?」

「わかんない」

「わかんないって……もしかして、電車に乗ってきたのかな? ほら、そこに駅があったでしょ?」

「わかんない。本当だよ。ぼく、ウソついてないよ」


 涙をぽろぽろこぼしている男の子がかわいそうになって、頭を撫でてあげようとあさひはそっと手を伸ばした。

 すると、怯えたような顔で男の子は自分の頭をかばう。


「たたかないで。ぼく、ウソつきじゃないよ」

「たたかないよ。大丈夫」

「ほんと?」

「ほんとだよ。ほらね」


 あさひがやさしく頭を撫でると、男の子はやっと安心したように表情をゆるめた。


「ぼくね、パパとママとまあくんといっしょに、キャンプに来たの」

「まあくん?」

「ぼくの弟だよ。まさとっていうんだ。きょねん生まれたばかりなんだよ。すごくかわいいんだ」

「そっか」

「でもね、車の中でね、まあくんがおもちゃでぼくのことをたたいてきたの。すごく痛かったから、ぼくがしかえししたら、ママにおこられんだ。ママは『けいくんみたいなわるい子には、おしおきね』っていって、ぼくを車からおろしたの」


 男の子が身につけていたのは、コットン地の薄手の長袖Tシャツに膝丈のズボンだけだった。

 外を歩くのにまだコートが手放せないこの時期に、家族でキャンプなどするのかどうか、独身のあさひにはわからない。だがいずれにせよこの服装で山歩きをするのは、相当寒かったに違いなかった。 

 あさひは自分の首にかけていたマフラーを外して、男の子の首に巻いてあげた。


「ぼく、びっくりして、こわくって。だからがんばって、おいかけたんだ。でも、車は行っちゃって……だからね、ぼく、なきながら、がんばってあるいたの」


 目元を真っ赤にしながら、男の子は続ける。


「ずっとずっとあるいて。さむくて、おなかがへって、くらくなって……あっ、そうだ。あしがすべって、ころんだの。それでね、さむくて、ねむくなって……めがさめたら、ここにいたんだ」


 あさひはうーんと首を傾げた。

(じゃあこの子は、歩いているうちにこの変な温泉に迷いこんじゃったってことかな?) 


「そっか……じゃあけいくん、お姉さんといっしょに行く?」


 男の子はきょとんとしてあさひの顔を見上げる。

 あさひはにこっと笑って、彼の頭を撫でた。


「お姉さんね、このきつねさんと一緒に、湯守さんってひとを探してるの。けいくんも一緒に行こうか? もしかして、ママたちに連絡してもらえるかもしれないし」


 あさひの視界を、ふわりと真っ白なものが横切る。

 いつの間にかすぐそばに来ていた白夜が、男の子の体に巻き付くように、その身を寄せていた。

ふわふわの白い獣を、男の子は初めぽかんと口を開けて見ていたが、すぐに嬉しそうにその尻尾に顔を埋める。

 涙で濡れた顔を押し付けられたせいでふわふわの毛並みが湿る。

 幾分白夜は顔をしかめたように見えたが、そこで腹を立てないところは年の功なのか。そんなおかしな感心をしながら、あさひは立ち上がる。 


「うん、行く! ぼくもいっしょに行くー!」


 やっと涙が止まった男の子に手を差し出すと、男の子はもみじのような手できゅっと握ってきた。

 子どもらしい温もりが肌を通して伝わってきて、切なくなる。

 こんなに素直でかわいい子なのだ。今頃、きっとご両親も心配して彼のことを探しているだろう。

 しかし白夜は、真っ白な前足をそろえた神社のお稲荷さんのような姿で、板の上にちょこんと座ったままだ。


「白夜さん?」

「ぼくはちょっくら湯守に声をかけてくるから、きみたちはここでお風呂に入ってるといいよ」

「は?」


 あさひは目を瞬いた。


「湯守さんがいる場所がわかったんですか?」

「まだ気づいてないのかい? ほら、これ見なよ」


 白夜は前足でちょいちょいと前方を指し示す。

 男湯と女湯の暖簾の間の壁には、小さな黒板が忽然と現れていて、白いチョークで文字が書かれていた。


  上の帳場におります 

  御用の際はこちらまでお願いします  湯守


「……こんなのあったっけ?」

「あったあった♪ あさひが気づいてなかっただけさ」


 白夜はそう言って尻尾を揺らすだけだ。

 いまいち納得いかないが、ここで押し問答していても仕方がない。

 ここで白夜と離れるのは正直言って心細いが、そもそも白夜があさひを化かしていないなんて保証はどこにもないのだ。

 目が覚めたら、昔話の結末よろしく、寒風吹きすさぶ野原で寝ていたなんて事態になっても、どこも不思議ではない。

 そうなるくらいなら、目が覚めたらすべて夢だった――というありがちな展開の方が遥かにありがたいのだが。


 あさひはため息をひとつ漏らした。

 どうやら自分は、自分が思う以上にタフらしい。

 小さい頃から精神的に鍛えられてきたおかげで、ちょっとやそっとではパニックにならない自信はあったが、まさかそれがこんなところで役に立つとは。


「はあ……わかりました。この子とお風呂に入ってますから、湯守さんのこと、よろしくお願いしますね」

「お安い御用さ♪」


 言うやいなや、白夜は飛ぶように廊下を駆けていった。白い獣の姿は、ゆるやかな曲がり角の向こうへあっという間に消える。


「じゃあ、行こうか、けいくん」

「うん!」


 男の子と手を繋いで、あさひは女湯の暖簾をくぐった。

 引き戸をそろそろと音がしないように引いて中に入る。


 ふわんと温かく湿った空気が流れてきて、ほっと肩の力が抜けた。温泉というわりには、硫黄の匂いはしない。

 履物の泥を落としてください、というあの注意書きが意味を為すのか信じられないほど、中はきれいだった。

 たまたま誰も入っていないのか、それともみんな出てしまった後なのか、脱衣籠も木製の棚に整然と並んでいた。

 麻で織られた畳敷きの床も乾いていて気持ちがよかった。

 手洗い場にも鏡の前にも髪の毛一本落ちていない。鏡も水はねひとつなく、すみずみまで磨かれていてぴかぴかだった。

 そのせいで、自分の顔がひときわ疲れて見える。

 肌荒れがひどく、目の下のクマはファンデーションで隠しきれていない。髪もつやを失ってぱさぱさだ。


 脱衣所の入り口近くの棚には、見ただけでふかふかだとわかる真っ白なバスタオルとハンドタオルが、畳まれて山盛りになっている。

 タオルの隣には、大人用から子供用まで、ぱりっとのりがきいて畳まれた浴衣も各種サイズが取りそろえられていた。いたれりつくせりだ。

 脱衣所から露天風呂に通じるガラスの引き戸の向こうからは、水音が響いてきている。

 男の子に籠を取ってやると、彼は「んしょ、んしょ」と言いながら、ひとりで服を脱ぎ始めた。


 スーパー銭湯などに行くと、キャアキャアとはしゃいでいっこうにおとなしくしていない子どもに悪戦苦闘するお母さんたちを目にするが、この子は実にてきぱきとしていた。この調子なら、さぞかし手のかからない子だっただろうに。

 しつけとはいえ、車を下ろしてしまうなんて、お母さんは育児でイライラがたまっていたのだろうか。

 あさひもコートを脱ぎ、衣服も全部脱いだ。


 ちょっと迷った末に、あの枯れ木のようなオババにもらったオコゼも首から外して、籠の中に置いた。

 ハンドタオルを二枚取って、男の子の手を引く。

 脱衣所から続くガラス戸をからからと開けると、岩の隙間から豊かな湯が湧き出る露天風呂が目の前に現れた。


「わあ!」

「すっごーい……」


 男の子とあさひはそろって声を上げていた。

 あさひもこれまであちこちの温泉に入ったことはあるが、ここの露天風呂はそれらと一線を画していた。

 岩の隙間から溢れ出すお湯の量は、滾々などという生易しいレベルではない。まるで渓流だった。

 木々の間を縫うように、ごつごつとした岩肌が露になっている。その岩の上を滑るように、豊富な湯が流れていた。

 暦の上では間もなく春とはいえ、この時期の岩手はまだまだ寒く、木々の若芽は硬い殻に包まれている。

 なのに蒸気のおかげなのか、湯の狭間に立つ木々は青々と葉を繁らせ、瑞々しい枝を四方へ伸ばし、ふっくらと蕾をつけているものまであった。

 まるでここだけ、春が来たようだった。

 もうもうと上がる湯気が、春霞さながらに夜の露天風呂を白く包んでいる。


『霧みたいに見えるのは、普通の霧じゃないよ。温泉の湯気なんだ。ここは湯気の結界で守られた聖域なんだ』


 あさひはそんな白夜の言葉を思い出した。


「おっきいおふろだねー!」


 男の子は目を輝かせて飛び出していく。


「あっ、走ると転んじゃうよ!」


 その後をあさひはあわてて追った。

 男の子はろくにかけ湯もしないまま、岩の縁からどぶんとお湯の中に飛び込む。


「あーっ! ちょ、ちょっと! 熱いかもよ!」

「あつくないよー!」

「えっ? ほんと?」


 あさひは岩の縁からおそるおそる湯の流れに手を伸ばした。

 たしかに彼の言うとおり、体の芯からやさしくほぐしてくれるような、ここちよい温度の湯だった。

 男の子はタオルでクラゲを作ってはつぶして、きゃっきゃと遊んでいる。

 あさひもそっと足を差し入れてみる。

 流れで底ははっきり見えないが、あまり深くはないようだ。底に座って、ちょうどあさひの肩まで湯に浸かるくらいだった。

 

 あまりの気持ちよさに「はああ……」とつい声が漏れる。

 思えば、あの奇妙なオババのいる駅に着いたときからずっと、衝撃と緊張の連続で、体に力が入りっぱなしだった。それらのすべてが絶妙にほぐれてゆく。

 手のひらにお湯をためて、そっと顔を浸してみると、粉を吹くほどに乾いていた肌に、本来の潤いが戻ってくるようだった。


 ほどよく温まったところで、備え付けのシャンプーで男の子の頭を洗ってあげた。

 頭からお湯をかけてすすぐとき、彼は両手で耳を塞いで目をぎゅっと閉じる。きっと、うちでも頭を洗うときはそうしているのだろう。

 あさひは自分も小さい頃はそうだったことを思い出した。

 幼稚園に上がるくらいまでは、水が怖くて、シャンプーハットなしではシャンプーができなかったっけ。

 やっとシャンプーハットなしでできるようになっても、こんなふうにぎゅっと体に力を入れて目をつぶっていたな。ちょっとでも耳に水が入ろうものなら、大騒ぎだった。

 そんな様子に、母は「そんなにあわてなくてもだいじょうぶよ、だいじょうぶ」と言いながらタオルでやさしく顔をぬぐってくれた。

 柔軟剤の香りがするタオルで目と耳を拭いてもらうと、ようやく息ができるような気がしたものだ。


「じゃあ、次は体を洗うよー」


 言いながらタオルにボディソープをつけて泡立てて、あさひは気がついた。

 男の子の肌は、つるんとしていてみずみずしい。だけどそのおなかや背中には、痛々しい青あざが幾つもあった。

 元気なさかりのこの年頃の子ならば、青あざのひとつやふたつは珍しくもない。けれど、彼のそれは、少なくともあさひが奇異に感じるほどに多かった。まだ新しいものから、黄色くなりかけている古いものまで、大小さまざまだ。


「ねえ、ぼく。……これ、どうしたの?」


 もう消えかかっているあざに、そっと触れる。

 痛くはないらしい。ボディソープの泡で遊びながら、彼は何でもないことのように答えた。


「ママがね、ぎゅーってつねるの。ぼくが悪い子だから」

「ママが……?」

「うん。ぼくがいうこときかないからダメなんだよ、って」



     *


 湯から上がって浴衣に着替えたあさひたちが暖簾をくぐると、そこには待ちくたびれたように白夜が伏せていた。


「どう? いい湯だったかい?」


 体を起こした白夜が首を傾げると、耳の金の鈴がちりんと澄んだ音を立てる。

 男の子は白夜を見つけるやいなや、嬉しそうに抱きついていった。


「うん! すっごく気持ちよかったよ!」

「それはよかった」

「ぼくねえ、おふろでおよいだんだよ! こうやって、ばしゃばしゃーって!」

「あ、あの……湯守さんとは会えたんですか?」


 濡れた髪をタオルで拭きながら訊ねるあさひに、白夜は耳をぴんと立ててみせる。


「あったりまえさ。このぼくをいったい誰だと思ってるんだい? この辺りの山の狐を束ねる大霊狐、白夜さまだよ」

「は、はあ……」

「湯守がね、きみたちの食事と部屋を用意しておいてくれたよ。さ、おいで。案内しよう」


 白夜について行った先の部屋では、確かに彼の言うとおり、膳がふたつ用意されていた。

 だが、その膳を見てあさひはあれっと思った。

 けれど男の子はわき目もふらずに突進し、座布団に座るやいなや膳の上の食事に飛びついていた。


「わーい! ごはんだ!」

「あっ、ちょ、ちょっと!」

「おいしーい!」


 よほどおなかが空いていたのだろう。

 男の子は膳の上のカレーライスとエビフライ、そしてハンバーグをもりもりと平らげていく。デザートにはプラスチックのカップに入ったプリンもついていた。

 あさひもおそるおそる座布団に腰を下ろしたものの、幾分戸惑ったまま、膳の上を見下ろしてみた。あさひの膳にも、まったく同じ料理が並べられている。

 温泉宿でこんな食事が出されたのを見たのは初めてだった。これがここの当たり前なのだろうか。


「どうしたんだい? この料理、嫌いなの?」


 いつの間にか隣に来ていた白夜が首を傾げる。


「い、いえ、そういうわけじゃないんです。ただ、宿でカレーを出すなんて、びっくりして。ふつうは和食の懐石が多いから」

「ああ、そういうことね。ここはそういう宿なんだよ。お客の心の中に一番強く残っている料理を出すんだ」

「心の、中に……?」

「そう。料理も湯守の担当なんだよ」

「そんなの、どうやって知るんですか? ……あ、わかった! お客に訊くんですね? このけいくんくらいの歳の子だとみんなカレーが好きだから、カレーにした。種明かしはそういうことですよね?」

「まあ、もうじきにわかるよ」


 白夜はそれ以上、多くを語ってはくれなかった。

 おそるおそるあさひも食事に手をつけてみる。


 見た目は、色味がやや黄色が強いほかはごくふつうのカレーで、しかも少し冷めていたのに、はっと目を瞠るほどにおいしかった。

 手間をかけて炒め、煮こまれた野菜の甘味がしっかり出ている。使われている肉は鶏肉らしいが、スプーンでほろほろに崩れるほど柔らかく煮えていた。

 ルーは甘口だった。男の子に合わせたのだろう。けれど野菜の甘味がしっかり出ていたので、大人のあさひが食べても物足りなく感じることはなかった。

 しいていえば、市販のルーで作ったカレーより、ややとろみが強い気がしたくらいだ。


「……おいしい」


 思わず言葉がもれると、既にカレーを食べ終わってプリンに手を伸ばしていた男の子が笑顔で言った。


「うん! ぼくのママのカレーはいちばんだよ!」

「ママのカレー?」


 きょとんとするあさひに、男の子は満面の笑顔で首を縦に振る。


「うん。これ、ママのカレーと同じ味だよ!」

「……ほんと?」

「ほんとだよ! ぼくのママね、いつもこむぎことカレーこをフライパンでぐるぐるーっていためて、カレーをつくってくれたの。ぼくがすきだから、チキンとトマトをいれてくれるの。これママのチキンカレーだよ!」


 あさひは食べかけのカレーを見下ろした。

 言われてみると、たしかにさわやかなトマトの風味を口の中に感じた。やや黄色が強いカレーだと思ったのは、市販品ではなく、ルーから手作りしていたからなのか。

 台所で我が子のためにカレーを煮込む、母親の後ろ姿が見えるような気がした。


「おなかいっぱい。ねむーい」

 プリンも食べ終わって満足したのか、男の子は部屋の隅に敷かれていた布団の上に、ぼふりと飛び乗った。

「こら、ちゃんと歯を磨いてから寝ないと虫歯になるよ」

「あははは。おねえちゃん、ママみたいなこといってるー」


 あさひが起こして歯を磨かせようとしても、男の子は布団から離れようとしない。やむなくため息を漏らして、あさひは彼を寝かせることにした。

 布団をかけてあげて、添い寝をする。

 白夜はあさひの脚のあたりで丸くなっていた。

 男の子の肩のあたりをぽんぽんとやさしくたたいて上げると、顔半分を布団の中に潜らせて、男の子は

「くふふっ」と笑った。

「どうしたの?」


 男の子は答えの代わりに布団の中に隠れて、あさひの胸に頭を押し付けてくる。


「おねえちゃん、おかあさんみたいなにおいがする……」


 ぎゅっと胸がしめつけられるように痛む。

 自分は彼の母親の代わりにはなれない。だけどせめて、彼がこれ以上、さみしい思いをしないように……。

 そう願いながら、あさひは腕の中の小さな男の子をそっと抱きしめた。



『おねえちゃん、ありがとう』



 ぬくもりに包まれて眠りに落ちる間際、かすかに男の子のそんな声を聞いた気がした。


 目が覚めたとき、布団の中に男の子はいなかった。

 まるでついさっきまで彼がそこにいたように、浴衣だけがあさひの腕の中に残されていた。だが、触れてみた浴衣も布団も、ひんやりと冷たい。

 白夜の姿も消えていた。


「けいくん! 白夜さん! どこ行ったの!?」


 寝乱れた浴衣の前を直しながら、あさひはあわてて部屋を飛び出して廊下に出た。


「おはよう。ゆうべはよく眠れたかのう?」


 その声の主は、まるであさひが飛び出してくるのがわかっていたような雰囲気で、そこに立っていた。

 まだ中学生くらいの――人間の少年に見えた。


 くせのないつやつやとしたやわらかそうな黒髪は、首の後ろあたりで白く細い和紙を使い、きちんと結ばれている。十センチほどの細い髪束が、彼が頭を動かすたび、ぴょこんと尻尾のように揺れた。

 少年はなにやら先端に十字型の板がついた長い木製の棒を肩にかつぎ、修行中の僧侶が着るような、目にしみるほどに白い作務衣を着ている。

 作務衣の袖や襟から見える肌も、むきたてのゆで卵のように白く若々しく、つやつやとして張りがあった。


「おつかれじゃったな。わしがここの湯守じゃ。よろしく」

「えっ、あなたが湯守さん?」


 湯守というからには、あの駅売店のオババのような見た目にも中身にも年輪が刻まれたような老人か、はたまた筋骨たくましい体育会系の男性を勝手に想像していた。

 けれど湯守だと名乗った彼は、少年特有のしなかやでほっそりした若木のような立ち姿だ。

 物腰もおだやかで、どちらかというとおっとりした雰囲気をまとっている。

 口調はやたらと年寄りくさいが、その声も、声変わりを終えたばかりの年齢の少年だけが持つ、中性的で澄んだ響きだった。


「そうじゃ。あの御方に、事情はお聞きしておるでな」

「あの御方?」

「おまえさんをここに連れてきてくれた高貴な方じゃよ。あの方はこの辺り一帯をお治めになる姫神にお仕えしている眷属で、しかもこの地の霊狐の筆頭なのじゃよ」

「……白夜さんの、こと?」

「そうじゃ。おまえさんのことをよろしくと、言付かっておる」


 湯守はやわらかに頷いた。


「あのっ、男の子が、けいくんがいないの。いっしょに寝たのに、さっき起きたらいなくなってて――」


 湯守は笑みを浮かべたまま、やんわりとあさひの言葉を遮った。


「あの子じゃったら、ゆうべのうちに旅立った」

「えっ?」

「あの子の親御さんがしてきたことは、すべて躾のつもりだったのかもしれんのう。じゃが、いつの間にかそれは度を越してしまっとったのじゃな」


 湯守の声が、わずかに暗さを帯びた。

 それであさひは、あの子の身に起こったことに気づいた。


 いや、あの子に出会ったときからうすうす気づいていながら自分を騙して目を背けていたことに、対峙せざるをえなくなったというだけのことかもしれない。

 風船がしぼむように、体中の力が抜ける。

 気づいたときには、あさひはその場にへなへなと座りこんでいた。


「あのときも親御さんは、すぐにあの子を迎えに行くつもりじゃったのかもしれん……あの子もその場にじっとしてさえおれば、親御さんと無事会えたかもしれん。

じゃがあの子は、親御さんを探して山の中に入りこんでしまった。長い間山中を迷い歩き、やがて力尽きたのじゃ。

あの子が何か悪いことをしたわけじゃない。親御さんもわが子が憎かったわけでもなかろう。ただ若く、経験がなかった。それに、声をかけて、助言をくれる年嵩の者が周りにいなかった。そんな不運が重なっただけなのじゃ」


 見た目とは裏腹に、湯守の言葉は老成していた。

 その響きは晴れた日の湖面のように明るく静かで、彼の声を聞いていると、波立っていたあさひの心まで、不思議に凪いでゆくような気がした。


「最後に、あの子はおまえさんにお礼を言っていたじゃろ。笑っていたじゃろ。おまえさんがあの子を救ったんじゃよ」


 湯守の言葉はありがたかったが、あさひは後悔にまみれていた。

 もっと何かできたことがあった気がするのに。

 あの子の境遇に自分を重ね合わせて、感傷にひたってばかりいたのではないか。


「あの御方にお聞きになったのではないか? ここは人ならざるものたちのための温泉郷じゃ。いろいろな方たちのためのいろいろな湯があるが、ここの湯は、かつて人であったものたちのための湯で、わしはここを管轄しておる」

「かつて……?」

「そうじゃ。ここは、山で命を落としたひとびとが現世への思い残しを洗い流して体を休め、来世へと発つ英気を養うための場所なのじゃ」


 あさひの目線の高さに合わせて屈み、湯守は告げた。


「おまえさん、この温泉郷の開湯に巻きこまれてしまったとか。大変じゃったな」

「そう……そうなんです!」


 脱力していたあさひは、突然雷に打たれたように、本来の目的を思い出す。


「ここを管理している湯守さんだったら、あたしが帰れる方法を知ってるかもしれないって、売店のおばあちゃんと白夜さんが言ってたんです」


 けれど、肝心の湯守は腕組みをして、うーんを首をひねってしまう。


「気持ちはわかるが、困ったのう。ここは一度開湯してしまうと、わしもそうそう簡単には営業途中で湯を閉めることはできないんじゃよ。この日を楽しみに来てくださるお客さまがいらっしゃるからのう」


 ざあっと音を立てて、体中の血が引いていくような気がした。


「それってつまり……とうぶんはこの霧の中から出られない、ってことですが?」

「そういうことになるの」


 青ざめるあさひに、湯守は無情にもにっこり笑う。


「まほろば温泉駅発の現世ゆき電車の運行管理をしているのもわしじゃが、ご覧のとおりひとりで宿をきりもりしている身じゃからのう。宿の営業中は、とてもじゃないが帰りの電車までは出せんのじゃ。すまんのう」

「そんな……」

「ああ、ですが、もしだれかが湯守の仕事を手伝ってくれて、わしの手がちいとばかり空いてきたら、話は別じゃがな」

「え?」


 あんぐりと口を開けて見上げるあさひに、湯守は満面の笑みを浮かべてみせるのだった。





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