おまけ2 悪役令嬢との思い出
それは彼女がまだ完璧な令嬢には程遠く、ましてや将来、弱い立場の者をいじめ抜く悪の令嬢になるなど想像もしていなかった頃のこと。
灰色の少女時代の頃のこと。
その日も幼い彼女は目つきのきつい家庭教師に叱られていた。
いじめられていた、と言い換えても良い。
歩き方が上品でないから、カップの持ち方が優雅でないから、笑顔が美しくないからと、勝手極まりない価値観を基準に個性のすべてを否定されるのだ。
もはや彼女は彼女である必要がなく、ただ都合の良いだけの人形に作り替えられようとしている。
それが野心家の父母の言う『王妃になる者の教育』であるらしかった。
日々、己を殺されることにまったく痛みを感じないわけがない。
幼い心にも自我はある。それでも、大人に従う以外に何ができるのかということが幼い頭ではわからず、やはり耐えるしかない。
ところが涙すら我慢してお叱りを受けている少女の視界に、ちらちらと、窓の外から何かを見せる悪い大人がいた。
スケッチブックに簡易な線で描かれているそれは、まさに彼女の目の前で怒っている女教師の顔。
過剰なほど吊り上がった両目、魔女のようなかぎ鼻に、獣のように開いた口には牙まで生えていた。
少女の視線が引き寄せられると、その人は紙を掲げたまま体を描き足す。
よりにもよって、ふんだんにフリルを使った十歳以下の少女が着るような膝丈のドレスを着せて、『美しく! もっと美しく!』と絵の中で叫ばせた。
すると窓に背を向けて立つ女教師が「もっと美しく!」と金切り声を上げたため、ラティーシャはつい吹き出して、よけいに説教が長くなってしまったのである。
*
「もうやめてください!」
長い説教が終わった後、庭で日向ぼっこをしていた祖母にラティーシャはさっそく抗議した。
祖母は足が悪く、誰かの支えがなければ歩けない。部屋の掃除のためメイドに外へ追い出され、迎えが来るまで暇を持て余していたのだろう。
「なぜ怒っているの?」
頬の痩せこけた老婆は、とぼけた態度で小首を傾げた。
「おもしろかったでしょう?」
「ちっとも!」
「笑ったくせに」
「そうよ、だから怒られたの! いじわるなおばあ様! 大嫌い!」
ラティーシャは本気で怒っている。なのに祖母は嬉しそうな顔で、孫のやわらかい髪をなでるのだ。
「私もあなたが大嫌い」
「え?」
まさか同じ言葉を返されると思わなかったラティーシャは面食らってしまった。
だってつまらないんですもの、と祖母は意地悪く付け足し、それ以上の苦情を聞く気もなく別のスケッチブックを手に取った。
ラティーシャはふてくされ、ひじ掛けに顎を乗せて横から見るともなしに眺める。
表紙がめくられると、水彩画が現れた。
朝日を背にした暗い山の頂に、乗り上げた巨大な船。麓に広がる箱のような建物の群れ。
不思議な街の景色がラティーシャの碧い瞳に広がった。
「・・・これなぁに?」
どこ、とは訊かなかった。
幼いラティーシャにも、到底この奇妙な景色が現実のものとは思えなかったためだ。
しかし老婆はまことしやかに語る。
「私が十七歳の時に行った街よ」
「え、本当にある街なのですか?」
「そうよ」
「うそでしょう? どうして山の上にこんな大きなお船があるのです?」
「昔は山の上まで海だったの。船は巨人が造ったものだと言われていたわ」
「うそ!」
「あら、自分の知らないことはみんな嘘にする気? 本当につまらない子。あなたのような人は実際に見るまで誰の言うことも信じないのよ」
そう言われてしまうと、ラティーシャも反論のしようがなくなる。
「・・・お父様にお願いしたら連れて行ってくださるかしら」
「どうかしら。私は家出をして一人で行ったけれど」
ラティーシャは目を丸くした。
「家出? おばあ様が?」
「ええ。連れ戻されるまで、とてもとても楽しかった」
「・・・貴族の子どもが家出をして良いのですか?」
「だって私がそうしたかったんですもの。して良いことも悪いことも決めるのは自分よ。そうでないなら、嫌なものを嫌とも言えず、誰の迷惑にもならないよう、他人の都合に合わせて生きる人生は一体誰のためのもの?」
祖母はまた紙をめくる。
今度は大きな水晶玉を根元に抱えた巨木の絵。緑の傘のように広がった枝に、小鳥の巣箱のような家々が吊り下がっていた。
「・・・これも家出をして描いた絵ですか?」
「そうよ。ここに描いてあるものは全部」
「何枚あるのです?」
「さあ。これ以外にもまだ部屋にあるから」
「では、おばあ様のお部屋に行きます。全部見せてください」
「後で叱られても知りませんよ」
老婆は微笑みを浮かべて言った通り、ラティーシャが幻想的な絵に夢中になり、午後の授業をさぼったことを両親に叱られている時も、本当に知らん顔でいた。
しかしラティーシャは懲りずに隙を見ては祖母の部屋に入り浸り、絵にまつわる話をねだり、やがて自分もその世界へ飛び込みたいと思い始めるまで、そう時間はかからなかった。
「どうしたら私も旅へ出られますか?」
ある日にラティーシャは祖母の膝に取りついて尋ねた。
祖母は彼女なりの旅を続けるコツや、危険を回避する知恵などを授けてくれるが、ではどうすればラティーシャも旅を始められるかということについて具体的なことは教えてくれたことがない。
この時もそうだった。
「うまくやりなさい」
言われたことはただ一つ。
「周りを油断させるのよ。誰一人あなたを追えないように、もしくは追う気にもならないように、よく計画を練って慎重に準備を進めなさい。望みの前にはいつだって試練がある。大人しいお人形でいる時間も決して無駄ではないわ」
したたかに、冷酷に。欺き、誑かし、手段を選ばず必ず望みを手に入れる。
祖母の言う『うまくやる』とはそういう意味だった。
両親を裏切ること、役目を放棄すること、罪のない人々をも騙すことにまったく躊躇いが生まれなかったわけではない。
しかし想像を絶する世界を前にして、我慢することはとてもできなかった。
地に足をつけたままではその世界へ行けない。
ドレスを破り、ハイヒールを脱ぎ捨て、すべてを振り切り飛ばねば到底届かない。なおかつラティーシャは今にも飛び出したくてたまらない。
捨ててゆくものへの未練よりも、未知への期待が年々膨らんでいった。
――そして祖母の葬儀の日。
棺に納められた遺骸の耳元へ、ラティーシャは両親に悟られぬよう囁いたのだ。
「きっとうまくやってみせます。どうぞご覧になっていてね、愛しのロレッタ」
決意とともに、別れの白い花を彼女の悪役令嬢へ捧げた。