おまけ1 悪役令嬢との思い出
学園に通っていた頃、いつも耳には不快な嗤い声が付きまとっていた。
なぜ嗤われるのか。なぜ地面に転ばされるのか。なぜ、囲まれ見下ろされるのか。
はじめ、ルアナはわけがわからなかった。
彼らに対して何をした覚えもない。
ただ父に言われるがまま、貴族の教養や社交術を学ぶために、ルアナは入学しただけ。ただ、そこにいただけだ。
それのどこが悪いというのか。
「卑しい娘」
彼らは決まってルアナをそう呼んだ。
ルアナもまったくの世間知らずではなかったから、自分の生まれが蔑みの対象となることを理解できないわけではない。
それでもしつこく言われるうちに、なぜそんなことを無関係の他人に非難されねばならないのか、胸の内に炎が上がり、何度も我慢できなくなった。
中庭の木の下で転ばされた時、ルアナは反射的に土を掴み、令嬢たちに投げつけたことがある。
少しばかりドレスに泥が付いただけで、慌てふためく軟弱な彼女ら。ルアナは少し気分が良くなり、立ち上がって卑怯者たちを睨み据えた。
「こんなことばかりするあんたたちのほうが、よっぽど卑しい!」
嗤い声を弾き飛ばし、声は気持ち良く響いた。
「確かに私は生まれた時には妾の子で、母は平民だった。だけど、売女なんかじゃなかった。母は父しか愛してないし、父もそう。それで私が生まれたの。それのどこが卑しいって言うの? あんたたちって、家柄自慢と着飾ることばっかり考えて頭からっぽよね! 憶測で人をなじる暇があるなら、ちょっとはその卑しい内面を磨く努力をしたらどうなの? 少なくとも私は、あんたたちほど性根は腐っちゃいないわ!」
「このっ――」
令嬢の一人が、たまらず片手を振り上げた。
ルアナはひるまない。
いくらでも殴ればいいと思っていた。言い返せずに黙らせようとするならば、それは相手の敗北である。自身の正しさの証明となる。それが確認できたなら、これからも堂々とこの世界に立っていられる。
むしろルアナは自ら頬を差し出すくらいの気持ちだった。
しかし――
「いけませんよ」
振りかぶられた腕は、たおやかな指に、そっと止められた。
ティーテーブルで優雅に茶をいただきながら、事態を静観していたはずの者が、音もなく背後にいた。
彼女は麗しい令嬢たちが集う学園でも、とびきり美しい顔を持っており、いつでも上品な微笑みを浮かべ、彼女の取り巻きたちがルアナをいたぶる様を愉しんでいる、性根の腐った女。
侯爵令嬢ラティーシャ・アシュトン。
最も憎むべき悪は彼女で、ルアナはいつだって怒りを隠さず睨みつけてやっていたが、彼女はその時もどこ吹く風で微笑みを浮かべていたのである。
「こんなことで大切な手を痛めてしまっては、ご両親が悲しみますわ」
その程度の言葉で取り巻きたちを容易く鎮め、ルアナのほうへはくすくす笑いながら、話すのだ。
「あなたは、ご自分を卑しくないとおっしゃるのね。おかしいこと」
「おかしくない! 人を蔑んで楽しんでる奴らのほうがよっぽど最低っ――」
「ええ、その通りですね。心の美しさはとても大切なことです」
予想外にラティーシャは大きく頷き、ルアナは気勢を削がれてしまった。
「ですが――」
そして続く声音の低さに、気を呑まれた。
ラティーシャの吊り気味の碧い瞳が細く、鋭くなり、ルアナの奥底まで見据える。
「その汚れた手、野蛮な振る舞い、粗野な言葉遣い、歪んだ立ち姿、品のない目つき――それらのどこから、あなたの素晴らしい内面を窺い知れば良いのでしょう?」
言われてルアナは泥だらけの己の姿を顧みた。土を投げつけた両手を見下ろした。
そして再び顔を上げ、目の前の令嬢を見る。
少しの汚れもない白い肌。指先まで意思が通い、完璧に制御されている優雅な動作。心地よい高さの声、否応なく惹き付けられる抑揚、言葉遣い、表情も。存在すべてが芸術的なまでに完成されている。
もし、彼女の侯爵令嬢という身分を知らない人間がいたとしても、さらには彼女が貴族らしい格好をしていなかったとしても、その立ち姿だけで誰もが彼女の高貴な生まれを悟るだろう。
「どなたかはわかってくださるだなんて、甘くお考えにならないことね。多くの方はあなたを見た通り、聞いた通りの人物であると確信しますよ。そしてその見解は決して間違いではないのです。おわかりになるかしら? 今のお姿は、意固地で卑しい、あなたの本性そのものですのよ」
ルアナは愕然とした。
反論すべき言葉が見つからず、暴力に訴える怒気すら奪われた。
その通りであると、頭よりも先に心が納得させられてしまった。
すると急に、先ほどまでは影も形もなかった猛烈な恥ずかしさが襲い来た。
自分は何をしているのだろう。卑しいと責められ、聞き流す余裕もなく、まるでそれを証明するかのような行動をまんまと取って、一体、何を示そうとしていたのか。
完璧な令嬢の碧い瞳に映る姿が惨め過ぎて、泣きそうになった。
結局、ルアナは幼い子のように服の端を握りしめて黙り込んだだけ。
令嬢たちはそんな彼女を嗤い続けた。
*
半分ほど本を読み進めたところで、ルアナは文面から視線を上げ、昔のことを思い返した。
公務のない午後の昼下がり。
金色の陽光が差し込む王太子妃の私室には、そこの主以外に誰もいない。久しぶりの静かな休日である。
王太子妃となってからは関連各人との面会や茶会が続き、気の抜けない毎日だが、たまにはゆっくり過ごせるようにと夫のユリウスが諸々調整してくれたらしく、急な面会願いも姑からの呼び出しも今のところない。
そこで少し前に侍女が持って来てくれたロマンス小説などを読んで過ごしていた。なんでも、各地を旅している劇団が、その小説を原作にした演劇を披露し、下町で評判を取っているらしい。そういった流行を知っておくのもルアナの仕事の一つである。
小説のタイトルは『真実の愛』。
平民の娘が婚約者の令嬢を押しのけ侯爵家の子息と結ばれるという内容は、なんとも我が身に心当たりのあるようなもので、その類似性からこれは現王太子夫妻をモデルにして書かれたものなのだなどと噂されているらしい。
しかし、この本が出版されたのはあの婚約破棄騒動があるよりも前のことだ。
むしろ逆に、
(この本をまねしたの?)
ルアナにはそう思えて、記憶の中のラティーシャに問いかけてみた。
いつも美しかった侯爵令嬢。碧い瞳はすべてを見透かすようで、見下すようで。
腹立たしくて、悔しくて、うらやましかった。
最初の頃は素直に認められなかったが、淑女の修業をする中で、頭がからっぽなのだと思い込んでいた貴族令嬢たちの苦労や努力を身に染みて感じ、彼女らに一目置かれるラティーシャがいかに素晴らしい女性であるのかを思い知った。同時に己の未熟さと醜さも。
いつしか目指すべき姿はラティーシャとなり、ルアナは彼女を心底から憎めなくなってしまったのだ。
ラティーシャがあえて悪役を演じていたというのは、おそらく間違いないのだろう。
それがユリウスのためだったのか、ルアナのためだったのか、はたまた他の目的のためだったのか、はっきりしたことはわかっておらず、おそらく永久に知ることはできない。だが、あの卒業式の最後の笑顔こそ、唯一偽りのない彼女の本心であったのだろう。
彼女はきっと、理想の形で自らの望みを手にできたのだ。
今となれば思い出せる。貴族社会に誰も知り合いのいないルアナに真っ先に話しかけてくれ、友達作りにお茶会をしましょうと親切にも場を用意してくれた。その時の彼女はまだ『悪役』ではなかった。結果として茶会をぶち壊しにしたのは未熟だったルアナの落ち度であって、故意に貶められたわけではない。
もしユリウスを好きにならなければ、ラティーシャはあのまま友達になってくれていたのかもしれない。
しかし美しくも毒を孕んだ令嬢は、ルアナの理想とするような友にはなってくれそうにないと一方で思う。
「――ユリウスを好きにならなければ、あなたにとって私はどうでも良い存在だったのでしょうね」
つい独り言が出てしまった。
ラティーシャの悪役は演技。だが茶会の直後に華麗に悪の令嬢へ転身したように、どうにも人としての厚い情などは感じられず、悪役の非情さはやはり彼女の一部であったように思える。
もし一連の行動がルアナとユリウスを結ぶための犠牲でなかったのならば、ラティーシャは体よく好きでもない男を切り、まんまと王太子妃という七面倒な役目をルアナへ押しつけ、自由の身になったというわけだ。
その可能性を考えると、妙なおかしさがこみ上げてくる。
(もしそうなら本当に勝手!)
世間のすべてを敵にし、何もかもを捨て逃げ出すなど正気の沙汰ではない。
そんな彼女の後釜にルアナを据えるつもりでいたのなら、そのつもりで貴族社会での生き方を罵倒とともに教えてくれていたのなら、
(私にだけは話してくれれば良かったのに)
なんならルアナも彼女を追いかけたかった。
一体どういうつもりだったのかと、胸ぐらを掴み上げ問いただしてやりたかった。
なのにそれは永遠に叶わないのだ。いじめられたことより、そのことがいちばん憎たらしい。
もう読書を続ける気分ではなく、本を脇に追いやり、今度の夜会の準備に関連した手紙でも書こうと机の引き出しを開けた。
するとちょうど、扉越しに夫の声が聞こえた。
「はい?」
応えるとユリウスが姿を現す。
そして机でペンを握っているルアナにすぐ顔をしかめた。
「今日は休めと言っただろう」
「休んでいましたよ。先ほどまでは」
「この後もだ」
「そういうユリウスはどうなんです?」
「こちらもひと段落ついたところだ。明日までは何もなし。仕事以外にすることが思いつかないなら、私を構ってくれないか」
そんなふうに言われては、ルアナも笑ってペンを置くしかなかった。
二人で部屋にいる時は肩肘を張ることもない。気安く名を呼び合い、時には行儀の悪いこともする。
ソファに並んで座り、緩やかな空気の中でユリウスはさっそく脇に抱えてきた額縁をルアナに見せた。
無論、ルアナもユリウスが部屋に入って来た当初から気になっていたのである。
「どうだ。なかなか良い絵だろ」
両手を広げて横に並べられるくらいの大きさの紙に水彩で描かれていたのは、だいぶ前に行われた王太子成婚のお披露目の様子だ。
空が高く、温かい秋晴れの日だった。
バルコニーに立つ純白の花嫁と花婿と、画面の下を埋め尽くす民衆。明るい色の花びらが舞い、リボンが飛び、まるであの時の歓声まで聞こえてきそうな生き生きとした絵だ。
「きれい・・・」
ルアナは隣へ身を乗り出し、感嘆を漏らした。
描き手はどこか高い場所にいたのだろうか。
民衆の頭が手前にあり、新郎新婦をやや見上げる構図で、その幸せな表情の細部に至るまで表現されていた。
「誰が描いたものなんです?」
「さあ、あいにくサインがなくてな。成婚の儀を見物に来た旅の画家だかが宿に置いていったらしい。宿屋の主人が玄関に飾っていたのを見つけた画商が買い付けて、巡り巡って私のもとまで献上されたというわけだ。旅の画家のほうが王宮の画家よりもルアナをよく描けている」
「あら、私だけじゃないですよ。ユリウスの表情もとても良いわ。本当に、どこで描いていたのかしら」
お披露目をした広場では人が大勢詰めかけ、とても絵を描ける状況ではなかったはずだ。しかし広場の外から描いたのであれば、ルアナたちの表情が見えない。まさか見たこともない人間の顔を想像では描けないだろう。
「望遠鏡でも持っていたのかもな。もしくは後から思い出して描いたのか。わからないが」
ユリウスも多少引っかかりを感じているようだ。
サインはないと聞いたものの、どうしてもこの画家のことを知りたくて、ルアナは画面の端までくまなく見回し、やがて左上に小さな文字を見つけた。
青空に溶け込むような水色で、『お幸せに』と簡易なメッセージが添えられている。
「・・・字もきれいですね」
「・・・そうだな」
繊細で流れるような文字の形は、男よりも女の手のものに近い。
字が書けるということは、それなりの教育を受けた人物なのか。教養のある旅の女画家とは世にも奇妙な人種である。
(どこかで見たような字だけれど)
断定するにはあまりにも手がかりが少ない。
だがつい先ほどまで彼女のことを考えていたせいなのか、脳内ではあの軽やかな声音でメッセージが読み上げられた。
『お幸せに』
するとルアナは胸の内に陽だまりのような想いが湧き起こり、ユリウスの腕に抱きついた。
「――お幸せに。どうかあなたも」