逃亡の果て
その日は昼過ぎから小雨が降り出した。
しばらくサボってしまった畑の草むしりをしようと思っていたのが、おかげで外に出る気にならず、趣味の木彫りに没頭することとなる。
早くに両親を亡くした孫を、可愛がるばかりだった爺におだてられ、調子づいてからもう十年ほど嵌まり続けている。
木々の他に何もないこの村の、いつか名産品にでもなればと思うが如何せん、同志少なく工夫も足らない。
とはいえ、爺が遺してくれた畑の世話さえしていれば食いっぱぐれはないのだから、この暮らしに不満も何もありはしない。
ただ、ささやかな贅沢を言わせてもらえるのなら、無益な趣味にも理解を示してくれる、できれば可愛い嫁さんを一人、迎えられたら最高だ。
「――失礼。どなたかおられるか」
不意に、戸の外から声がした。
気づけば部屋の中は薄暗く、雨の音もやんでいる。
黄昏時の客は、聞き覚えのない男の声だ。
こんな村はずれの作業小屋に、こんな時間にやって来るとは、一体どうしたことだろう。
少し怪しくはあったが、ごく稀に、迷った旅人がここらを通りかかることもある。もし難儀しているのであれば、助けてやらねばしょうがあるまい。
「はい、どちらさんでしょうか?」
戸を開けると、薄闇になかなかの美丈夫がいた。
黒い眼が俺より一段高い場所にある。
立ち姿がまっすぐで、杉みたいな青年だった。年はさほど俺と変わらないだろうか。
外套の下に、上腕ぐらいの少し長めの短剣がちらりと見えるが、護身用だろう。旅人はよく武器を持つので、それだけで危険な奴だとは思わない。
「失敬。旅の者なのだが――」
青年は、まるで役人のような堅苦しい口調と態度で、村に観光で訪れたことを話し、ついては夜の川で見たい景色があるので、小屋の前に繋いである小舟を貸してほしいのだと言ってきた。
「夜の川で? 何を見るんですか?」
俺はその時すっかり忘れており、間抜け面で聞き返してしまったわけだ。
すると青年は、なんとも微妙な顔付きになった。
「いや、何かと言われるとはっきりとはわからないのだが・・・白い妖精が出るそうなのだが」
「妖精?」
そんなおとぎ話の単語が、この堅物そうな青年の口から飛び出しては、違和感がすさまじい。
当人も自覚しているのか、それで微妙な表情なのか。
あれ、待てよ?
この時期、川に出る白いものって・・・
「もしかして、《雪羽虫》のこと?」
ここでやっと思い出した。毎年のことながら、すっかり失念していた。
「虫?」
「ああ。今時期に、白く光る虫が川に出るよ。妖精って、もしかしてそれのことじゃないか?」
遠目になら妖精に見えなくもない、かもしれない。いや、捕まえて見ればただの小さい虫でしかないんだが。
「虫・・・虫、なのか」
青年はまずい事実を知ってしまったかのように、口元に手を当て何やら考え込み始める。
まさか、本当に妖精だと信じていたのだろうか?
顔に似合わずメルヘンな。
悪いことをしたかなあと、反省しかけた時、青年の背後からひょっこり、頭がもう一つ生えた。
「まあ、虫が光るの? 素敵ね!」
非常に明るい声だった。
薄闇の中で、その眩しさがわかる。
「虫で良いのか?」
「何か問題でも? 妖精と見紛うほどに美しいのですよ。雪羽虫という名も、きれいな響きではございませんか。ぜひ見ませんと」
「・・・貴女がそれで良いなら、良いが」
二人のどこか調子っぱずれなやり取りの間も、俺は彼女から目を離せなかった。
一目惚れって、きっとこういうものだ。今知った。
連れの彼女のほうも、大体俺と年頃は同じだろう。
暗くなってきたからわかりにくいが、金髪碧眼だろうか。職人が細部までこだわり抜いた、芸術作品のような美女だ。
肩口辺りの髪をもっと伸ばしてドレスでも着ていれば、どこぞの国の姫だと紹介されても余裕で信じられる。
「ねえ、こちらはあなたがお作りになったものですか?」
大きな瞳に見つめられるだけで心臓がうるさく暴れたが、彼女が両手で持っているものを見てはさらに暴れた。
中に入りきらず、外に並べていた小さな木彫り作品の一つを、彼女は完璧な顔の横に掲げている。そうされると、自作品の拙さが嫌でもわかる。
「はい、す、すみません」
自分でもよくわからない謝罪を口走ってしまったが、彼女は特に意に介さず微笑んでいる。
「とても可愛いらしい熊ですね。これらは売り物なのですか?」
「い、いえ、趣味みたいなもんで・・・あと、それ梟です」
「あら。この辺りには珍しい梟がいるのですね」
なんの変哲もない梟を彫ったつもりだったのだが、まあ、何も言わないでおこう。からかわれているのかもしれない。
「もしよろしければ、お一ついただけませんか?」
「え? ええっ、どうぞ、そんなもんいくらでもっ」
まさかの申し入れだ。
びっくりした。ちょっと、いや、かなり嬉しい。
「ありがとうございます。大事にいたしますわ」
そう言って木彫りに頬を寄せるので、我ながら馬鹿みたいだが、自身も頬ずりされている気分になり、顔が勝手に熱くなる。
「それから、重ね重ねのお願いで大変恐縮なのですが、小舟のほうも一艘お貸しいただけませんか?」
「あ、はい、どうぞあんなんで良ければっ」
「まあ、なんてお優しい方」
大げさに喜ぶ美女に手を握られ、舞い上がるなと言うなら、それははっきりと無理だ。
しっかり舞い上がり、鼻の下を伸ばしていると、不意に冷気が首筋をよぎった。
「ラティーシャ。もし恩人の腕が繋がったままのほうが良ければ、そろそろ手を放さないか?」
見やれば杉の木のような青年が、右手で短剣の柄を、左手で鞘のほうを握っている。
いつでも抜き放てる体勢だ。
「短気ですのねえ」
「これでも我慢を覚えたほうだ。褒めてもらいたい」
「はいはい」
彼女は仕方なさそうに手を放した。
それを見ると青年も腰のベルトに短剣を戻す。
・・・もし気のせいでなければ、今、俺は腕を切られかけたんだろうか。
遅れて、背筋に悪寒が走った。
青年のほうはすでに、一瞬前までの狂気を消し、最初の通りに戻っている。
それにまったく動じていない美女のほうにも、ある種の恐怖を覚えた。
「では、舟をお借りしますね。明日の朝お返しに参ります」
美しい微笑みを残し、日暮れのおかしな客たちは、川を下って行ってしまった。
**
両岸を木々に挟まれた穏やかな大河に、小舟が一艘浮かんでおります。
雨の影響で少々増水しているようですが、幸いながら川が荒れる程にはなっておりません。
重りを川底へ落とし、私は船首で、ルドルフ様は船尾で、時を待っておりました。
日は落ち、暗い空へ満月が顔を出して参ります。
すると、
「あぁ――」
靄がかった夜空に、大河を跨ぐ七色のアーチが現れました。
そしてそれを待っていたのか、両岸の木々の間から、白い光がふわりと舞い出ます。
はじめはぽつぽつと、それがいつの間にか、溢れる程に。
粉雪に似た、繊細な光です。
それらが川面に映り込み、水底では星空が広がっているかのようでした。
「きれい・・・」
光が滲んで見えるのは、涙のためでしょうか。
他に言葉が出て参りません。ただただ熱いものが、胸の奥から込み上げて参ります。
夜空に虹がかかり、白い妖精が川面を舞い飛ぶ―――そんな、誰も信じようとしなかった幻想風景が、確かに目の前にございます。
その絵は幼い私に、世界の広さを教えてくれました。
外へ飛び出す勇気と希望を与えてくれました。
そして、とうとう現実に辿り着いたのです。
いてもたってもいられず、絵筆を取ります。
もう、おばあ様の模写ではありません。自身の目で切り取った景色を紙の上へ、そっくり移すのです。
詰め込みきれない程の、感動と共に。
――それから、わずかばかり時が経ちますと、虹は消え、光は落ちました。
天の奇跡に永遠はなく、虫は儚い命を終えたのでしょう。
唯一、月光だけが残りました。
背後が少し明るい気がするのは、おそらくルドルフ様が周囲の明かりが完全に消え去る前に、ランプを灯したためでしょう。
「・・・目的は達したわけだが、貴女はこれからどうする」
余韻を邪魔しない、静かな声で問われました。
私は目尻の雫を払って、体を船尾へ向けます。
「もちろん、旅を続けますわ」
改めて考えるまでもないことでした。
「これからは、おばあ様もご覧になったことのない景色を見に行くのです。世界はまだまだ美しいもので溢れています。それらをすべて描き上げるまで、私の旅は終わりませんわ」
この願いはつまり、果てなき旅を意味しております。
身を落ち着ける場所など必要ございません。
心揺さぶるものに出会い続けること、その果てに人生を終えることだけを、私は望んでおりました。
「わかった」
ルドルフ様は素っ気なくただ了解されました。
随分、あっさりですこと。
「ルドルフ様は、これからどうなさるおつもり?」
「何も変わらない。貴女を手に入れるまで追うだけだ」
堅い口調に揺らぎはございません。
案の定なお答えに、こちらはついつい、溜め息が出てしまいます。
「たまには変わった答えもお聞きしたいわ。世界の絶景を見たい、というような願望はございませんの?」
「特段興味はない」
「あらまあ。あれほど素晴らしい景色を見て参りましたのに、感動のない方ね」
せっかく崖まで飛び降りて、解き放たれたのに相変わらず、この方は滅多に笑いもいたしません。
心が強張ってしまわれているのかしら、と少々心配になっておりましたら、ルドルフ様は軽く肩を竦められました。
「仕方がないだろう。私にとっては、どんな絶景も背景に過ぎない。そこに貴女さえいれば、どこだって構わない」
あらら。思わぬ熱いお言葉。
ですが当のご本人は涼しいお顔で、狙っておっしゃったふうではございません。
この方の、こういうところは、いつもおかしいわ。
「今のお言葉は素敵でした。乙女心をくすぐられましたわ」
「では、捕まってくれるか」
「そうですねえ」
私は夜空を見上げ、さらに川面を眺めます。
たっぷり間を持たせ、それから、我ながら悪い顔でルドルフ様に向き直るのです。
「――いえ。やはりここは、とことんまで逃げましょう」
対するルドルフ様のほうも、すでに開き直っておられます。
「良いだろう。果てまで追えば同じことだ」
「まあ怖い」
船縁に頭を寄りかけ、私は言葉とは裏腹に、安らいでおりました。
追って追われる関係は変わっていないにせよ、捕まったところでもう、鎖も檻もありはしない。連れて行かれる場所もない。
私は私の、ルドルフ様はルドルフ様の、それぞれの望みを叶えるために生きるだけ。
すべては風の吹くまま、心のまま。
どんな未来にでもゆけるのです。
明日には何が起きるでしょうか。
世界はどんな一面を見せてくれるのでしょう。
毎朝毎晩、胸をわくわくさせながら。
さあ、旅を続けましょう。