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さようなら

 朝日の差す、谷底から霧が立ち上る。


 今日も底を見通せない程に深い。その霧の海を、帆を畳んだ船がゆっくり渡っていた。

 私たちの他にも観光客が数名ばかり乗っているが、早朝の便であればやはり少ない。


 我々は罪人を連行しているのだから、混雑を避けるのは当然のことだ。

 人ごみに紛れて逃げられることなど、二度とあってはならない。


 しかしその罪人は相も変わらず暢気に、船縁に肘をついて朝日を眺めている。

 どれだけ太陽が輝かしくとも、霧に覆われた谷では何も見えない。だが、彼女はそんな景色のどこがおもしろいのか、ずっと微笑を浮かべていた。


 私は景色などよりも、鍔広の帽子からわずかに覗く、金色の髪のほうによほど気を取られてしまう。

 もし、ここに誰の目もなければ、白い頬の横で揺れるそれへ、手を伸ばしただろう。おそらくは無意識に。



 ラティーシャに触れられた箇所は、未だに甘く痺れている。

 まるで、毒だ。

 だから触れたくなかった。触れてはいけなかったのだ。


 卒業式の日、ほんのわずかに指を腕に添えられただけで、その後に待つものさえ忘れ、歓喜しそうになったというのに。

 昨夜の出来事はあまりに私の念願過ぎて、あれは夢であったのだと、言い聞かせねば頭がどうかしてしまいそうだった。

 

 しかし骨身に残る感触が、その努力を無に帰す。

 どれだけ自制心で蓋しても、欲望が湧き上がる。視界の内に彼女がある限り、無節操に触れたくなってしまう。

 昨夜、血を吐く思いで振り切ったというのに。


 一方の彼女は、あっさり離れ、愉しそうに笑っていた。

 幻想的な光の中、それは非常に蠱惑的で、いつにも増して、美しかった。


 彼女の真意はわからない。

 昨夜の言葉は同情か、憐憫か。それともほんのわずかにでも、私に対する気持ちがあるというのか。

 ・・・いや、愚かに期待させることこそ、彼女の策略であるのだろう。


 上品な令嬢に程遠い、その本性は十分に知った。

 理知的というより邪智に長け、奔放にして自己本位。呆れるほどに豪胆。


 常に笑みを湛え、何者にも支配されない。

 目に映るすべてを楽しみ、唯に生を謳歌する。


 どれほど贅沢な生き方であるだろう。

 私は、この世で己がままに生きられる者は、神の他にいないと思っていた。







「――」


 ふと、首元をかすめるものがあった。

 古びた木の匂いが薄くなる。

 常であれば、それは普遍的な現象で、特段気に留めるべきものでもない。

 ――ゆえに、私は反応が遅れてしまったのだ。


 突如、船体が突き上げられた。


 強風に嬲られ、マストが悲鳴を上げる。

 乗客の誰もが咄嗟にその場に伏せるか、あるいは船縁を掴んだその時、宙に鍔広の帽子が一つ、舞った。


 船縁に掴まりながら、それが飛んできた方向を見やると、


「あ――」


 留め金が、外れたのか。

 開け放たれた乗降口を背に、ラティーシャが青い瞳を丸くしていた。


 前方へ手を伸ばし。

 しかしそこには何もなく、何も掴めず、彼女の上体が消える。


「ラティーシャ!!」


 叫ぶ前から、私は走り出していた。


 たった数歩の距離。


 彼女のブーツの踵が船を離れる前には、追い付けた。



 前に伸ばされたままの手を掴む。

 抱き留めるには遅過ぎた。私も半ばまで船の外に身を投げ出すことで、やっと届いた。

 このまま自力だけで彼女と自分を引き戻すことはできない。


 視界の隅に、外側へ開いている乗降口の扉がある。

 左手を伸ばせば、かろうじてその端を掴める距離だ。せめて留まることができれば、船にいる者が引き上げてくれる。まだ助かる。


 一瞬でそこまで頭が回った。ラティーシャを掴むと同時に、反射的に左手も伸ばしていた。


 だが――


「っ・・・」


 左手は、何も掴まなかった。


 すると彼女は、とても満足そうに、微笑んだのだ。


「――」


 何かを言われたが、風のせいで聞き取れなかった。

 内容は想像もつかない。

 いずれにせよ、その時には何もかもどうでも良くなっていた。


 微笑みに吸い寄せられ、空中で彼女を抱き締める。


 たとえ、落ちるまでのわずかな間でも。

 今再び、彼女が腕の中にある。

 全身全霊が、その幸いに歓喜していた。


 ――そうだ。

 何を迷うことがあったろう。

 私は初めから、明確に一つの結末だけを追い求めていたではないか。


 ならばこれでいい。


 やっと、わかった。











**











 谷底の霧が吹き払われたこの日の後、船に残った騎士たちは、自国の王宮へ帰還し、二人の死亡を王と太子へ報告した。

 そこにはなんらの事件性も、故意も見受けられない。谷川の急流から死体を回収するのが困難であったことも、すべて不自然ではなかった。


 王太子は自身の側近の死に、顔を強張らせたものの、何も言わず報告に対し頷いた。

 そして自室に戻ってから、唯一心を許した娘の前でだけ、小さく呻いたのである。


「これで、良かったのか・・・?」


 ルアナは答えを返せないかわりに、彼の冷えきった手を握る。


「そう願いましょう」












**












 二人が船から落ちた時。

 崖際で、とある老婆がその光景を歌いながら眺めていた。


「飛べ、飛べ、乙女、恐れるな。谷底にこそ、楽園ぞある――」


 今も、ほとんどの者が秘密を知らない。


 老婆が生まれるずっと前、かつて村にとても賢い者がいた。

 風が止んだ日から数えて四十九日、満月の晩の翌朝、太陽が東の山の頂上にすっかり現れる頃、谷に人を吹き飛ばす程の強い風が吹く。

 賢者はそんな世界の決まり事を利用して、何が何でも娘を犠牲にせねば気が済まない村人たちへ、生贄を捧げるべき日を提案したのだ。


 風は、谷底へ辿り着く前に娘をさらう。

 そして非道な者たちの手の届かぬ楽園へと運んでくれる。


 彼女はその秘密を友から聞き、友は旅で出会った人からそれを聞いた。


 くじで生贄に選ばれた当時の彼女は、まだ知らずに恐怖していた。

 突然、周りの大人たちが死ねと言ってくる。逃げれば家族全員が処刑されると言う。

 逃げたくて、逃げられなくて、泣いていた彼女の手を、あの日、出会って間もない旅の少女が取ってくれた。


 村人たちに追い立てられ、友に導かれるまま、二人で飛んだ。


 今でも、老婆はその時の清々しさを覚えている。




 しかし、誰もが必ず楽園へ運ばれるとは限らない。

 風がどのように吹くか、それはどこまでも運次第なのだ。


(あの子はどうなったかしら)


 気になるが、老いた身が結果を知ることはおそらく叶わない。

 よって、奔放な娘は自身の望む最高の結末を迎えられたのだと、老婆は思っておくことにした。

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