ご一緒に
「くれぐれも逃げ出さぬように」
そう釘を刺して、深緑色のマントをした騎士様は、部屋の戸を閉めました。
今夜は二人が扉の前に立ち、見張りをされるようです。
相も変わらずご苦労様なこと。
彼らが取ってくださった宿に一晩泊まり、明日の朝には船に乗せられ、王都へ連れて行かれるそうで。
ここしばらくは追跡者の影を見ていなかったものですから、油断してしまいました。なんて、注意しながら旅をしていた時など一瞬もないのですけれど。
長い道中、焦らずとも逃げ出す機会はいくらでもあるでしょう。
今はひとまず――
窓の外へ目を向けますと、満月が顔を出しておりました。
夜空に雲一つございません。ささやかな星々の光など、白い輝きに打ち消されてしまっております。うん、とっても良い夜です。
さっそくシーツと、窓から丁寧に取ったカーテンの端と端を繋ぎ、片方はベッドの足に結わえ付けます。そしてもう片方は、窓の外へ。
絵筆の入った杖とスケッチブックを持ち、布を伝って二階からするりと、短い草に覆われた地面へ着地しました。
「こんばんは、ルドルフ様」
すぐ傍に、大変驚いた顔をしていらっしゃるかのお方が、月明かりに照らされて見えました。
以前捕まった時には、部屋の扉の前を担当されていたかと思いますが、本日は窓の外へ自ら配置換えされたようです。
船着き場でお会いしてから、ここへ連れて来られるまでの間、なぜだか私と目も合わせず、どこか避けておられるご様子。私を追って来られたというのに、不思議なこと。
しかしさすがに、脱走の現行犯を無視はできません。
「貴女という人は・・・」
ルドルフ様は深い溜息を吐き、頭まで抱えておられました。
「一体、何を考えている? こんなことで、本気で逃げられると思っているのか」
「逃げるつもりなどございませんわ。ちょっと夜のお散歩に出掛けるだけです。ルドルフ様もご一緒にいかが?」
「・・・私がそのような誘いに乗るとでも?」
「ええ、乗りますわ」
私は確信しておりました。
「わざわざ狭いところに閉じ込めなくとも、ここは崖の上の村で、逃げ道などございません。それでも心配なのでしたら、ほら、この通り」
ルドルフ様の手を取ります。
大きく冷たいそれを握りますと、ご本人は火に触れたかのように震えました。
「私を繋いでらしたらいいわ。さ、参りましょう」
「待っ・・・!」
やや強引に、歩き出せば付いて来てくださいました。
しかし背後からは弱ったような声が続きます。
「ラティーシャ、こんなことは許されない。部屋に戻るんだ」
「お断りいたします」
「頼む。貴女に、手荒なまねはしたくない」
まあ紳士なこと。
これまで散々に殺気をぶつけてこられていたというのに、おもしろい方。
なので少しからかうつもりで、悪女の微笑みを投げかけます。
「手荒にしていただいても結構ですわよ?」
「なっ・・・」
「ですが、どうかお散歩が終わってからにしてくださいませ」
か弱い乙女を止めることなど、ルドルフ様には赤子の手をひねるようなものでしょう。
けれどかのお方は呆気に取られたご様子で、私に引っ張られるままでした。
船着き場と反対方向へまっすぐ進み、二つの大きな風車の間を抜け、細い下り坂の先へ。
マーシャさんに教わった通りに道をゆきますと、やがて辿り着きました。
「あぁ・・・ここね」
自然に、感嘆が漏れました。
崖の窪地の一面に、紫色の花の蕾。
葉は細く小さくて、蕾だけが突出して天を向いています。
遠く向こうに切り立つ山。その上に浮かぶ、唯一無二の巨大な満月。
まさしく、おばあ様の絵そのものの光景でした。
心が震え、歓喜します。
その感動を、私は欠片も抑える気なく、荷を投げ出し花園へ飛び込みました。
「ご覧になって!」
月の花は、衝撃を与えると花開く。
今、私が走り抜けた後で、あたかも貴婦人のドレスが風に広がるように、花がほころびてゆきました。
そしてその中心からは、青白く燐光を放つ花粉が舞います。
まるで、花弁の中に月を抱いているかのよう。
ですからこれは、月の花。
おばあ様とお友達が名付けた、とても美しい花です。
「ま、待て、ラティーシャ!」
歩んだ軌跡が、光となって残ってゆく。
私は、自身が妖精となった気分でした。ワルツを舞うように、円を描けば、ほら、妖精の輪。
あぁ、世界はなんて美しい。
なんて、楽しいのでしょう。
「きゃ――」
恍惚と月を見上げましたら、足が何かを引っ掛けてしまいました。
ワルツの途中で、後ろへ体が傾いでゆきます。
私では止めることもできませんので、覚悟して身を硬めておりますと、地面にすれすれのところで二本の腕に抱き留められました。
光の粉が舞い上がり、ルドルフ様の安堵したお顔がよく見えました。
「ありがとうございます」
上体を起こしますと、ルドルフ様は途端に両手を私の体から離します。
先程、手を繋いだ時と同じ。触れてはいけないものに、触れてしまったかのようです。
ルドルフ様は、地べたに座る私の横に片膝をついた状態で、目だけをそらします。
いつもはオブシディアンのような、鋭い光をそこへ宿しているのに。
なぜだか今日は、輝きが鈍っているようです。
世界はこんなにも輝かしいのに。
とても気になってしまい、私はその方へ手を伸ばしました。
「っ・・・!」
「ルドルフ様?」
指先が頬に触れると、素早くお顔を引いてしまいます。なので、次は両手で追いかけました。
もう一度よく、その双眸を見たかったのです。
身を乗り出して、両側からお顔を包みますと、ルドルフ様は逃げ場をなくして俯かれました。
「・・・っ、あ、なたは、なぜ、私に触れるっ」
振り絞るようなお声が聞こえます。
何が、そんなに苦しいのでしょう。
「触れてはいけませんか?」
「・・・ああ。許されない、そんなことは」
「どなたに?」
「すべての者だ。世間のすべてが許さない」
そのまったく無意味な単語に、私は少し笑ってしまいました。
「ねえ、ルドルフ様? ここには誰もおりませんわ」
地面の上で、硬く握り締められている拳に触れます。冷たかった皮膚は、心なしか熱くなっておりました。
「ここは王都から遠く離れた異国の地。あなた様のことも、私のことも、知っている者はおりません。しかも目の前にいる娘は、侯爵令嬢でも王太子の婚約者でもない、ただのラティーシャ。なのに、御身は一体何にこだわっておいでなの? 一体いつまで、なんのために、我慢を続けていらっしゃるの?」
私を追い、私と同じ景色を見て来られたのならば、もうわかっているはずです。
私たちを縛り付けていた世間というものが、いかに狭い場所にいる、特定の人間たちの偏見に満ちたものであったかを。
人生とはそんな彼らのものではなく、どこまでも、私たち自身のものであることを。
きっと、わかっているはず。
すると、おそるおそる、ルドルフ様の指が私の指先に触れました。
やっと上げられたお顔は、相変わらず苦しそう。
私の反応を窺いながら、そろりと頬に触れます。ふふ、くすぐったいわ。
それでも私が逃げないことがおわかりになると、ゆっくり、上体を覆いかぶせるようにして、抱き締めました。
力は徐々に強くなってゆきます。けれど苦しい程ではございません。
肩に彼の頭が寄りかかって、抱かれているというより、どちらかと言えば、縋りつかれているような心地でした。
殿方は時として、ひどく甘えたさんになるのですものね。
今だけは許して差し上げますので、かわりにその姿を私が微笑ましく思ってしまうことも、お許しいただきましょうか。
「・・・なぜ、貴女はこうも容易く触れさせる」
抱き締める力は緩めずに、ルドルフ様は恨めしそうにおっしゃいます。
「私に捕まる気などないくせに」
「ええ。だけど、なぜかしら。今夜のあなた様には、触れられてみたくなったのです」
「・・・本当に、悪女だな」
苦悩の溜息が頭の後ろで聞こえます。
誉め言葉として、ありがたく頂戴しておきましょう。
「ルドルフ様は、私を捕えてどうなさりたいの?」
「・・・わからない」
こちらからもお尋ねしますと、途方に暮れた答えが返って参りました。
「私は、ずっと、貴女が好きだった。初めて見た時から、貴女が殿下の婚約者になろうと・・・どんな非道な振る舞いをしようと、想いを断ち切れなかった。――私は、貴女が欲しい。だが捕えて連れ帰れば貴女を取り上げられてしまう。しかし、逃しても貴女は手に入らない」
ルドルフ様は、自嘲されているようでした。
「私欲に走った罰なのだろうな、これは。どう転んでも貴女は結局、私のものにはならない。私はもう、ただの役目として、貴女を捕えねばならないだけだ」
「――そうですか」
太い鎖が、この方の心と体のあらゆるところに絡みついているのが見えるようです。
どこをどうすれば解けるのかも、ご自身ではおわかりにならないのでしょう。
私の鎖は複雑に絡まる前に、おばあ様が解いてくださいました。
ですから、その後はたとえ体が縛り付けられていようとも、心だけはいつも自由でいられたのです。
けれどこの方は、違う。
真相を明らかとするために私を追う――それが、この方にできた精一杯の我がままだったのでしょう。
たとえ望まぬ結末が見えていても、もう私をそこへ連れて行くことしかできない。
車輪が轍の上を進むしかないように、決まった道を、決まった通りに、生きることしかできない。
因習はどこにでもあると、船の上で聞いた言葉が蘇ります。
生贄の娘がその身を犠牲にするしかなかったことと、社会の中で心を犠牲にするしかないことは、おそらく同じ。
「――ルドルフ様」
広い背中へ、手を回します。
彼は震えました。
それを優しくなだめて、囁く私の顔はきっと、また、悪女のごとくなっていることでしょう。
「どうせ思い通りにならないのなら、このまま、私と逃げませんか?」
誰もいない、夜の花園で。
谷底へと堕ちるよう、私は彼を誘惑したのでした。