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谷渡り

 ごとり、ごとり。


 大きな音を、規則的に響かせながら、ゆったりと船は進みます。

 五十人は乗れる帆船です。

 風がないため帆は畳まれておりますが、なかなかの迫力がございます。歴史を感じる古めかしい木の質感が、実に趣深い。


 しかもこの船、そんじょそこらの船ではございません。

 手すりから顔を覗かせますと、そこに水の姿はなく、霧の満ちた深い谷がございます。

 なんと、私は今、空中を船で渡っているのです。


 地元では『谷渡り』と呼ばれている、人気の観光スポットです。

 谷の間に鉄の橋がかけられて、その上を車輪の付いた船が行き来するのです。風がある時は帆を広げて進みますが、本日のような無風の時は、船員の方が船の前後にあるハンドルを回し、車輪を動かしています。


 本来は谷の向こうの村へ物資を届けるだけの貨物船でしたが、現在では観光客を喜ばせる遊覧船としての仕事のほうがメインとなっているようです。

 船には私と同様に、谷渡りを目当てにやって来た旅人が大勢乗っておりました。


「谷渡りの村にはね、五十年ほど前まで悲しい因習があったんだ」


 谷の景色を眺めながら、私の隣にいらっしゃる男性が、連れの女性にお話ししている内容が聞こえてきます。

 カップルの旅人でしょうか。男性のほうは少々年配の方で、とっても渋くて良いお声をお持ちです。女性のほうは線の細い、少女のような愛らしい顔立ちの方で、男性のお話に素直に首を傾げておられました。


「因習?」

「ああ。村は崖の上にあって、いつも風が吹いている。村人たちはその風を、例えばこの船のような、様々なことの動力に利用していたんだ。風は生活の役に立ち、悪い気を遠ざける、神の息吹であると彼らは信じていた。だが何年かに一度、風がやんでしまうことがあったんだ。まるで今日のようにね」

「風がやむことくらい、たまにはあるでしょう?」


 何も不思議ではないと、女性はきょとんとしています。男性はそれを見て、愛おしそうに笑っていました。


「その通り。だが村人たちは、風がやむと神の加護を失うと思い、ひどく恐れていたんだ。彼らは風を吹かせるために数年に一度、村の娘を生贄として捧げていた」

「生贄って・・・具体的には、どういう」

「谷へ落とすんだ。ちょうどこの下にね」


 男性が船の下を指し、女性は悲鳴を上げて男性の腕に抱きつきました。

 仲がおよろしいこと。


「彼らの崇めていた神は、谷底に棲んでいる竜であると伝えられている。乙女を竜に捧げると、風が吹いて途端に谷の霧が晴れたそうだ」

「たまたまでしょうに」

「偶然が続けば意味があるように見えてしまう。外界と切り離された小さな村で、人々が因習に囚われてしまうのは仕方のないことだ。世界中のどこでも、そういうことはよくあるよ」


 そう、よくあること――で、片付けるには、少々重い話ではございます。人の命ですからね。

 それにしても、お隣は色々とお詳しい方のようです。ちょっと話しかけてみようかしら? でもお邪魔になってしまうかしら。

 迷っておりますと、反対側のお隣から何か聞こえて参りました。


「――飛べ、飛べ、乙女、恐れるな」


 スカーフを頭に巻いている、素敵な老婦人がそこにいらっしゃいます。

 谷を眺め、かすかな声で歌っていました。


「谷底にこそ、楽園ぞある」


 すぐ傍にいなければ、聞こえないほど小さな歌声です。よって彼女のほうを振り返ったのは、私一人だけでした。

 目が合うと、彼女は無邪気な笑みを見せました。きれいな歯です。お顔立ちはやや扁平で、浅黒い肌に緑色の瞳がとても美しく映えておりました。


「これは生贄を捧げる時の歌なのよ」


 こちらからお尋ねする前に、老婦人は教えてくださいました。


「村人たちはこれを歌って、生贄の娘を崖へ追い立てたの」

「随分と調子の良い歌ですのね?」

「そうよ。だって神に捧げられることは栄誉だったのだもの」


 どうやら、こちらもお詳しい方のようです。見たところお一人様のようでしたので、私はこちらのご婦人とお話しすることといたしました。


「今の若い人には信じられないでしょうけれど、死が救いとされていた時代だったの。娘たちが身を捧げることで、皆が救われた。尊いことだったのよ」

「美しい自己犠牲の精神というわけですね」

「ええ本当に、忌まわしい」


 笑みは変わらず、ご婦人は吐き捨てるようにおっしゃいました。

 自己犠牲とはとてもきれいな響き。大抵の場合、それは周囲に強いられるものですのに。そんな背景を白く塗り潰し、美談に変えてくださる魔法の言葉です。


「ですが、救いというのは少しだけわかる気がいたしますわ」


 乙女たちの落ちた霧の底を、覗いてみます。何があるのか、さっぱり見えません。


「もし、私が生贄の娘だったのなら――私の死を望む人々しかいない場所に留まるくらいなら、谷底に楽園があることを信じて飛び降ります」


 底に辿り着くまでの、ほんの瞬き程の間でも、あらゆるしがらみを逃れて自由になれる。それは紛れもなく救いです。

 真に楽園があろうが、あるまいが、私は一瞬の自由のために、きっと両手を広げて飛んだことでしょう。


「勇敢なお嬢さんね」


 老婦人は少々驚かれたような、そしてどこか嬉しそうな、はしゃいだ声を出しました。


「あなた、私のお友達に似ているわ」

「あら。一体どんな方なのでしょう」

「とっても美しい人よ。私に本当の勇気を教えてくれたの。ねえ、あなたのお名前はなんというの?」

「ラティーシャと申します」

「ラティーシャ、あなたはなぜここに来たの? 谷渡りをするため?」

「ええ。それと、《月の花》を見に」


 《月の花》はおばあ様の絵に描かれていたものの一つ。

 妖精の飛ぶ夜の川の次に、私が大好きだった風景です。

 谷渡りの村に咲いていると聞いておりましたが、船の中でその話をされている方はいません。谷渡りのインパクトが強く、珍かな花はまだあまり有名でないのかもしれません。


 これらの話をご婦人にしますと、彼女はもう、満面の笑みでした。


「まあ! そうなの、そうだったの」


 皺の寄った目じりに涙すら浮かべて、彼女は確かに歓喜していました。


「ねえラティーシャ、私の秘密を教えてあげる。月の花が咲く場所もよ。聞きたいかしら?」

「ぜひ」


 ご婦人は私の耳元に唇を寄せて、それからとても素敵なお話を聞かせてくださいました。

 胸が震え、心が温かくなるお話です。

 聞き終わった時、私は彼女の両手を握りました。彼女も、私の指にキスをしました。


 そうするうちに、船は谷の向こう側へと着きます。

 帆先に近い場所に降船口があり、乗客は順番にゆっくりと、梯子を下りてゆきます。

 下りた先では、村人でしょうか、手を振って歓迎してくださる方がたくさんいました。もうすっかり、因習に支配された閉鎖的な村ではなくなっているようです。


 間もなく夕暮れ。本日の船の運航も終わりです。

 これから観光客向けのお宿を探し、夜には月の花を見に行く予定でしたが、そんな私の手を老婦人は変わらず握っていました。


「私の家においでなさいな。あなたともっとお話ししたいわ」

「私もです」


 では、お言葉に甘えて―――と続けようとしたところで、私は見つけてしまいました。

 いえ、正確には、見つかってしまいました。

 出迎えの村人たちの輪に交じり、深緑色のマントをした方々がおられます。そちらはすでに、こちらへまっすぐ向かわれていました。


「・・・ラティーシャ」


 いつの間にか、私の行きそうな場所を把握されていたのでしょうか。

 けれどなぜか嬉しそうではなく、何やら沈痛な面持ちのルドルフ様がいらっしゃいます。


「ラティーシャ?」

「ごめんなさい、マーシャさん」


 怪訝そうに私とルドルフ様を見比べる彼女に、謝りました。


「私はこの方と行かねばならないようです」

「どなたなの?」

「私を捕えに来た方ですわ」

「まあ」


 マーシャさんは思わず開いた口を、手で覆います。


「あなたは悪い人だったの?」

「ええ、極悪人ですの」

「ますますあの子と同じね」


 彼女が楽しそうにくすくす笑うので、私も笑みが浮かびました。


「せっかくお誘いいただいたのに、ごめんなさい。またどこかで巡り会えることを祈っておりますわ」

「そうね。いつか、また」


 マーシャさんに手を振って、私はルドルフ様たちに連行されたのでした。

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