非、現実から現実へー1
何だかとても温かい…
さっきまであんなに寒かったのに、急にどうしてだろう?
まあ、いっか、温かければ…
一度眠りに落ちた意識は浮上することなく、自分を包み込んだぬくもりに甘えるように私はそのまま微睡み続けた。
何だか、落ち着く香りがする。
これは…タバコ…?
嗜好品の1つとしてよく嗜まれる、独特な煙の匂いを嗅いだ気がして、ふっと体から力が抜けた。
日本に戻りたい…というような帰巣本能はないものの、1人でいるというのはやはりどこか心許ない。そんな時によく知った匂いがしてなんとなく安堵してしまった。
家族の記憶も、友人の記憶も、自分のことさえも未だにわからないけれど、そこに今はあまり恐怖は感じない。
むしろ記憶がないということは功をせいしているのか、日本が恋しいというわけでもなかった。
その代わりに、今この現実においての「1人」という状態がひどく心細かった。
たとえ日本に戻れたとしても、自分が誰だかわからなければ今あるこの状況とあまり変わらないだろうと思う。
いや、もしかしたら記憶が戻ってハッピーエンドになるかもしれないけど____。
それに勿論、命の危険がない治安の良さ、安全面では日本の方が勝るだろう。
けれど「日本」という場所に対して故郷だとか、そんな温かい気持ちはこれっぽっちも湧かなかった。
ただひたすらに、この現状をどうやって生きて行くか、「黒」というハンデを持ちながらどう生きていけばいいか、それだけが頭の中でグルグルしていた。
そんな緊迫した中寝たせいか、浅い微睡みの中をずっと彷徨っていたのだ。
そこに温かさや知った匂いを嗅いだことで、固くなっていた体から力が抜ける。
誰かが頭を撫でてくれたような気もするけど、気のせいかな?
もしかしたらこの小屋の持ち主が帰ってきたのだろうか。
でもお願い、もう少しこのまま寝かせてほしい。
やっと、心から安心して眠れそうだから…
頭に感じる温もりにそう願いながら、私はもっと深い眠りの世界に落ちていった。
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「ん…」
ふと目元に感じた柔らかい光に、徐々に意識が持ち上がって行く。
うっすらと目を開ければ、朝日が窓から一直線に自分の顔を照らしていた。
昨日聞いた小鳥のさえずりも聞こえてきて、すっかりこの世界は朝を迎えたらしい。
自分の身に何も起きていない奇跡に感謝感謝。
瞬きを何度か繰り返しその陽光に目を慣らして、何となく自分の置かれた状況を思い出す。
(そうだ、なんだかよく分からないところに来て…それから、寝たんだっけか…。)
自分の図太さに感心しつつ、ゆっくりと上半身を起こしてあたりを見回す。
寝る前と変わらない視線の低さと藁の寝床に、ああ、夢ではないのだなと改めて現実を目の当たりにした。
いわゆる絶望的な状況というやつだ…。たぶん。
人は頭で捉えきれない量の非現実と向き合うと、一回りして冷静になる。
ふうと息をついて、ゆっくりと視線を持ち上げた。
そして転がり込んでしまったこの小屋を改めて見渡してみた。
昨日から変わったことは…
「?」
そうして自分の手元に目線をやって初めて気がついた。
これは…誰かの、上着?だろうか?
およそ日本ではあまりみなくなったローブのような…、マントのような上着が自分の上に掛けられていた。
微睡みの中で寒さが温かさに変わったのはこの上着のおかげに違いない。
今の私が着ればズルズルと裾を引きずってしまうくらいの丈の上着を握りしめて、出来うる限り広げてみる。
ところどころ薄汚れているあたり、普段使いのもののようだけれど…
この小屋の持ち主が掛けてくれたのだろうか?
なら____…。
「持ち主…は?」
勝手に人の家に入ってふてぶてしく爆睡していたにも関わらず、起こさずにいてくれた存在にお礼を言わなくては…
そう思うものの、その肝心の持ち主がこの小屋には見当たらない…。
どこかに出掛けたのだろうか?
すると微かに小屋の外からカンッカンッと規則的な音が聞こえてくる。
そういえば昨日探索した時、小屋の裏側に薪割り場があったような…??
居場所がわかれば後は簡単で、私は迷うことなく立ち上がった。素足に優しく藁が触ってむず痒さを感じながら、大きく伸びをした。
(うん、いい朝だ…)
立ち上がって畳むために上着を広げてみるとやっぱり自分より一回り、二回りも大きいことがわかる。両腕を持ち上げて裾を床に擦らないようにしてみても、上着の布はだらしなく床についてしまった。
私は一体どれほど小さくなってしまったのやら…
汚さないように藁の上に丁寧に上着を広げて折りたたんでいく。
小さい体だと裾の端と端を合わせるだけでも一苦労だった…何と不便であることか。
畳んでいた時、ところどころ上着の布の質感が違うことに気がついた。何だか部分部分で異様にパキパキとしているような?…
手の感覚をたよりに違和感のある場所をめくってみるとかつては赤黒かったであろう焦げ茶色のシミが広がっていた。
「…血?」
恐怖よりも先に、至る所にそのシミが広がっていることに驚く。
これが人の血なのか、はたまたこの世界に住む何かしらの生き物、もしくは動物の血なのか定かではないが、裾の端や袖の部分に多くシミが点在していた。
(えっと…破けているところは、______ない。)
急いで確認してみたが、この上着に破れている部分はない。
長い間愛用しているのか、それですり切れたと思われるようなところはあるけれど、この上着の持ち主が傷を負ったと思われるような上着の傷は見当たらなかった。
そのことにホッと息を吐き、再びたたみ始める。
何故これだけの血の跡を見て怯えたり、恐怖を抱かないかが自分でも不思議なくらいだが、微睡みの中感じたあの温かさは確かに本物であったし、もし上着の主が悪い人であったなら、とっくの昔に私は死んでいるか、はたまた売られるなりしていたと思うのだ。
血のりを見ただけでその人の人格までも図るというのは、浅はかだと…そう思う。
______思いたい。
そうしてせっせと小さい体を動かして丁寧に上着を畳んでいく。
やっと自分の身長でも抱えられるくらいの大きさになった上着をしっかりと胸に抱き、小屋の入り口へ向かった。ふと視線を巡らせると、机の上に私が抱えていたはずの歴史書と絵本がある。
きっと寝ている間にぐしゃぐしゃにならないように避けてくれたのだろう。
そんなことまでもさせてしまったのか、と申し訳なく思いながら、そのこともお礼を言おうと再び戸口に足を進めた。
外に出てみるとより薪を割っている音がよく響いて聞こえてくる。
薪割りの音に私が扉を開け閉めした音も消されてしまって、きっと向こうにいる人には聞こえていない。
ここにきてから初めて他の人と会う…緊張して喉がからからだ。いや、昨日から水を飲めていないからそのせいかもしれないけど…。
___________もし、悪い人だったらどうしよう…
さっきは決めつけてはいけないと思ったけど、万が一、いや、もしかしたら悪い人という可能性の方が高いのではないか?
別世界の住人をそう容易く信用してもいいのだろうか?
そう頭は暗い方向ばかりに思考がいってしまって、ついには扉の前からなかなか動き出せなくなってしまった。
(どうしよう、お礼は言いたいけれど、もし…)
捉えた視線の先には、地面に素足で立つ小さな自分の足。
どうしようも動けなくなってしまって、その小さな足の指で土をいじりを始めてしまう。
そして俯きその場に立ちすくんだ…。
そうしてどれくらい時間が経ったのか…
起き抜けに出てきた時よりも太陽の位置が上にある気がする。
いかなくちゃ…
いい加減にしないと、と覚悟を決めたその時、優しく私に降り注いでいた陽光が大きな影に遮られた。
驚いて顔を上げるとそこには黒に近い紫色の髪を持った壮年の男が立っていた。
だいたい40半ばか後半くらいだろうか?
じっと見下ろされているけれど、その視線に悪意は感じない。
私は自然と胸に固く抱き込んでいた上着を持ち主の方へ差し出した。
その間、私の視線とその人の視線が外れることはない。
じっとお互い見つめ合ったまま。
目の前にいる男に上着を差し出している状態のまま数秒、男はゆっくりと右手を伸ばし上着を受け取った。そのとき少しばかりびくついてしまったけれど、それは反射のようなもので、この男が怖いからとかそんな理由では決してない。
「…起きたか」
温かい声だと思った。少しばかり掠れていて…でもそれも耳障りな音ではなくて落ち着いた、低めの優しい声色だ。
そして髪と同じ色の瞳が私の瞳を覗き込む。この人も暗い色だからきっと私と同じで魔力はないのかもしれない。
低くどっしりとした声が私を案ずるように問いかけ、私はそれにうなずいてみせた。
「あの…ありがとうございました。」
お礼を言えば男は意味が分からなさそうに首を傾げる。だから、上着を指差してもう一度言った。
「上着、かけて下さったと思うので…」
「…あぁ。いや、そんな薄着でここの夜を過ごすのは無理だと思ったからだ。」
俺の小屋で子供が死なれては寝覚めが悪い、とそう言っていたけれど、心無しか首筋と耳が赤くなっていることにこの人は気づいているのだろうか?
(照れ屋…かな)
気分を害したようではないので、私もうなずくことで返事をする。
外で立ち話を続けるのも何なので、中に入って私の事情を聞くこととなった。
前を行く男が扉を開けて中に即してくれるけれど、今から私が言おうとしていることをこの人は信じてくれるだろうか?
どこの誰かも分からない、恐らくこの世界には存在しない「日本」から来た私のことを…
太陽の光でしか照らされていない小屋の中は、昨日と違って鬱々と感じる。気の持ち方次第でこんなにも景色が変わって見えることに驚きながら、内心は不安と恐怖でいっぱいになっていた。
即されたまま中に入り、藁の上に座れと指示を受ける。
テーブルとセットになっている椅子は一脚しかないため、話をするのには向いていないと思ったのだろう。
そして私にゆっくりと近づき、男も目線の高さを合わせてしゃがんでくれた。
さっき返した上着は男の足下に置かれていて、私は男の顔が見れないからそればかりじっと見つめていた。
「…で、お前はどこから来た。何故こんなところにいる。」
「…。」
随分と単刀直入だ。少しの雑談も緊張を解くための少しの間もないらしい。
何から話し始めたら正解なのか、どうしたらこの人に伝わるのか、どうやったら信じてもらえるのか、こんなに小さくなってしまった私では頭の処理能力がとてもじゃないけど追い付かなくて…。
自然と目元が熱くなった。
「ぅっ…」
「ッ!!??っいや、責めてる訳じゃ、な…、違う怖がらせたい訳じゃなくて…だな…」
目頭が熱くなってポロポロと涙が溢れ出す私を見て男が焦り出す。
____いや、本当に申し訳ない。
子供だからかどうも情調不安定な気がする。本当の自分はきっと十分に大人であるはずなのだ、こういった自覚を持ってしまっている時点で…。
だから大人であるはずの私が、同じ大人の、しかも超がつくほどの年上の異性に泣き顔をさらす等、心中、羞恥でいっぱいだ。
しかもそれで、相手を困らせているとなればなおのこと、私はいたたまれなくて申し訳なくなる。それがまた勝手に涙腺を緩ませて涙を流すのだから、子どもの私ではもうどうにもできなかった。
「あー、悪い。悪かったから…ほら」
「っく…ひくっ」
無骨で固い男の手が不器用そうに自分の頭の上を撫でていく。
到底、子供とは縁がなさそうな人だ。
撫でるということ自体初めてなのかもしれない。そんな不器用さが手の動きから伝わった。それでも必死に彼なりに慰めようとしているのは、彼自身が優しい人間であるということを証明しているに他ならないと思う。
(この、小屋に泊まってよかった…)
喉をひくつかせながら私は、眉をしかめる男の顔を見つめた。